Vampy Party Squeeze

Emotion Complex

第1話

「お前は妖怪〈袖引き小僧〉の血を引いている」

 これは袖篠隼そでしのじゅんが幼稚園に上がった時に、父親から聞かされた言葉だ。

「でも心配するな。大したことじゃないから」

 とも言われた。

 今なら『妖怪の血を引いてて、大したことないって?』とツッコむ所だが、当時は幼く、隼は素直に納得して受け入れた。

 今なら出来るかというと、それも無理な話であった。

 文句を言うべき父親はもう既に他界しているのだ。

 袖引き小僧を調べてみると、

『夕暮れに歩いていると、後ろに誰もいないのに袖が引っ張られたような気がしたら、袖引き小僧の仕業である。しかし特にこれ以上の悪さはしない』

 と書いてあった。

 害のなさ過ぎる妖怪だ――隼の感想であった。

 確かに問題ない気がした。

 隼の見た目にも妖怪らしさは全くない。

 普通過ぎる人間だ。

 この点で言えば、父親も同様だった。

 隼が九歳の時に父親は亡くなっているが、記憶に残る父は、どう見ても普通の男性だった。妖怪じみていたとも聞いていない。

 ただ一つ上げるとするなら、第六感が鋭かったらしい。

 自動車事故や銀行強盗を勘で回避――なんて大きなことから、道路に放置された犬の落し物の回避という小さいことまで、逸話に事欠かない人であった。

 それは隼にも遺伝している。

 この日もそれが働いてしまった。


 学校から帰るなり、隼は自転車に乗って業務スーパーへ向かっていた。

 母親だけの収入を有効に活用するには、安く、しかも大量に仕入れるに限るのだ。それには業務スーパーが向いていた。多少遠くても、その労力に値するだけの価格と量がある。

 家計の為と言いつつ、徳用の具材や、珍しい調味料を見るだけでも楽しかった。

 うきうきとした気分で道を折れ、商店街のアーケードへ入った時であった。

 ゾクリ――と背中に悪寒が走った。

 月並みな表現だが、ひやりと冷たいナイフの刃を押し当てられたような感覚――が一番しっくりくる。

 自転車を止めていた。

 隼の横には、古いマンションと雑居ビルの隙間がある。

 夕暮れはとっくに過ぎて、時間は八時前くらい。

 アーケードの灯りは煉瓦調の歩道を照らしているが、その隙間に光は届いていない。

 深淵の溝がそこに生まれたようであった。

 隼は自転車をビル側に寄せて止めると、闇に呑まれるように足を進めていった。

 人が通るためではない路地裏は、両手を伸ばせないほどの幅で、見通せない奥で行き止まりになっているようだ。

 入った途端、冷たい空気が差し迫った。

 鳥肌が浮かぶほどの冷たさなのに、湿り気を帯びて重くまとわりついた。それが熱を伴い、感覚を鈍らせていた。

 吹きだまりのように溜まっているゴミくずが、隼の足に踏まれ、やけに大きく響く。

(何かやばい――)

 今までの隼ならこんな状況へ近付くことさえしなかったのに、なぜ今回に限って近付いてしまったのか。

 警鐘を鳴らしながらも、引かれるように、自分の意志とは無関係に足が進む。

 隼は大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。肺の中の空気を全て出し切ると、再び吸い込む。今度は全身に行き渡らせるように――。

 酸素と共に『生』のエネルギーを血液に乗せて末端まで通すイメージだ。

 父に教えられた拳法の、基礎的な呼吸法だ。

 近世では健康のための拳法になっているが、実に攻守に優れた武闘系であり、『生』のエネルギーを利用した八卦は、人ならざる者には有効な攻撃となっていた。

 指先に感覚が戻る。

 抗う力が生まれた。

 ゆらりと上がりそうになった左足を止めたことで、歩行が止まった。

 路地裏の中程を過ぎた辺りだ。

 闇に慣れた目が、奥の行き止まりを確かめた。

 Tの字になっている。

 つまり、突き当たりで右と左へまだ進めるということだ。

 しかし、何者かの気配がして、とてもその先には進めない。

(右だ――)

