白い檻

 坂上の父親は稲佐村中心地から車で30分ほど行ったところの山間部にある従業員50人ほどの小さな自動車部品メーカーに勤めており、主にワイヤーハーネスを製造する業務に携わっているらしい。


 彼の父親が属している製造課という部署は取引先からの膨大な注文と短納期といった高い要求に応えるために3つのシフトに区切り、それぞれ交代しながら働く3交代の勤務形態を採っている。当然ながらこちらに引っ越してからの坂上家の生活リズムは不規則なものになった。日が出ている内に眠りにつき、月が顔を出している間に働かなければならない日もざらにあるようだった。


「縋り付くものがアルコール以外、何もないんだよな」


 坂上は川面にじっと視線を落としながら面倒くさそうに言った。


 帰り道の途中、僕らは河川敷に立ち寄っていた。夕暮れの時の鹿野川はまるでガラス片を散らしたみたいな無垢な輝きを辺り一面に振りまいている。坂上は小石を拾うと川面に向かって思いっきり石を投げた。石は2度ほど水面を跳ねたが、向こう岸までたどり着くことはなかった。石はそのままあっけなく川の底に沈んでいった。


「馬鹿みたいに呑んで、騒いで、酔っぱらって、気絶したように眠る。毎日が同じことの繰り返しなんだぜ。見てるこっちまで気が滅入ってくるよ」


 そのまま死んだらウケるよな。ため息交じりにそう口にする坂上の声には痛ましげな響きが伴っていた。


「それにしても本当に何もない場所だよな。こっちに越してきてから毎日が暇で暇で仕方ねぇよ。あーあ、その辺の茂みから腐ったオッサンの死体とか出てきたりとか何か面白いこととか起きたりしねぇかなぁー」


「ほんとうに出てきたらどうするの?」


 僕がそう尋ねると坂上は「写真撮って、どっかのマニアに売りつける」と冗談とも本気ともつかない顔で答えた。坂上が言うには世の中にはこういう悪趣味なものを高値で買い取る変態趣味を持つ人間がウヨウヨいるらしい。坂上にもそういう趣味があるのだろうか。僕は目の前の転校生が急に得体の知れない存在のように思えてきて少し怖くなった。


「通報はしないの?」


「しない」


「どうして?」


「そのままにしておいたほうが面白そうだから」


 あまりにもあけすけな物言いに僕は返す言葉を失った。坂上は、身近に転がっていた石を手に取ると川に向かって力いっぱいに放り投げた。曲線を描くように放り投げられた石は緩やかな川の流れの中に音もなく消えていった。会話が途切れる。息の詰まるような沈黙の時間が続く。返す言葉がなかなか見つからず困り果てていると、手についている泥をはたき落としながら坂上は「冗談だよ。冗談」と言った。


 嘘をついている、と思った。それは彼の目を見ればすぐに分かることだった。あの目は本当にそうなることを願っている人間がする目だ。いつも何かに耐え忍んでいる人間の目。母と同じ目。僕には彼が怒っているように見えた。何故そう思ってしまったのか、自分でも分からない。答え合わせの機会はすぐ訪れた。


「俺の親父さ」


 足元に転がっている石を蹴飛ばしながら坂上は続ける。


「勤めている会社から解雇されちまってな。早い話、リストラされたんだよ。それから親父は親父なりに一生懸命、求職活動してたみたいなんだけど、何せこの不況だろ? だからなかなか次に結びつかなくてさ。このまま貯金を切り崩していくわけにもいかないから、伯父さんに就職先を斡旋してもらって、それで現在に至るってワケ」


 手持ちの石が無くなった坂上は水切りするのに適した扁平な小石を探しはじめた。ああ、なるほど。坂上はそのことで怒っているのか。自分の父を解雇した会社に、情けない父親に、少しずつ貯金を切り崩していく惨めな生活に、自分を取り巻く環境に坂上は憤っているのだ。


 本心では理不尽に傷ついた手負いの自分に共感して欲しいのに、彼はそれを素直に認めることができずにいる。認めてしまえば真実になってしまう。プライドの高そうな彼のことだから、それはそれで屈辱的なのだろう。だから彼は怒りという形でしか自らの感情を外に出すことができずにいる。


