ゴンドラのゆく果て

小富 百(コトミ モモ)

ゴンドラのゆく果て

 終え、仕舞え、沈んでしまえ。

 夜の帳に沈んでしまえ。





「ヨイ様」

 悪戯っぽい声色で豊穣の妖精がふわりと語りかけてくる。豊穣などと美しく謳ったものではあるが実るも枯らすも彼女の気分次第、本性はこちらがわの精霊だ。

「また闇にヒトの子を攫ったのですね」

 くすりくすりと笑っている。

「悪いか」

 いいえ、なんにも。子供っぽく笑って私の周りを一周する。そして、良い香り、ヨイ様ばっかりで嫉妬しちゃうなどと宣う。本音ではないくせに。

「また人間共が入ってきた。ここ最近、特に多い」

「そのようですね。まあ麦達の肥やしになるからあたしは嬉しいのですけれど」

 彼女は切り立つ崖の上の黄金の麦畑を守る精霊だ。勿論ただのヒトが迷い込んだら最期、生きて出られることは決してない。麦の穂が彼らの足に絡み付いては決して離れない、そのままずぶずぶと底なし沼にはまってゆくのだ。それを彼女は何もせず眺めて楽しんでいる。精霊とは基本的にみな気分屋だ。

「リドリナ」

「はい、ヨイ様」

 彼女がふわりと私の傍に浮かぶ、秋の実りの香りがする。今は夜、私は新月の女神。暗闇だけが私の居場所。花蘇芳の杖を振る。私達ふたりが佇む湖畔にさざなみが立った。

「アドアナを呼んでおいで」

 今晩は月明かりのない夜、私達にぴったり。どんな獲物がかかるか楽しみだ。

 リドリナが高く指笛を鳴らす、どこで覚えてきたのか森に棲まう小鳥のような音色。それが鳴り響いた途端、湖の浅瀬に穏やかでない気配を感じた。

「お呼びですか、ヨイ様」

 ちゃぷん。リドリナとは打って変わって、漂い始める冬の香り。

「変わりない?アドアナ」

「ええ、今まで通り滞りなく」

 湖の棲まう人魚、アドアナ。呪詛の込められた美しい歌声でヒトをその水面下に引き摺り込む水の魔物。彼女が尾鰭をたたんで岩に腰掛ける。人魚が少しばかり歌を歌うだけで静かな水面に小さな波紋が広がってゆく、そしてぷかりぷかりと哀れな小魚が腹を見せて浮かんできた。ドッグイートドッグ、いつだって腹を空かせた彼女のお夜食。

「それはそうとリドリナ、さっきの指笛のことだけど」

「あら。それがどうかしたって言うの、アドアナ?」

「どこの小鳥さんかと思ったわ。えらく可愛こぶってるじゃない?」

 本当失礼しちゃうわね、この魚。

「あたしは麦畑を守る猛禽よ?その為にはどんな手だって使うの。アドアナこそ呼び出しに遅れたのは何か理由があるんじゃないの、言い訳するなら今のうちね」

 まあどうせ鰭のお手入れがどうのこうのとかってとこでしょうけど。

「アドアナは大昔から見た目によらず神経質だものねぇ」

「見た目によらずってどういうことよ、あたしは麦さえ無事ならそれで良いっていう呑気で杜撰なあなたとは違うのよ」

 人魚がちくりと刺すと今度は精霊が食ってかかる。それでも美しいふたりが鈴の鳴るような声で笑い合っているのを聞けば本当に嫌い合っているわけではないことは火を見るよりも明らか。なぜならふたりはわたしが夜の闇を使って作り上げた双子のようなものだから。一方は陸地の豊穣を司る精霊、一方は水中の飢餓を司る人魚。ふたりは対をなす存在であり、そんなふたりを従える私は誰にも推量ることのできない新月の女神。

 数時間後にはまた夜が明ける。忌々しいことに私は陽の光の中では散り散りになってしまう。その前に洞窟へと帰らなければ。

「リドリナ、アドアナ」

 はい、とふたりの声が重なる。

「私は消えるわ。昼の間を頼むわね」

 承知致しました、マヨイド様。

 踵を返して暗闇に身を溶け込ませた。少し眠ろう、そして生き血の結晶を集めよう。もう少し、もう少し、なんだから。そう信じてやまない。いつになったら、どのくらいの時が経てば、私の望みが叶うのか。私のこの喉の乾きは止むのだろう。あとどれくらいの命を奪えば。あとどのくらい赤い血を絞れば。誰も答えを教えてはくれないから、意識も形も無い昼の光の下での方がきっと私は幸せなのだろう。