 その気配が人ではないことに隼は気付いていた。

 微かに漏れる音と、肌に感じる空気感が、二つの気配を伝えてくる。

 争っているような感覚。

 しかも一つは、今まで感じたことのない波動を発している。

 これまでは避けるように働いていた勘が、その強すぎる波動へと、逆に引かれてしまったようだ。

 まだ遅くない――足を止めてから数秒、隼は前に出ていた右足を引き上げた。

 その時だ。

 右側から影が飛び出てきた。

 二メートルほどの高さから弧を描き、隼から見える位置へギリギリに降り立った。

 目を凝らすと、人の姿が突き当たりの闇に浮かび上がる。

 立ち膝で、着地した時の姿勢を維持している。

 二メートルを超える跳躍力と、音もなく着地する技術で、その影の人物も只者ではないことが分かる。

 しかし、隼が感じていた波動は、彼ではない。

 彼の脅えた目は隼ではなく、正面――右側の通路に向けられたままだ。

 ぬうっと、闇がゆっくり動いてきた。

 全身が見えたわけではない。

 にもかかわらず、背骨が凍寒に晒されたように、全身が総毛だった。

 人型の影が闇をまとわりつかせ、足、腕、そして頭を覗かせてきた。

 瘴気を発する影がフレームインしてくると、左側にいた人影は立ち膝の姿勢から後方へ跳び、フレームアウトしていった。

 低い体勢から飛び退った動きよりも、ただ立っているだけの、人型の闇の方が隼には脅威であった。

 今まで感じたことのないプレッシャー。

 妖怪、モンスターの末裔、魔獣――この年齢にしては異常なほどの不幸なる遭遇を、隼は潜り抜けてきた。

 それらは経験として積まれ、隼の力となっているはずなのに。

 どんな修羅場もこれほどではなかった。

 隼は気圧されていた。

(何なんだ、この人――!)

 ギン――

 紅い光点が一つ浮かんだ。

(あれは……目――?)

 隼がそう認識した途端、その紅い目の下で、じゅわりと水っぽい音を立て、闇が裂けた。

 白く歪な下弦の月。

 口だ。

 その〈闇〉が何者かという予測が立ってしまった。

 月を形作る歯は、エナメル質の光沢で仄かに光り、溢れ滴る黒い液体を濃い影として浮かび上がらせた。その陰影が鋭く伸びた犬歯を強調している。

(吸血鬼だ――!!)

