仕事もらいました 1

「もう一か月か……」


 宰相クラウス・アデルバード公爵は、カレンダーを睨んで、はあ、と息を吐いた。

 カレンダーの過去の日付にはすべて×が入れられていて、それが今日で三十日目だ。


「これを陛下に。今日の仕事はこれだけだったな」


 側近に書類を渡し、このあとの予定を確認すると、側近からはこのあとは余暇だと回答がある。

 クラウスは頷いて執務机から立ち上がると、部屋を出てまっすぐ末の弟の部屋へ向かった。


「リシャール、入るぞ」


 十八歳年の離れた末の弟の部屋の扉を叩くが返事がなく、クラウスは断りを入れて扉を開ける。

 すると、十歳の弟は窓際に立てかけたキャンバスに、一心不乱に筆を走らせていた。

 部屋には絵の具の油の匂いが充満していて、あちこちに完成した絵が散らばっている。


(相変わらず、すごい集中力だな……)


 集中しているときのリシャールは、横でどれだけ声をかけようとも、まったく反応が返ってこない。

 仕方なく、クラウスはソファに腰を下ろして、絵を描く弟の横顔を見つめた。


 リシャールの側近のエルビスがメイドを呼んでクラウスのためにティーセットを用意してくれる。彼もリシャールが一度絵を描きはじめたらしばらくはそのままだとわかっているので、淡い苦笑いを浮かべていた。


 クラウスは床に散らばっている絵に視線を落として、僅かに眉を寄せる。

 十歳の幼い子供が描いたとは思えない繊細かつ美しい絵。

 その中には窓から眺めた城の庭の景色もあったが、どうしてだろう、実際に自分の目で見るよりもリシャールの絵で見た方が、何倍も美しく鮮やかに見える。


(リシャールにはこう見えているのか。本当にこの子は感受性が豊かだ。豊かすぎるくらいに……)


 繊細で、人の感情の機微に敏く、だからこそ傷つきやすい。

 しかしその実、苛烈で情熱的な一面があることをクラウスは知っている。

 そして、クラウスでさえ舌を巻くほど賢く、優れている弟。


(これでジョージル兄上ほど図太い性格をしていたらいい王になれただろう)


 四人いる兄弟の中で、一番王に向いている。名君と名高かった退位した父エルネストにそう言わしめたリシャールは、しかし、ある時から自分の殻に閉じこもってしまった。


 その原因を知っているからこそ、クラウスは弟の心を守り切れなかった自分を恥じて、後悔し、どうにかしてリシャールの心の傷を癒したいと望んでいるけれど、クラウスがどれだけ頑張ろうとも、おそらくリシャールが城にいる限りそれは難しいとも理解している。


(今描いているのは抽象画か……)


 風景ばかり描いているリシャールにしては珍しい。なんとなく気になって遠目からキャンバスを覗き込んでいると、唐突にリシャールが筆をおいた。

 そして、物憂げなため息を一つ落とす。


「煮詰まったのか?」


 クラウスが声をかけると、リシャールは弾かれたように振り返った。


「兄上? 来ていたの?」

「少し前にな」


 髪色はクラウスと同じ銀色だが、碧眼のクラウスとは違い、リシャールは綺麗な紺色をしている。その目を丸く見開いて、リシャールはソファまで歩いてくると、クラウスの前に座った。


「声をかけてくれればよかったのに」

「かけたさ。お前が気づかなかっただけだ」

「それは……ごめんなさい」


 集中していると周りが見えなくなる自覚はあるのか、リシャールが肩をすくめる。

 エルビスがリシャールの分のティーセットを用意させると、濡れたタオルで手を拭いたリシャールは、クッキーを一枚口に入れた。


「何か用事?」

「いや……そういうわけではないんだが……」


 リシャールが部屋に閉じこもって一か月。滅多に外に出ない弟だが、さすがに何かしらの理由をつけて連れ出した方がいいだろうと思いやって来たけれど、いい誘い文句が浮かばない。

 リシャールがクラウスの顔をじっと見つめて、それからくすりと笑った。


「心配してくれてありがとう、兄上」

「ああ……」


 クラウスがうまく言えないから、弟に気を遣わせてしまった。

 クラウスは自己嫌悪に陥りながら、こうなれば回りくどいことをせずに単刀直入に訊こうと口を開く。


「リシャール。どこか行きたいところはないのか? 午後からあきができたんだ。行きたいところがあれば連れて行ってやるぞ」

「うーん……特には……」

「たまには気晴らしをした方が、いい絵が描けるかもしれないぞ」

「そうだねえ……」


 リシャールはちらりと描きかけのキャンバスを振り返った。


「確かに、今描いている絵はしっくりこないんだけど……」

「それならばなおのこと、外に出てみるといい」


 十回誘って九回は必ず撃沈するクラウスは、リシャールの小さな迷いを見逃さなかった。これはいつもよりも手ごたえがある。上手く誘えば、乗ってくれるかもしれない。


「どこでもいいぞ。公園だろうと、劇場だろうと、どこでも連れていってやる」

「うーん……」

「王都の南の川には、そろそろ渡り鳥が来る頃だ」

「ふふ、兄上、鳥好きだもんね。せっかく余暇ができたんだし、僕のことはいいから、見に行っておいでよ」


 しまった。誘い方を間違えた。クラウスは頭を抱えたくなったが、ここで引き下がるわけにはいかない。さすがに一か月も部屋に閉じこもっているのは体に悪すぎる。今日は何が何でも連れ出すのだ。

 クラウスが内心で慌てていると、見かねたようにエルビスが口を挟んだ。


「そう言えば、美術館で新人作家コンテストの、入賞作品の展示会がはじまりましたね」


 リシャールがハッとしたように顔をあげた。


(エルビス、さすがだ!)


 実の兄よりも側近の方が弟の好みに詳しいのは少々癪だが、これは乗っからない手はない。


「展示期間は一か月だったな。早く行かないと見逃すことになるぞ。見たかったんだろう?」

「うん……」


 はじめて、リシャールの顔に迷いが現れた。結構ぐらぐら揺れているのがわかる。あともう一息だ。


「ついでに美術館の近くの画材店で絵の具も買って帰ろう。ええっと……あれだ! 何とかという鉱物から作られた青緑色がほしいと……」

「孔雀石ね。持っているんだけど、残りが少なくなったから」

「よし、買って帰ろう。ほかにもほしいものがあれば何でも買ってやるぞ」

「じゃあ、新しい筆もほしいかな」

「わかった」


 クラウスは心の中でガッツポーズをした。一か月ぶりに、ようやく弟が外に出る気になった。


「それではお召し物を変えましょう。絵の具で汚れていますからね」


 エルビスがくすくすと笑いながら、リシャールを着替えさせる。

 外で氷の宰相と恐れられている自分が、年の離れた弟相手に四苦八苦しているとは誰も思わないだろうなと思いながら、クラウスは新しいシャツに袖を通しているリシャールを見て、ホッと息を吐きだした。



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