第15話 ヴァラク⑥ 嵐の前

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 夜明けが訪れ、未だ一の鐘が鳴る前の静寂な空気が漂う中、ヨハンは朝食に向かった。薄暗い光の中、パン、スープ、果実汁が豪勢に盛られたテーブルに腰を下ろすと、彼は街の厳しい状況を思い巡らせていた。食事の味わいは期待には程遠いものであったが、少なくとも食糧供給には困っていない様子だった。しかし、未だ商隊が到着しない理由は謎のままだった。


 商隊が何らかのトラブルに見舞われ、遅れているだけであれば、今朝にでも到着する可能性があるだろう。食事を終えた後、ヨハンはやや重々しい気持ちでギルドへと足を運んだ。


 しかしながら、ギルドでの情報収集も何の成果も得られなかった。一の鐘が鳴る直前に到着したヨハンは、受付嬢に情報を聞いたが、未帰還の冒険者たちもまだ戻ってきていないという。


 やがて、ラドゥたちもギルドに集まり、彼は冷静かつ重厚な口調で任務の概要を説明した。

「今回の任務は調査だ。未帰還冒険者の所在、顛末、そして商隊が到着しなかった理由を探る」


 ラドゥは冒険者たちに対し、探索・調査の際には彼らに先んじて奮闘し、必要に応じて情報を持ち帰ることを優先するよう命じた。彼の言葉に、荒くれ者たちも一時的に兵隊のような覚悟を見せた。オルドの騎士が敵に回すべきではないと言われているだけはある。


「撤退できないほどに負傷したものは肉の壁となり他の者を逃がせ。私もそうする。指揮系統は崩すな。上職が死んだならば、次席が指揮を執ること。各隊は準備が出来次第出発だ。魔針は持ったな?暗くなる前には成果に関わりなく撤退だ。よし、行け!」


 ラドゥの力強い声に応えるように、野太い声が朝焼けの空に幾度も響いた。ヨハンも、仲間たちとともに出発の準備を整えた。


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 朝日が徐々に街を照らし始める中、冒険者たちは各々のグループに分かれ、任務へと向かった。ヨハンたちは、荒涼とした大地を進むこととなる。彼らの目的は、未帰還の冒険者たちと商隊の謎を解き明かすこと。その場には緊張感を帯びた空気が漂っていた。


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 ラドゥからの話が伝わっているだろうと、ヨハンは改めて自己紹介を始めた。「ヨハンだ。今回は冒険者としてではなく、連盟の術師として参加しているつもりだ。お前たちもそのつもりでいてくれ」


 男たちは無言だったが、彼らの目に反発心は見えなかった。

 ラドゥ傭兵団の団員は平時ならともかく、こういう場で文句を垂れるほどの素人ではない。


「では出発」



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 馬車隊のルートは北西から北東へ、半円を描くように進んでいた。ヨハンは手帳をぺらぺらとめくり、押し花…触媒を確認していた。杖などはない。

 ヨハンは杖などを持たず、自身の精神を魔術の起動具としている珍しいタイプの魔術師だった。


 魔術師が杖やその他の術の起動具を所持する理由は、さまざまな背景がある。


 杖は力強い風が古木の枝を揺らすように魔術師の魔力を増幅させ、一つの方向へ導く役割を果たす

 杖といった起動具は、魔力というとりとめのない不定なエネルギーを、特定の事象の発現という結果に向けて導く。


 微かな灯火が闇夜を照らすように、杖を用いることで魔法の発動が安定し、失敗のリスクが薄れるのだ。


 また杖や魔法具は、高貴な血筋を示す家紋のごとく、魔術師の身分や地位を示す象徴としても機能する事もある。その独特な杖や魔法具は魔術師の力や技量を示すものであり、見る者に対してその地位を瞬時に認識させることができる。


 これはいわゆるマウント行為なのだが、魔術師にとって相手より心理的に優越するというのは非常に大きな効果を持つ。


 例えば大きく力量がかけ離れた二人の魔術師A(大)、B(小)がいたとして、しかしAの認識がBよりも格下というものであるならば、実際の力量がかけなはれていたとしても、術を比べあえば伯仲するだろう。魔術師にとって自身の精神的な在り方というのは非常に重要なファクターである。


 しかしヨハンの様に自身の精神に強固な自信を持つ者は、起動具を所持しないということもままある。だがそんな彼らとて触媒は必要だった。


 数多の触媒は時に乱雑に魔術師の鞄などに納められ、危急の際に適切に取り出す事が出来ずに死ぬということがままある。整理整頓ができなかったために死ぬ術師がいるのだ…──それも沢山!