 リドリナ。そうアドアナが岩礁に肘をついて呼びかけてくる。今はお昼間、あの方は居ない。文字通り、どこにも居ない。

「どうしてもっとヨイ様を手伝って差し上げないの」

 人魚の揺蕩うような声で切り捨てられるように問われた。とっさに、

「あなたのほうこそ」と答えていた。

 彼女の言葉は責めるような口調ではなかった、どちらかと言うと少し悲しそうな。あたしはこういう空気は苦手だからわざと空中で伸びをする、薄桜の衣が風に揺れている。

「どうしてって…ヨイ様からも言われてるじゃない。手を下すのはヨイ様、あたし達はその為に作られたあの方の暗器よ。極力手は出しすぎない方が良いの」

 そのくらいの距離感がちょうど良いってあたしは思うわ。

「それに──」

「…自分には麦畑の世話もあるから?」

 驚いて下を見やるとあたしの言葉を奪った彼女が口端を上げてにやりと笑っていた。なんだ、悲しそうなんて思ったのがバカみたいじゃない!はーあ、心配して損した。

「アドアナって本当そういうところよね」

「リドリナも大体同じだと思うけれどね」

「あたし達、似た者同士なのね」

「良いところも悪いところもね」

 全く。

「そりゃああたしだって、もっとヨイ様にお仕えできたらって思うわ」

 言いつつなんだか拗ねたような心持ちになる。アドアナが片眉を上げる。

「でも?だって?」

「…なによ?」

「リドリナのことだからどうせ続きがあるんでしょう。早く聞かせて頂戴な」

 幼い頃からの片割れに全てを見透かされている。仕方ない、あたしの片割れは水のもの。反射するように心さえも水面に映される。

「だって…どうせあたしは非力で無力な精霊なんだもの」

 所詮麦畑しか守れない。この世の暗闇全てを統べるヨイ様のお力になろうなんて、それだけで酷く烏滸がましいのよ。

「だからわざといつも麦達が幸せならそれで良いの、なんて馬鹿みたいなこと言っているのよね、あなたは」

「勝手に心を読まないでくれるかしら」

 軽く睨むとあははと笑われた。ごめんったら、拗ねないでよ。尖る崖が湖面に細く影を作っている、岩だらけの入江に季節風が吹いた。陽の光が反射して水面がきらきらと輝いている。星の下で見るあの方の瞳のようだと思った。

「ヨイ様にも見せてあげられたら良いのに」

 気付くと口からこぼれていた。はっと息を止めるが、アドアナはそうねえと草臥れたように鰭を振るばかり。

「こんなに綺麗なんだものね。ヨイ様ってどうして陽の下にはおいでにならないのかしら。リドリナは知ってる?」

 …さあ。

「畏れ多くて聞いたこともないわ。いつも夜明けの数刻前には消えてしまっているし」

「夜しか会えないなんて寂しいわね」

「湿っぽいこと言わないでよ」

 もっと寂しくなっちゃうじゃない。

「あら、先に言い出したのはそっちでしょ?」

 ぱっちり目が合ってどちらともなくくすくす笑い出した。もう、話が脱線しちゃったじゃないのよ。あたしは、それじゃあと空中で足を組む。

「アドアナはどうなの。そう思うなら自分がもっとヨイ様をお手伝いしたらいいじゃない?」

 それは…と片割れが言い淀む。

「それをあたしに言わせるの?随分と酷い姉だこと」

「いつからあたしが姉になったのよ、都合の良い時ばっかり妹になったり姉になったりするんだから」

 全く呆れる、わがまま人魚。

「でも…」

「出た。あんたの、でもでもだって」

「あたしの妹は本当五月蝿いわねえ」

 首を振ってから水に潜って直ぐに出てくる。濡羽色の髪を古びた櫛でとかす。あたしがずいと手を差し出すと、分かっていたように同じものを手渡されるのでふたりして髪の手入れをする。

