3

 バーを出た後、タイガは路地裏で足を止めて、財布から一枚の名刺を取り出した。

 昨日、二階堂が殺される前に、ラウンジのピアノの前で初瀬という女性ピアニストにもらった名刺だ。久々に胸が高鳴るのを感じながら、タイガは彼女の番号に電話をかけた。呼び出し音が鳴る度に心臓の音がうるさくなり、彼女の声が聞こえた時には心臓が破裂するかと思った。

『もしもし?』

「あ、あのっ……き、昨日ラウンジで会った、仙堂タイガだけど」

 タイガがしどろもどろになりながら言うと、電話の向こうで彼女がくすくすと笑っているのが聞こえてきた。

『本当にかけてくれたんだ。ありがとね』

「いや、こっちこそ……」

 意味不明な返答をしてから、タイガは深呼吸して緊張を落ち着かせた。

「いきなり電話してごめん。できれば、ちょっと会って話したいことがあるんだけど」

『今から?』

「急でごめん。でも、すごく重要な話なんだ」

 タイガが真剣な声で言うと、初瀬はしばし沈黙してから応答する。

『……わかった。今から場所を言うから、こっちに来てくれる?』

「ああ」

 タイガがうなずくと、初瀬が現在地を口頭で伝えてくる。タイガは住所を記憶すると、地図アプリを起動した。初瀬はピアノの練習用スタジオにいるらしく、タイガの現在地からもそう遠くない。まだ梶派の尾行があった場合も想定して、尾行を撒く時間を考慮してから、タイガは初瀬に言った。

「十五分後に着くから、それまで待っててくれ」

『うん。わかった』

 初瀬が答えるのを待ってから、タイガは通話を切って歩き出した。念のため素早く何度も角を曲がり、路地の死角に隠れながらスタジオに向かう。目的地についても油断せず何度も周囲を確認し、誰の尾行もついてきていないと確信が得られてから、タイガはようやくスタジオに入った。

 事前に知らされていた部屋番号に入ると、ちょうど初瀬がピアノを弾いているところだった。

 か弱く鳴らされたピアノの音が、遠い弔鐘のように室内に響く。柔らかく悲しい音色は徐々に勢いを増していき、抑え切れない激情を伴って哀切に満ちたメロディを室内に反響させる。完璧なほど美しい和音なのに、聞いているとなぜか肌が粟立つほどに不安になってくる。演奏は悲しみと激情の間を何度も行き来しながら、その薄皮一枚向こうに、途方もなく深い絶望と狂気が存在していることを何度も垣間見せる。

 やがてメロディは穏やかなものに切り替わるが、その根底に絶望的な悲しみは隠しようもなく滲んでいて、タイガは身震いするのを堪えられなかった。右手が刻む低音部は絶えず深い絶望の存在を匂わせ、左手が奏でる繊細なメロディが美しければ美しいほど、不気味なほどに狂気が匂い立ってくる。決してテンポが速いわけでも激しいわけでもないのに、知らぬ内に薄氷の上に立たされていたように全身に緊張感が駆け巡ってくる。美しく緩やかな演奏は徐々に生きる気力を失ったように不安定さを増していき、聴くものを暗く陰鬱な世界に引きずり込んでくる。ほんのわずかな雑音が混じっただけで破壊されてしまうような、か弱く繊細な世界観――それを細心のタッチで維持しながら、初瀬は徐々に鍵盤を叩く力を強め、再び弔鐘のような悲しい音色を部屋中に響かせていく。

 取り返しのつかない出来事に襲われ、胸いっぱいに悲しみを抱えながら、己の人生が狂っていく――初瀬の演奏からは、何故かそんな自傷めいた印象さえ感じられた。

 そして、同時に気づく。

(これは、俺の心を綴った曲だ)

 あの日――タイガが膝の靭帯を断裂し、サッカー選手としての生命が終わった時に感じた絶望と悲しみ。そして今なお続く悪夢のような人生。今や初瀬の奏でるピアノ曲は、タイガが内にしまい込んでいた醜い感情を残酷なまでに浮き彫りにしていた。

 こんな気持になるのは、きっとタイガだけではあるまい。この曲を聴いた者は皆、かつて失ってしまった大事なものを思い出し、忘れていた絶望と悲しみの形をくっきりと思い出させられる。そして、絶望の果てに自分が狂ってしまっていることも。