 ちなみにこの情けない死に方は、術師の死に方の中でもトップ5に入るほど多い。


 ◆



(それにしても何も起こらない。ある程度覚悟はしてきたつもりだが、不穏な気配もない。不穏な気配がない…それ自体が不穏だ)


 ヨハンの心には、彼が歩む道の先々に漂う仄かな不穏さが、暗雲が空を覆うように重く横たわっていた。


 調査が進む中、彼は魔獣一匹すら現れない異常事態に、心の奥底で疑念が渦巻いていた。


 見えない敵に対する不安が、ひそかに蠢く影のように忍び寄ってくる。ヨハンは無言でその先の闇を見据え、続く道に立ちはだかるであろう困難に備えていた。


 結局、馬車隊は半円の軌道の8割まで進んでしまった。


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 調査隊の一行の前方に失せ川が見えてきた。それは季節によって現れたり消えたりする川だ。雨期と乾季によって変わる。そういう類の川はヴァラク周辺だけでなく、各地に存在している。休憩にはちょうど良い場所だろう。


「大休憩を取る」とヨハンが言うと、彼らは迅速に休憩の準備と警戒要員の振り分けを行っていった。ラドゥ傭兵団の練度の高さは、ラドゥが軍隊のように厳しく仕込んでいるからだと言われている。ダッカドッカもそんな話をしていた。


 ヨハンの経験上、このような気の緩みが一番魔物を引き寄せるものなのだが、油断をするな、と声をかける必要はなかった。彼らが十分すぎるほどに警戒しているのはよくわかるからだ。


 しかし休憩中にも何も起こらなかった。

 不穏な気配は感じられないまま、馬車隊は休憩を終え、再び出発することになった。


 彼らは次の目的地へと向かって進んでいく。とはいえ、いつ何が起こるかは分からない。ヨハンも含め、彼らは油断せず、警戒を怠らないように気を引き締めていた。


 しかし驚くことに、何も起こらずに彼らは半円を巡り、街へと帰ってきてしまった。

 結局彼らはギルドへ戻った。まだ他の隊は帰ってきていない。


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「やばい気がする」と、不安げに目をきょろきょろさせながらカナタが言った。ヨハンはそれを聞いて、ため息をつきたい気持ちでいっぱいだった。彼の抽象的な意見に失望したのではなく、彼自身が危険だと言っているからだ。


 カナタの後ろには潰れた片目のノノ、しきりに唇を舐めまわしているアウォークン、爪をカリカリ噛んでいるタネーウェがいる。全員そわそわしていて、それは喜劇的にも見えるが、事態は悲劇に近づいているかもしれない。


「そう思うか、カナタ、ノノ、アウォークン、タネーウェ」とヨハンが尋ねる。


 彼らは斥候働きを行う者たちだ。女と酒が大好きで、借金までしてまでそれらを手に入れるろくでなしではあるが、仕事自体はきちんとやり、成果も上げているため選ばれたのだ。


 斥候というのは一種の才能が必要だとヨハンは思っている。それは目に見えないものだ。筋力があるだとか知性が高いとか、そういうものではない。勘が何よりものを言うのだ。


 特にこの斥候4人組のリーダー、カナタは頭は悪くて足も遅く、力もなく、さらに借金があるというどうしようもない社会不適合者だが、『なんとなく』という理由だけでコインの裏表を11回連続で当てるということまでやらかしたことがあるらしい。


 ノノ、アウォークン、タネーウェも似たような者たちだ。もちろん彼らのような異能がない斥候もいるし、むしろそれは大多数と言えるが、そういった者たちがどれほど業を磨いても『勘』頼みの者たちとの立場がひっくり返ることはない。


「……魔狼が出なかったな。一匹も」


 そうヨハンが言うと、カナタたちは黙ってうなずいた。


(そうだ、今はあれだろう?魔狼祭りだろう?やたら犬のような魔物が増えて、飯屋の料理が魔狼肉ばかりになる祭りだ。なのに一匹も出ない?)


 表面的には周囲は安全になったはずだが、未帰還者が続々出ている。

 こういう状況は本当に厄介だとヨハンは思う。

 不幸や不運といったものが本気になる時は、襲いかかる前に力を溜める。あるいは同類を呼び寄せて集団で襲ってくるからだ。


 この静けさはその前兆だろう。


 こういう時は大抵人が死ぬ。

 運が悪ければ、たくさん死んでしまう。そう、たくさん…。

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