「…あたしは所詮、水に囚われた生き物だもの。どこにもゆけない人魚だから」

「おセンチなお姫様みたいなこと言うのね」

「だからあなたに託してるのよ、リドリナ」

 思いがけない言葉に胸が詰まった。なにそれ、なに勝手に弱気になってるの、あたしの片割れのくせに。

「馬鹿ね、なに言ってるの。あたし達ふたりでひとつじゃないの」

「そうだけど…あなたには鞘翅があるけれどあたしには鰭しかないわ。だからあなたはあたしよりずっとヨイ様の隣に居ることができるでしょう?」

「まさかアドアナ、あたしをひとりにするって言うの?」

「それは違うけれど…」

 弱気な片割れに食ってかかる。あなたの櫛なんかもういらないと突き返すと、ぷいとそっぽを向かれた。無視しないで、とあたしは岩の上に足をつける。

「大丈夫よ、リドリナ」

「何が言いたいの、アドアナ」

「許される限りはずっと、あたしだってヨイ様のお傍に居るから」

 肩を掴んでこちらを向かせる、無理矢理にでも瞳を合わせた。

「…約束よ」そう言うと、

「約束する」ちゃんとそう応えてくれた。

 なら良いわ。

 ありがとう。

「ずっと一緒よ、あたし達」

 世界が終わるまであたし達、ふたりでヨイ様にお仕えするの。これは生まれた時から決まってるんだから。

「双子なんだから、当然でしょう」

 意気込んでそう言い切った。口火を切るあたしとどこかやっぱり湿っぽい彼女。ふたりでひとつだ、それ以上でもそれ以下でもない。そうね、とアドアナが答えた。

「あたし達、ふたりでひとつの心臓だものね。あなたの居るところにあたしも居るのよ」

 そしてアドアナと、お互いが使っていた櫛を交換した。ふたりでひとつの、証として。彼女の鱗がまた光り始めたのであたしは静かに目を閉じた。あたしはお昼寝が大好きな精霊だから。

 それと、アドアナ。

 なあに、リドリナ。

「今話したこと、ヨイ様に告げ口したら殺すからね」

 風に少し流されながら彼女を片目で睨みつけると、はいはいと揶揄われるように水を尾鰭でかけられた。あたしはふわふわと的確によける。

「分かってるわよ。あたしもそうだしね」

「…流石あたしの左心房ね」

 思うところは結局同じか。湖面を眺めながらふたりしてくすくす笑い合った。切り立った崖の上を見上げる、その上にそよぐ黄金の麦達は今日も笑っている。それだけであたしは安心する。

 彼女から貰った櫛はありがたくドレスの下に仕舞い込んだ。お揃いの濡羽色の髪、あたしのは光に透かすと実りの紫色、彼女のは呼吸のない深い藍色をしている。あたし達ふたりでヨイ様という夜の心臓たり得る、あの方の闇に血潮を巡らせることができる。だからふたり、少し湖畔をお散歩する。アドアナのガーネットのような瞳にあたしただひとりが映っている。

 空中と水中のはざまで、あたし達はいつまでも手を繋いでいる。







 あの方が深い夜の闇の中であたし達ふたりを形成したのをあたしは未だに憶えている。忘れられない。忘れることなど、決してできない。

 あたし達が生まれる前はあの崖の上に幻のような黄金の絨毯なんて無かった。恋患いの果てにふと身投げに来るような女ばかりが居た。この湖にもこんなに沢山の生き物は居なかった。男に捨てられた見窄らしい母と赤子が水を飲もうとふらり入水するような場所だった。それが夜の女神の気まぐれで大きく変わったのだ。

 ここら一帯は人間共の生き血を貪る、貪欲な魔の領域になった。どうしてあの方がそんなことをしているのか、きっとなにか目的があるに違いないのに、あたし達は何も知らない。知らなくていいから、問うたことすら、ない。