 闇の中で、血よりも深い紅が、隼を見た。

 その瞬間、身体が反応していた。

 拳法の基本姿勢を取ったのだ。

 腰を低くし、右つま先を前に、相手に対して右側を向ける。

 ふわりと両腕は肩の高さまで上げ、掌を正面に、右手の方を心持ち前に出す。

 先ほど金縛りを解くためにした呼吸法が、功を奏した。

 相手に呑まれることなく、自然と自分のベストが出せた。

 人型の闇が消えた――

 目の残光を残し、正面は壁だけになった。

 しかし気配は追えている。

 頭上を越えていく。

 背後を取る気だ。

 隼も構えを後ろへ回す。

 円を描く演武の形で、両の掌を持っていく。

 同時に、身体の内側から腕を抜けて掌へ繋がる道筋をイメージする。

 臍の下に集めた『生』のエネルギーが通るための、螺旋を描く太い道――。

 両腕を突き出した先に、質量を持った闇が下りてきた。

 掌は相手の胸の位置。触れるか触れないかの距離だ。

 相手の動きは攻撃ではなく、隼を確保しようというものであった。

 隼の両肩があったであろう空間へ両手を伸ばしていた。

 当然、その手は何も掴めていない。

 既に隼は吸血鬼の内側へ入り込んでいるのだから。

 前に出ている左足を、音を鳴らすほどに強く踏み込んだ。

 臍下から『生』のエネルギーを一気に放出した。

 イメージした通り、身体から両腕へ気が突き抜けていく。

 腕で竜巻のように螺旋を描き、掌で大きくなったものを、影の胸へと押し付けた。

 手加減無しの一撃だ。

 光が溢れた。

 実際の光ではないが、見る者には見えるイメージの具現化だ。

 隼も心でそれを捉えた。しかし両の目は眩むことなく、相手を視界に収めている。

 位置を入れ替え、吸血鬼との距離だけが空いていた。

 光を背負うような闇の肩越しに、商店街の往来が見える。

 たかが十数メートルの距離が遠く感じた。

(遠い……?)

 隼は気付いた。

 自分のすぐ後ろがT字の横棒部分に当たる壁だと。

「おれが弾かれたのか――」

 思わず口を衝いて出た。

 今の攻撃は物理的なものではない。

 平たく言えば、生体エネルギーの塊を相手の内部へぶつけるものである。

 それを吸血鬼は強靭な精神で耐え、その余波で隼を押し返したのだ。

 直接触れたわけではなくとも、跳ね返ってきた波動で分かる。

 あの強固な肉体は、殴った方の拳がダメージを受ける。

(だけど――)

 隼は相手の紅い目を見た。

 明滅するように揺らいでいる。

 全く効いていないわけではない。

 呼吸を乱さないように、構えを元に戻す。

 両の掌を突き出した姿勢から、右足、右手を前にして腰を落とした。

 目の端で何かが動いた。

 丁字路の奥――入口からは死角になる部分だ。

 光の届かない陰で、人型の輪郭が動いている。

 さっき吸血鬼から逃げてきた、二メートルの跳躍力を持つ人だ。

 正面の鬼人から目を離さず、意識だけを横の被害者へ向ける。

 首筋を押さえているのが、影からでも分かった。

(咬まれたのか――)

 吸血鬼の口が濡れていた理由を知った。

 そして吸血鬼に咬まれることの意味。史実や文献通りならこの人も吸血鬼になるのだ。

 しかし、爆発的に吸血鬼が増えていないことを考えると、それは眉唾かもしれない。

 とはいえ、かなりの深手のようだ。

 声をかけるべきか迷っているうちに、影が跳び上がった。

 二メートルどころではなかった。跳躍力のみだけで路地裏を脱していった。

 ふ――と空気が和らいだ。

 吸血鬼が消えていた。

 気配ははるか上空を遠ざかっていく。

「逃げた? いや、追っていったのか――」

 隼は大きく息を吐いた。

 身体を起こそうとして、ふらりと上体が揺らいだ。

 すぐ後ろの壁へ背中を預けて何とか立った。

 T字の路地裏は、元のくすんだ裏道に戻った。

 ゴミ箱の底に落ちたような、饐えた臭いが鼻をつく。

 追われていた方も、あの跳躍力からすれば、ただの人間ではないのは明らかだ。

(逃げ切れることを祈ろう――)

 人外同士の争いに、これ以上関わりたくなかった。

 ふらりふらりと膝が笑うのを抑え込みながら、商店街に戻った。

「今日はもう帰ろう……」

 精神的疲労も大きかった。

 隼は自転車へ跨がると、当初の目的の業務スーパーには向かわず、帰宅の途についた。

 高校生の隼が手に負える事案ではない。

 これまでの相手とは比べ物にはならない威圧感であった。

 好んで死にそうになる目に遭ってきたわけではない。

 巻き込まれ、まあ、結果的に戦う意思を持って臨んできたが、どれも皆、何とかギリギリで生き残ってきた。

 しかいs、ネームバリューの高い吸血鬼相手では、いくら妖怪の末裔とはいえ、袖引き小僧ではどうしようもない。

 今回は大人しくしておこう。

 そう心に決めた。

 家族や友達を巻き込むわけにはいかない。

「今日ゆっくり休んで、明日には忘れて日常に戻るんだ」

 隼は自転車を走らせながら、日常に帰っていった――


 ――はずであった。

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