「なんか最近さ。自分の人生を生きてないって感じがするんだよな。何かが間違っている。でも、そのが何なのか俺には分からない。イライラするんだ。誰彼構わず当たり散らしてやりたくなる。ほら、人生ゲームってあるだろ? ルーレットを回してクルマの形をしたコマをゴールまで進めるヤツ。感覚としてはちょうどあんな感じなんだよ。誰かに自分の人生をゲーム感覚で弄ばれているような、俺というキャラクターを俺ではない誰かが操作しているような……。そいつから俺はゲームのプレイヤーじゃないって言われている気がするんだ。お前はあくまでゲームで遊ぶためのコマに過ぎないんだって」


 ゲームで遊ぶのは俺なのに、と彼は川のせせらぎにも負けてしまいそうなほど小さな声で呟くように言った。


「すまん。忘れてくれ。意味分かんねぇよな。こんな話……」


「分かるよ」


 僕には分かる。そして知っている。僕らを陰で操り、もてあそんでいるのは神様だってことを。


「なんとなくだけどね」


 僕がそう言うと坂上は少し残念そうな表情を浮かべて「なんとなくか」と鼻で笑う。 


「でも、それはどうしようもないことだと僕は思うな」


「どうしようもないこと?」


「要するに坂上は今の現状に満足できてないんだよ。 それは僕もそうだからね。だから坂上の気持ちはよく分かるんだ。 でも僕たちは無力で、ただの子供だ。自分の力だけで生きることさえできない。だから周りの環境に流されるようにして生きていくしかないんだ。少なくとも大人になるまでは、そうなんだろうと思う」


「大人になれば自分の力だけで流れを変えることはできるのか?」


「分からない……。でも好むと好まざるとにかかわらず、変えざるをえない瞬間はやってくるんじゃないかな。そういうのって」


「そういうものなのか?」


「多分、そういうものだよ」


「それもなんとなくか?」


「なんとなくだよ」


「そうか。そうだよな」


 そして彼は再び、水切り遊びに適した手ごろな石を探し始めた。坂上が水切り遊びに興じている間、僕は近くのベンチに腰をおろして目が痛くなるような赤色をした夕暮れ時の空を見上げていた。赤ペンキをぶちまけたような空には真っ白で美しい飛行機雲がかかっていた。



 その後も彼からはいろいろな話を聞かされた。求職活動中に彼の父親と母親が離婚したこと。自分の親権をめぐって激しい言い争いが長きにわたって行われたこと。


 ストレスのはけ口として利用されているだけだということは分かっていた。しかしそれを分かっていながらも彼の愚痴に付き合い続けたのは、こんな僕にでもまだ誰かに利用されるだけの価値があるのだと思いたかったからだ。


 ◆◆◆◆


 夕日が地平線の彼方に消えたので家に帰ることにした。白い息を吐きながら、すっかり暗くなった夜道を30分ほど歩いていると突然、坂上が口を開いた。


「あれが俺の家だ」


 坂上の視線をたどるとそこには何の変哲もない2階建ての古びた白いアパートが見えた。閑静な住宅街からやや離れた、車も滅多に通らないような場所に彼の家はあった。道路を挟んだ斜め向かい側には赤い雨除けのテントが特徴的な大橋タバコ店と24時間休まず営業している無人のコインランドリーが肩を寄せ合うように並んでいる。アパートは、結核患者を収容するためのサナトリウムをどこか彷彿とさせる外観をしていた。煤けた色をしているはずのアパートが月明かりに照らされ薄闇のなかで白く輝いている。まるで白い檻のようだった。


「それじゃあ、また明日。学校でな」


 坂上は僕の顔を見ながら言った。


「明日は土曜日だから学校は休みだよ」


 僕がそう言うと坂上は照れくさそうに頬を掻きながら笑った。


 僕らは簡単な別れの挨拶を済ませると、それぞれの持ち場へと戻ることにした。坂上はそのままアパートへ、僕は彼とは反対の方角に向かって歩き始めた。赤かった空が、いつの間にか青黒い色に染まりはじめていた。そこかしこの家々から夕飯の匂いが漂い、西の空には先ほど坂上が川に向かって放り投げていた石のように丸い月が浮かんでいた。


 僕は夜空に浮かぶ月を見ながら思った。太陽は親で、月はその子供だ。月と太陽の関係は人間の親と子の関係性と、どこか通ずるものがある。月は太陽の光を受けて輝いているのであって自らの力で輝いているわけではない。月は、それだけでは茫漠ぼうばくたる宇宙の海を漂っているだけの、硬くて冷たい、ただのチンケな石ころでしかないのだ。太陽という存在がなければ、月はきっと月のままではいられない。

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