 幼い頃、闇の羊水の中にあたし達ふたりは包まれていた。その脆く朧げな球体を夜な夜なあの方は抱いていた。あたし達は生まれ出るまでずっとあの方の腕の中に居たのだった。

「もうすぐよ。リドリナ、アドアナ」

 変化が訪れたのはあたしが先だった。あたしの下半身には鱗が生え始めて羊水の中でも鰓で容易に呼吸ができるようになった。だからあたしと隣り合わせで眠る彼女を見ながら早く彼女にも桜貝のような鱗が生えないかと、今か今かと待っていたのだった。けれどその時は永遠に訪れなかった。

「リドリナ、」

 あたしは彼女に手を伸ばした。けれど幼かったあたしの手ではどうやったって届かなかった。その間に彼女には透き通った桜色の鞘翅が生えた。耳は柔く尖り、足には薄い葡萄蔦の紋様が現れた。

「あたし達、…違うのね」

 ほんの少しだけ絶望が胸を掠めた。あの方があたし達を作り胸の中で暖め慈しんでいた。あの方の為だけに生まれようとしているそんなあたし達なのに、彼女と生きる世界がまるで違うことがあたしは悲しくて仕方がなかった。これはあの方へのれっきとした裏切りを意味した。この事実もまた、あたしを打ち据えるのに十分すぎる真実だった。

 彼女の眠りは深く長かった。あたしは細切れにしか睡眠を欲さなかったから起きている間中はずっと彼女の横顔を眺めて過ごした。片割れのことを、愛しいと思った。そしてこの羊水がそろそろ手狭になってきた頃ようやくリドリナは目を覚ました。翡翠色の瞳がとても綺麗だった。

「…早起きね、アドアナは」

「リドリナが遅起きなのよ」

 おはようの挨拶もしないのはあたし達がふたりでひとつでお互いの片割れなのを意識が芽生えた時から知っているから。だからあたし達はくすくすと笑い合った。ぼやけて見える羊水の中からあの方が洞窟にもたれて眠っているのが見えた。この頃のあの方はあたし達ふたりに力を注ぎ過ぎていて神域を犯す人間共も追い払えずにいたのだった。だから今でも勘違いした輩が我が物顔でこの領域を侵犯する、許すことなど到底できやしない。

「随分愛されてるみたいね、あたし達って」

 疲れ果てたあの方の寝顔を見ながらそう言うと、「確かにそうみたいだけど、それってきっとそんなに重要じゃないわ」と笑い飛ばされた。だから彼女の言う通りなのかもしれないと思い至った。あたし達は夜の主に選ばれた魂なんだもの、これ以上の幸福なんてないのかもしれない。そんなことを考えて黙っていると、

「あの方があたし達を召し抱えようとしてくださってる。それだけであたしにとっては必要十分だわ」

 彼女はこういう子だった。からりと晴れ渡った空中を舞う花弁の精霊、愛に見返りは求めない。

 あたしは違った。あたしは水のもの、惹かれ合うのならばずっと共に居たい。冷たくてもいいから何らかの感情に浸っていたい。それをあたしはあの方ではなく、リドリナただひとりに見破られるのが酷く怖かった。

 そして時が経ちあたし達は真夜中に闇の繭から生まれ出た。あの方は闇色の瞳でにこりと笑ってあたし達の頭を撫でた、きっと予想以上に出来が良くて嬉しかったのだろうとそう思う。

「リドリナ」

 まずあの方は彼女に目を向けた。

「お前の役目は誘いよ。ほら、あの崖の上が見えるでしょう?」

 はい、見えます。彼女は少し震える声でそう答えた。敬愛と盲信と、畏怖。

「黄金の麦達の囁きに乗せられて人間共がこの地にやって来る。それを言葉巧みにこの湖畔に連れてくるのがお前の役目よ。麦達の世話は任せるわ」

 花や植物は好きでしょう?