 ピアノは再び激情と悲嘆を波のように繰り返してから、緩やかに力を失っていき、最後に不気味なほど美しい和音を刻んで――息絶えたように、静寂を取り戻す。

 最後の和音が響き終わるまで、タイガは自分が無意識に息を止めていたことにすら気づかなかった。

 演奏を終えた初瀬は汗を拭って一息つくと、ようやくこちらに気づいたようだった。椅子から立ち上がってタイガに頭を下げてくる。

「ご、ごめんなさいっ。練習に夢中になってて気がつかなくて」

「い、いや……」

「っていうか、来てたんなら声をかけてくれたらよかったのに」

 初瀬は冗談めかしてタイガの肩を叩いてきたが、タイガの頭はそれどころではなかった。

(声をかける? 冗談じゃない)

 あんな凄まじい音楽を前にして、雑音を発するような野暮な真似ができるわけがない。今まで音楽に心打たれたことがないタイガですら、本能的にそう思えるほど、初瀬の演奏は並外れていた。

 いまだに震えが止まらない身体を落ち着けるように深呼吸してから、タイガはようやくまともに口を開く。

「あの……演奏、凄かった。正直、音楽で感動したことなんて今までなかったけど、生まれて初めて感動した」

「えっ。そ、そんなに? なんだか大げさだなぁ」

「全然大げさじゃない。いまだに震えが止まらないんだ」

 タイガが手を広げて震えが収まらない指を見せると、初瀬は驚いたように目を丸くした。

「ホントだ。私のピアノにそんな力があったなんて、なんだか嬉しいな」

「さっきの曲、なんて曲なんだ?」

「ショパンの葬送行進曲だよ。ショパンには葬送って名前のつくピアノ曲が二つあるんだけど、作品番号七十二のハ短調のほう。亡くなった後に発表された作品で、他の曲と比べると全然有名じゃないんだけどね」

「死んだ後に、葬送行進曲なんて名前の曲が発表されたのか」

「なんだか遺言みたいで意味深だよね。でも、実際はショパンが若い頃に作曲した曲で、若くして亡くなった妹さんを惜しんで作られた曲だとされているの」

「妹の死か……」

 ショパンにとってその妹がどれほど大事だったかはわからないが、あの凄絶な演奏を聴いた後だと、彼の人生を一変させるような出来事だったのではないかという気さえしてきた。

「とにかく、本当に凄い演奏だったよ。門外漢の俺からすると、有名なピアニストになってないのが不思議なくらいだ」

「ありがとう。でも、私はもうダメなんだ」

 悲しげに笑う初瀬を見て、タイガは思わず聞き返していた。

「ダメって、一体何がダメなんだ? あれだけ凄い演奏ができるのに」

「……局所性ジストニアって知ってる?」

「ジストニア? いや、聞いたことないな」

 タイガが首を傾げると、初瀬は遠い目をして虚空を見上げながら説明する。

「局所性ジストニアっていうのはね、手とか指とか、身体の一部を素早く正確にコントロールするのが難しくなる神経疾患なの。私の場合は右手の薬指を素早く動かすのに支障が出ちゃって、コンクールやコンサートで求められるような、テンポが早くて曲調の激しい難曲なんかは演奏できなくなっちゃったの」

「それって、治療する方法とかはないのか?」

「ジストニアは原因もまだ未解明で、確実な治療法もないみたいなの。ストレスのせいって説もあるみたいなんだけど、生きているのにストレスをなくすのって無理じゃない? それに……私の場合、ストレスから逃げる方法なんて絶対にないもの」

「どういう意味だ?」

「……私、元々施設の出で、音楽をやるためだけに里親に引き取られたの。絶対音感と、音を色で見分けられる共感覚の持ち主だったから、音楽の才能があると思ったんでしょうね。音楽家夫婦に引き取られて、子どもの頃から四六時中ピアノを弾かされてたわ。友達と遊ぶことも許されなかったし、休日はずっと部屋に閉じ込められてピアノを弾くしかなかった。高校生の頃に局所性ジストニアになって、何年もかけて色々治療法を試したけどどれもダメで……そんなことをしている内にコロナ禍になって、コンクールもコンサートも全部中止になっちゃったの。それでようやく、里親達も私をピアニストにするのを諦めてくれたみたい」

