一人で生きていくためには 1

 婚約破棄から六年――


 レナ・クレイモランはもうじき二十二歳の誕生日を迎える。


「姉様、早く朝ご飯を食べてよ。今日、ベティ伯母様がくるらしいよ!」


 ドレスに着替えていると十二歳の弟アレックスの声が階下から聞こえてくる。その数秒後、メイドのキャサリンがレナの部屋の扉をノックした。


「お嬢様、旦那様がお呼び……って! だからどうして、着替えるなら呼んでくださらないんですか!」


 四苦八苦しながらドレスを着替えているレナを見て、キャサリンが目をつり上げた。

 クレイモラン伯爵家はそれほど裕福な家ではないので、侍女は雇っていない。メイドも、キャサリンのほかにキッチンメイドがいるだけだ。執事なんてお金のかかる使用人はもちろんいない。


「一人でできることは一人でしないとね。ああ、悪いんだけどキャサリン、背中のリボンを結んでくれない?」

「ドレスは一人で着られませんといつも言っているでしょう? コルセットはどうなさったんですか?」

「面倒くさいからつけていないわ」

「ダメですってば! アレックス様のお声が聞こえたと思いますけど、本日、エスター子爵夫人がいらっしゃるんですから、怒られますよ!」


 エスター子爵夫人ベティは、父の姉だ。母親を亡くしたレナやアレックスを心配して、何かと世話を焼いてくれる親切な伯母だが、口うるさいのが玉に瑕だった。


「ばれやしないわよ」

「胸の位置が変わりますから絶対にわかります!」

「……あ、そう」


 まだ胸が垂れるような年齢じゃないのにと思いながら、レナはあまり豊かでない自分の胸元に視線を落とす。


(コルセット、苦しいから嫌なんだけど……)


 仕方なく、レナは一度ドレスを脱いで、キャサリンに手伝ってもらいながらコルセットをしめた。

 身支度をすませて階下に降りると、父がどこかそわそわした様子で、レナは首をひねる。


「お父様、どうしたの?」

「あ、いや、レナ……その、気分を害さないで聞いてくれ」


 レナがダイニングテーブルに着くと、朝食が運ばれてくる。アレックスと父はすでに食べはじめていたようだが、父の前に並べられている食事はほとんど手が付けられていなかった。


「今日、姉上が来るんだが」

「ええ、アレックスの声が聞こえたから知っているわ」


 温野菜のサラダを口に入れて咀嚼しながら頷く。

 ベティが来るのは珍しいことでもないのに、改まってどうしたのだろう。

 父は言いにくそうに頭をかいて、それから大きく息を吸い込むと、決心したように口を開いた。


「その……姉上は、お前に見合いさせるつもりらしい」

「は? 何ですって⁉」

「きゅ、急に見合い相手を連れてくるのだけはやめてくれと頼んだから、おそらく釣書だけ持って来るだろうが……とにかく、お前も、心づもりを……」

「馬鹿言わないでよ! お父様だって、わたしが結婚しないって決めているのは知ってるでしょ?」

「そ、そうなんだが……姉上は一度言い出すと聞かないから……」

「自分の姉なんだからどうにかしてよ!」


 そう言ったものの、レナにもベティが自分が決めたことをあっさり曲げるような性格ではないことくらい知っていた。


「とにかく、わたしはもう懲りたの! 誰とも婚約したくないの! 絶対にいや!」


 レナが言うと、それを聞いていたアレックスが、食後のイチゴを食べながら笑った。


「違うでしょ。姉上は懲りたんじゃなくて、すっかり冷徹公爵のファンになっちゃったから、ほかの男がジャガイモに見えるんだよね?」

「アレックス! 余計なことを言わないの!」

「はーい」

「冷徹公爵? お前、よりにもよって宰相閣下に惚れたのか⁉」


 初耳の父がギョッと叫んで椅子から立ち上がった。

 去年エルネスト国王陛下が退位し、王太子だったジョージル三世の即位に伴って、第二王子クラウスは宰相になった。今では冷徹公爵に加えて、氷の宰相の異名まで持っている。


「現実を見ろ! いくら宰相閣下が独身でいらっしゃっても、うちのような伯爵家を相手にしてくださるはずがない!」

「わかっているわよそんなこと! わたしだってクラウス様とどうにかなりたいなんて叶わない夢なんて抱いてないわ! 見ているだけで満足なんだから、別にいいじゃないの」

「ああ、なんてことだ……」


 見ているだけだと言ったのに、父は絶望して頭を抱えた。


(なんなのかしら? いいじゃないの、見るだけなんだから。結婚しないのは、もともと決めてたことだし)


 六年前、デミアンに婚約破棄をされてからレナも考えたのだ。

 どんな理由であれ、婚約破棄をされた令嬢が素敵な男性と結婚できるはずがない。どうしても傷者扱いにされるので、次の婚約者がデミアン二号でない保証はないのである。

 ならばいっそ独身を貫いて、十歳年下の弟を母の代わりに立派に育てよう。そう心に誓ったのだ。


(それに、クラウス様への感情は恋じゃなくて憧れだもの。叶わぬ恋に悲観して結婚しないわけじゃないのよ)


 だというのに、父は「どうしようどうしよう」と騒いでいる。どうしようもなにも、どうもしなくていいのだが、この様子だと父が馬鹿なことをしでかしそうで怖い。

 レナは食事どころでなくなってしまった父に向かって、真顔で釘を刺した。


「お父様は絶対に何もしないでよ? わたしは今が幸せなんだから!」


 結婚していなくても、婚約者がいなくても、遠くからクラウスを眺めている今の生活がとても幸せなのである。ただ――


(いつかどこかの文官みたいに「この能無しが!」って罵られるだけでもいいから、もう一度近くでお逢いできないかしら……?)


 ……憧れは、少々おかしな方向にねじ曲がってしまっていたが。

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