 あの方が花蘇芳の杖から一房咲き乱れていたのを摘んで彼女の髪を飾り立てた。夜だったけれど一瞬そこだけ星のように輝いた。はい、かしこまりましたと彼女は地に座り込み頭を垂れた。生まれたばかりの彼女の鞘翅は乾いていなくてまだ飛べなかったのだということをあたしは今でも覚えている。

「…良い子ね、リドリナ」

 そしてあの方は霧のドレスを翻してあたしの方へ目を向けた。一瞬にして身がすくんだ、その瞳に見つめられてあたしの体はぴくりとも動かなくなってしまった。今すぐ湖の中へ飛び込んで逃げ出したいのに尾鰭が言うことをきかないのだった。杖の花の香りかなんなのか、頭がくらくらするほどに甘い香りがした。

「アドアナ」

 …はい。そう、やっとの思いで返事をした。殺さないでと強く思った。殺さないで、殺さないで。どうか、リドリナだけは殺さないで。

「お前にはこの湖全てを預けるわ。その代わり湖畔に降りてきた人間共を水中に引き摺り込んで捕らえておくこと。いい?」

 はい、仰せのままに。早口に答えていた。このままじゃきっとあたしは飢えて乾いて死んでしまう、けれどリドリナを置いてはいけない。

「お前達にはこれから私の手伝いをしてもらう。きっと永くかかるだろうと思うわ、けれどお前達には期待しているの」

 大丈夫。

「殺したりなんか、しない」

 その言葉にあたし達はやっと顔を上げた。夜の女神は優しく微笑んでいた。彼女の言う通りなのだと思った。この方にお仕えできること自体が幸福、さすればあたし達は半永久的に夜の闇に守られる。誰にもあたし達を邪魔することなどできない。リドリナと離れ離れになることも、ない。

「…約束して、くださりますか」

 気付けばそんなことを宣っていた。

「アドアナ…!」

 リドリナが蒼白になってあたしを振り返った。けれどあたしは構わなかった、そしてあの方もそうだった。

 勿論よ、人魚の子。

「あなた達を、大切にする」

 誰よりも、なにものよりも。だってあなた達は私の可愛い愛しい夢、そのものなのだから。

「…殺したりなど、しないわ」

 そう言ってあの方はあたし達ふたりの頭に唇を落とした。おやすみなさい、ふたりとも。深い夜の中に春霞の香りがした。気付くとあの方は闇の奥に消えていて、それでもあたし達が作られたということがあの方の存在を強烈に裏付けていた。

 あたし達は震えながらどちらともなく手を繋いだ。始まりも、そうだった。だからきっと終わりもそうなのだと思っている。そうであって欲しいと願っている。リドリナに手を握っていて欲しいと、あの方に殺される以外の死に方で、どうか、どうか。

 暗い湖に沈めてくれと、そう願ってやまない。







 ようやく、完成した。これがあれば、これがあれば、この世の全てを永遠の紅い夜に閉じ込めることができる。私の悲願が叶う時がやっと、やっと来たのだ。

 千年かけて集めた人間共の生き血を結晶を花蘇芳の杖に嵌め込むと花が鮮血のように輝きを取り戻した。私は洞窟の奥から飛び出した。まだ外は夕焼け色で水平線に陽が沈む直前、その忌々しい逢魔時が私の肌を焼いた。

 それでも良い、私はそのまま湖面へと踏み出した。ダンスを踊るように湖の上でスキップ、私は霧よりも軽い暗闇。新月の、神様。そして大きく、花蘇芳の杖を振りかざした。

 そして、世界が紅く染まってゆくのを眺めた。星も月も無い、ただ仄暗い私だけの紅い夜。遠い昔のことが脳裏を掠めた、私がなんにもない、ただの女であった時のことを。

──見つけたぞ、悪どい魔女め。

──魔女の癖に赤子などこさえおって。

──殺せ、殺せ。全て焼き払ってしまえ!

 ひとりぽっち、小さな命だけ抱えて逃げ出した。村を抜けて森を抜けて辿り着いたのがこの崖の上だった。追手が迫っていた、野蛮な火の光がじりじりと私達を追い詰めた。

『ごめんなさい、ごめんなさい、馬鹿な母親でごめんなさい』

 私は産声を上げるその子を抱いてあの崖から湖へ身を投げたのだった。気付けばこの手にあの子は居なくて、たった独り私だけがこの湖畔に生きて流れ着いていた。

『…私が、殺したのね』

 あの子を。──セルシスを。

 紅くなった空、あの子との短かった思い出が蘇ってきた。あんなにも大切にしていたのにどうして今まで忘れてしまっていたんだろう。だからあの時決めたのだ。私を殺そうとしたあいつらを、私からあの子を奪ったあいつらを、私利私欲の為に女子供を手にかけるあいつらを、人間共を、決して私は許しはしないと。私はあの日人間を辞めた、賢者という肩書きを捨てた、私は夜の怪物になった。

 全ては、この世界を紅い夜に変え人間共をひとり残らず皆殺しにする為に。

 それが、今日、叶うのだ!