「じゃあ、今は親元から離れて暮らせているのか?」

「うん。だから、梶さんに仕事を紹介してもらって凄く助かってるの。ほとんど家出同然だったから、仕事の当てもなかったしね。でも家出した以上、里親達は私を許さないと思う。音楽界って狭い世界だし、里親は二人とも著名な音楽家だから、コンクールの審査員にも顔が利くの。私がコンクールに出たところで、里親達は自分の顔に泥を塗った私のことを絶対に落とさせると思うな。ホント、ついてるんだかついてないんだかわからない人生よね?」

 強がるように笑う初瀬を見て、タイガは胸が締め付けられるような思いに駆られた。

 彼女もまた、大事なもの――ピアニストとしての夢や、ごく普通の人間の幸せを奪われた人間だったのか。サッカー人生が終わった瞬間の絶望を思い出し、タイガは目頭が熱くなるのを感じた。

 先程の演奏に乗っていた凄まじい悲しみと絶望は、彼女自身の人生から匂い立ってきたものなのだろう。華やかで美しい外見とは裏腹に、傷だらけの心が垣間見えたような気がして、タイガはむしょうに初瀬が愛おしくなっていた。

 暗い雰囲気をごまかすように、初瀬が完璧な作り笑顔を浮かべてから話題を変えてくる。

「そう言えば、今日は急ぎの用みたいだったけど、何かあったの?」

「あ、あぁ……そうだった」

 話題を振られ、タイガはようやく本題を思い出して彼女に尋ねた。

「昨日、ラウンジで俺と話してから何をしてた?」

「あの後だったら、犬飼さんがVIPルームから出てきて帰るように言われて、すぐに家に帰ったよ」

「じゃあ、俺がラウンジに来る前は?」

「えっと……確か君が来る二時間前くらいからラウンジにいて、ピアノを弾かせてもらってたかな。最初は二階堂さんと二人だけだったけど、君が来る三〇分前くらいに梶さんと犬飼さんが来たぐらいかな」

「二階堂はずっとフロアにいたのか?」

「ううん。何度か電話をかけに外に行ったり、奥のスタッフルームのほうに行ったりしてたから、ずっと一緒だったわけじゃないよ」

 なら、初瀬がピアノを弾いている間に、二階堂が別の誰かに薬を盛られた可能性も十分にあるか。梶、猪原、犬飼はもちろん、雑賀派の人間にも十分に可能性があるだろう。

 タイガが考えを巡らせていると、初瀬は怪訝そうな顔をして尋ねてきた。

「そんなこと聞くなんて、何かあったの?」

「あぁ……実は昨日の夜、二階堂が誰かに殺されたんだ」

「え……?」

 端的に伝えると、初瀬は呆然とした様子で声を漏らした。タイガが手短に二階堂殺害の状況を伝えると、初瀬の顔が徐々に青くなっていった。

「そんな……昨日普通に話してた人が、いきなり亡くなるなんて……」

「ショックなのはわかるが、聞いてくれ。今の梶はとんでもなく荒れてる。万が一でもやつの逆鱗に触れたら、本気で殺されると思ったほうがいい。だからもう、君は梶にもあのラウンジにも近づいちゃダメだ」

 彼女の肩を掴んで訴えかけると、初瀬は揺れる瞳で見返してきた。

「君は……? 君はどうするの?」

「俺はやることがあるから、まだ抜けられない」

「そんなのダメだよ。君だって殺されちゃうかもしれないんだよ?」

 初瀬がすがるように腕を掴んでくるのに、タイガは胸が締め付けられるような思いに駆られた。何もかも忘れて彼女と一緒に逃げたくなる気持ちを抑えながら、タイガはすがりついてきた手をそっと離した。

「例え殺されるとしても、ここで逃げたら一生後悔することになる。そのくらい大切な用事が残ってるんだ。だから、せめて君だけでもあのチームから離れてくれ」

 タイガは言って、初瀬に背を向けた。スタジオを出ようとドアに手をかけたところで、背後から呼び止められる。

「……最後にひとつだけ聞かせて」

「何だ?」

「もし……君の言う『大切な用事』が果たせなくて、全部の行動が無駄になるとしたら? それでも、君はチームに残るの?」

「あぁ」

 タイガは一瞬のためらいもなく、彼女の問いに答えた。

「何もかも無駄になるとしても、ここで逃げたら俺は一生自分の人生に向き合えなくなる。例え最悪の状況に陥ろうと、逃げるわけにはいかないんだ」

 タイガはそれだけ告げると、未練に引きずられないよう初瀬を振り返ることなく、スタジオを後にした。

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