「マヨイド様!!」

 鈴のような声がふたり、重なった。耳が遠くなる、劈かれる痛みを感じて体が崩れるのと同時に杖を手放していた。私より先に水面へ落下していく愛しい花、そしてまた思い出した。

 母子ふたつで身を投げたあの日、私は途中であの子のことを──。

「とうとう現れたな、虐殺の魔女め」

 気付けば私の周りを沢山の人間共が囲っていた。背中を蹴られ浅瀬に膝をついた、腹に矢が突き刺さっていて血がどくどくと流れ出ている。私は怒りで己の脈動が暴発しそうになるのを感じた。

「千年、千年だ!夜に閉ざされた私の哀しみが!溺れたあの子の苦しみが!お前達如きに分かるのか!!」

 そう私は吠えた。人間共が後退り私に向かって刃物を向ける。

「さっさとこの魔女を殺せ!世界を光を取り戻させろ!!」

「夜になると実体になるという噂は本当だったな。さっさと首を持ち帰るぞ」

「しもべふたりも生捕りにしろ!晒し首にしてくれる!」

 離せ、離せ!そう足掻いた。

「触れるな人間風情が!ふたりに指一本でも触れてみろ、貴様ら全員殺して生き血一滴残らず…」

「黙れ魔女が!!」

 男が悲しみの混じった声で私の髪を掴んだ。固いブーツの先が見えた、私は水に浸かった杖を掴もうと必死になって喚き暴れた。

「お前のせいで俺達の家族や村は──!!」

 かしゃん。軽い音と怒りと傷付き。男のブーツによっていとも簡単に、私の千年の結晶は踏み砕かれた。そのままじりじりと踏み躙られる。私はそれを見ていることしかできない。ああ、なんて、あっけない。頭を蹴られ顔が水に浸かり呼吸ができなくなった。

 私の、願いが。私の、唯一の、悲願が。私はどうすれば良かったのだろう。私はどうなりたかったのだろう。この砕けた結晶がこの湖全体に広がって、あの崖の下にいるあの子の元へ辿り着くだろうか。

 …セルシス。泥濘の中でさざなみに攫われてゆく結晶を見ている。千年間の愛を私は追いかけることができない。待って、行かないで、セルシス。もう二度と手放したりしないから、母さん、約束するから。ねえ、お願い。だから母さんも連れて行って。あなたのところへ連れて行って。そちらでふたり、一緒に暮らそう。絶対、絶対、守るから。今度こそ、幸せに、してみせるから。お願い。

「ヨイ様、起きて!!」

 聞き慣れた精霊の声に瞼がぱっと開いた。一気にこちら側へ引き戻される。アドアナの顔が目の前にあって、水中で私に唇を合わせ空気を送ってくれた。首を捻るとリドリナが黄金の影を操り人間共の首を吊り上げていた。

「少し待っていてください。ヨイ様」

 アドアナがそう言い残し水面から勢いよく飛び出して鋭い爪で男達の首を切り裂いた。一瞬で血飛沫が上がる。瞬く間に人間共が倒れ湖畔は一面の血の海と化した。こんなふたりは今まで一度も見たことがなかった、ぽかんと呆気に取られているしかなかった。私はなんの力もなかった頃の女に戻ったような気がした。

「リドリナ、アドアナ…」

 空を見上げると紅い夜は消え失せていた。私の千年は失われてしまっていた。けれどどうしてだか復讐の念は灰になり風に吹き飛ばされたように無くなっていた。

「なかなかヒトの子の血も美味しいものね」

 口元を拭いながらアドアナが言った。

「悪食ね。特に雄なんてまっぴらごめんよ」

 眉をひそめながらリドリナが答えた。

「それになにあの殺し方。あたし達生まれた時からの付き合いだけど、あなたが呪歌以外であんなことしてるの見たことないわよ」

 意外とえげつないのね〜。

「それはこっちの台詞よ。いつもいつも綺麗事並べて誘い込むことばっかりして…まさかそんな怖い力隠し持ってたいたなんてね」

 見かけによらないのね〜。

「とりあえずどうする?この死体の山。このままってわけにもいかないでしょ」

「でもあたし今夜は流石に疲れたわよ。早く湖底に帰って寝ちゃいたい」

 良いじゃない、ちゃちゃっとあたしが全部浮かせるから湖に沈めさせてよ。

 嫌よ、こんなに大量の屍!あたしの綺麗なおうちが汚れちゃうじゃないのよ。

 はーあ、本当アドアナって神経質で几帳面な上にケチ!

 はあ〜?リドリナこそ大雑把で能天気な上に自己中!

「どっちが悪いですかヨイ様!?」

 突然ふたりからくるんっと振り返られた。反応が遅れる、そして血まみれのふたりの顔を見て、真剣そのものの瞳を見て、なんだか急に笑えてきた。そして同時に涙も出てきた。

「やだ!ヨイ様が泣いてらっしゃるじゃないの!どうしようアドアナ!」

「違うのリドリナ、ちょっとほら、お腹が痛くてね…」

「嘘!矢が刺さってる!あの弓兵、骨も残らないようにしてやらなくちゃ」

「大丈夫。死なないわよ、このくらいじゃ」

 だってもうとっくの昔に人間じゃないんだもの、私。そんな声はふたりには全然届いていなくて、

 早く治療しなくっちゃ!じゃああたしが痺れの歌を歌うからその間に矢を引き抜いて。分かったわ、そしたらすぐに薬草で止血する。

「流石双子ね…息ぴったりなんだから」

「違いますわ!ただこれはヨイ様をお助けする為」

「ヨイ様の痛みを取り除くこともあたし達の使命ですもの」

「ほら、そんなところもそっくり」

 ふたりが顔を見合わせる。否定はしないけれど、と可愛い頬に書いてある。なんて愛しい子達を持ったことだろう、そしてどうしてそれに今まで気付かなかったのだろう。

「終わりました、ヨイ様。今晩はもうお休みになられてください」

 リドリナがふわりと私を抱え上げた。

「もうじきに夜も明けます。あたし達も今日は洞窟で過ごさせてくださいませ」

 水路を通ってすぐ行くわ、またあとで。

「くれぐれもヨイ様のこと、落としたりなんかするんじゃないわよ」

 馬鹿、そんなヘマするわけないでしょ。

「櫛に賭けて守るわ」

「ええ、櫛に賭けて」

 そうにこりと笑ってアドアナは水中へと消えた。空を見上げると東が白く霞んできていた。夜明けを見るなどいつぶりだろう。そうだ、あの子が生まれたのもこんな朝で、窓から小さな庭を見やると沢山の花蘇芳が咲いていたのだった。だから、そう、あの子の名前も──、

「どうか、泣かないでください。…ヨイ様」

 アドアナも、悲しみます。

 私の頬に熱い雫がぽつりぽつりと落ちてきた。

「あなたも泣いてるじゃない、リドリナ」

「あたしは泣きません。あたしはただの、精霊ですもの」

 あたしもアドアナも泣きません。だってあたし達、ヨイ様をお守りする為だけに生まれたんですもの。

 しゃくりあげる彼女を見て私はそう、とだけ答えて目を閉じた。じゃあこれは、

「なんて優しい雨なのかしらね」

 そして私は千年ぶりに新月の女神ではなくなった。それがとても安心して、そして不思議と嬉しかった。




「ごめんなさいね、ふたりとも」

 心配を、かけたわ。ふたりの頬に手をやると、そっくりな声でいいえと返ってきた。声が反響する洞窟の中、私は石のベッドに腰掛けたまま。ふたりはなんだかそわそわと落ち着かないようだ。

「心から謝らせてほしいの。千年近く、私の我儘に付き合わせたこと。その為にあなた達ふたりを利用していたこと」

 本当にごめんなさい。

「謝らないでくださいヨイ様!」

「そうです、あたし達なにも気にしてなんて…」

「いいえ、これはけじめよ」

 しんと静まり返った。翡翠とガーネットの瞳が不安げにきょろきょろしている。いつもよりうんと幼く見えて私は思わずふたりを胸に抱き寄せた。

「もう私にあんな力は無いの。暗闇に紛れる力も人間から命を奪う力も。けれどヒトの子に戻れたわけでもない、とても中途半端な存在なのよ」

 だからね。

「もうあなた達の自由にして良いの。私なんかに仕えることない、自分の好きなように生きて欲しいのよ」

 もう後悔したくないから。分かってくれる?ふたりとも。私の可愛い女の子達。

「この入江もなにもかも全部あげるわ。勿論私は出てゆくし、ここへ帰ってきたりしない。あなた達のこれからに迷惑なんてかけたりしないわ」

 ドレスの胸元が。熱く濡れてゆくのが分かった。ふたりが幼子のように私に縋り付いてくる。その頭をゆっくりと撫でた。もっと早くにこうしてやれば良かった。

「そうよ、こんなに素敵なふたりなんですもの。こんな狭いところに居ないでもっと広い世界を旅するのもきっと楽しいわ、もっともっと広い世界を知って、うんと色んな人達に出会って、沢山の思い出を作って…」

 それから、それからね…。

 言葉が涙で詰まった、するとふたりがぱっと顔を上げた。

「ヨイ様が行かないならあたし達はどこにも行きません!」

 大粒の涙を流しながら震え声がふたつ重なった。本当に、どこまでも片割れの命なのねと私も泣いた。

「なんにも聞きません。あたし達、なにも知らなくてたっていいんです」

「ずっと三人で過ごせたならそれ以上の幸せなんてないんですから」

 だからどうか、お願い。

「あたし達を置いてゆかないで」

 狭い洞窟内に三人分の鳴き声が響く。遠い入り口から薄く差し込んできている陽の光に晒されたなら、私は溶けて消えてしまうだろうか。けれどふたりがこう言ってくれているのだ、私と一緒に居たいと泣いている。これでまた彼女達を捨てたなら私は千年前と同じ、あの子を抱く手を解いてしまった時と同じじゃないか。

「一緒に居るわ、ずっと一緒に」

 もう二度と捨てたりなんかしない。手を離したりなんか、しない。そうと決まれば。

「さあ泣き止むわよ、私達三人とも。そしてもうヨイ様呼びはなしね」

「ええ!」

 また声が重なる、私は遠慮なく笑う。どこまでも双子ね、種族も違うのにどうしてこんなに似てしまったのだか。

「じゃ、じゃああたし達これからなんとお呼びすれば…?」

 リドリナが不安げに鞘翅を揺らす。

「確かに…。あたし達作られただけで産んで頂いたわけではないし…」

 アドアナも考え込んで尾鰭を揺らす。

 そして数刻あれでもない、これでもないとふたりが考えあぐねて出した答えは「姉様!」だった。だいぶヒトの感性に戻りつつあるのか、私はひとしきり大笑いした。

「いいわね、姉様!確かに今更母親って柄でもないし、私男なんて要らないしね」

 私の笑顔を見てふたりも安心したようににっこりと笑った。

「それじゃあ傷が治ったら少し遠くまで旅行にでもゆきましょうか」

「リョコウ?」

「ええ、綺麗なところへ旅に出ることよ。まあ実のところ私もしたことないんだけれどね」

「ここを離れて、どこへ?」

「そうねえ。ひとまず旧市街の運河街にでも赴きましょうか」

 そう言うとふたりはやっぱり声を揃えて、

「はい、姉様!」

 そう笑顔で答えた。

 翡翠とガーネットの女の子を侍らせて、なんて贅沢な両手に花。これからどうなるかなんて分からないけれど、きっと私達ずっと一緒に居るのでしょう。そしてあの子のことももう二度と忘れたりなんかしない。

 闇と光の間で、空中と水中の狭間で、私達永遠に手を繋いでいましょう。







 おはよう、おはよう、花蘇芳。

 千年前のあの子の骨は人魚が拾ってきてくれたのよ。

 千年前のあの子の骨は精霊が首飾りにしてくれたのよ。

 それを私は首に掛けて白い帽子でおしゃれをしたなら、ブルーのゴンドラで旅に出よう。

 私達三人、三姉妹、陽の光の元へ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴンドラのゆく果て 小富 百(コトミ モモ) @cotomi_momo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