第23話『身心脱落』

 前座試合はずいぶんと盛り上がっているらしい。


 Dプロモーション主催で行われる本日の興行は、OPBFチャンピオンベルトを持つ滝聖人を引きずり出すためだけの茶番劇に過ぎないのだが、出場するプロボクサーたちにとっては自分の今後を左右する大事な勝負である。捨て試合など存在しない。だからこそ、プロのリングは白熱するのだ。


 控室は思ったよりも静かだった。開始時間に向けて体の暖気を行った静川は、残り時間を気にしながら南のマッサージを受けていた。少しリラックスしたらバンテージを巻き、いよいよ最終ウォームアップに入る段取りである。


 一際大きな歓声が、ドアの向こうから聞こえてきた。建物の構造上、試合会場までは距離があるはずだが、大歓声が上がると、こうして控室まで音が届くことがある。おそらく派手なダウンが生まれたのだろう。


 モニターで確認するかぎり、客入りは上々だった。これは、多くのスポンサーやファンを抱える滝の力によるところが大きい。興行の立ち上げに奔走していたディエゴも今頃、リングサイドの席で試合のプログラム進行を見守っているはずだ。……とはいえ、ひとまずチケットの販売状況に関しては満足している事だろう。


「痛みは?」

「ない」


 南と短いやりとりを交わし、静川はマッサージの終わった各部の作動を確かめた。


 減量中は吊りやすくなっていたふくらはぎの緊張も、計量後の水分補給でなんとか持ち直している。下腿は打撃の要、静川が軽くステップを踏むと、体はちゃんとレスポンスを返してくれた。


 南と共にセコンドに入る新海と野々見沢は、さっきからリングサイドに持ち込む物品のチェックで揉めている。どうやら、野々見沢がアイシング用の氷をあまり買ってこなかったようだった。


「野々見沢! おまえなぁ、長丁場になったらどうするつもりだ? これじゃ最後までもたねえぞ」

「そ、そんな、こ、ことには、な、ならない。き、今日は、は、早い、ら、ラウンドで、お、終わる」

「なんで、お前にそんな事が分かるんだよ?」

「わ、わかる……」

「その辺にしてくれ。集中したいんだ」


 静川がそう言った途端、新海は黙りこくってしまった。自分の意見が通った野々見沢は上機嫌で荷物のチェックを終え、南が静川の拳にバンテージを巻いていくのを、楽しそうに眺めている。


 徐々に武装されていく自分の拳を見つめながら、静川は決意を固めていた。


 新海は否定的だったが、野々見沢の言葉は的を得ている。今日のタイトル戦は、早いラウンドで終わるだろう。


 氷の有無など関係ない。12ラウンドでの試合経験を欠く静川には、はじめから長期戦で滝に勝ち目などないのだ。すべての準備を終え、花道を歩いている間にも、静川の頭は冷えていた。


 KOを意識しすぎるあまり、前回は野々見沢相手に同士討ちという失態を犯した。今日こそは冷静に、この青いグローブに包んだ拳を、滝の急所に叩き込む。


 静川がロープをくぐってリングインすると、赤コーナーへ続く花道を、ガウン姿の滝が歩いているところだった。後援会らしき法被(はっぴ)姿の集団が、一斉にコールをあげている。


 自分のランキングと名前がアナウンスされて、静川は相手コーナーを振り返った。


 もったいぶった言い回しで滝のキャリア、そして肩書がアナウンスされるのを静川は冷ややかに聞き流す。しかし、視線は滝から外さない。レフェリーに促されて至近距離で対峙、再びコーナーへ戻る間も、静川は今日の戦型に思考を巡らせていた。


 ところが、ゴングが鳴った瞬間、赤いグローブが鼻先数ミリの空間を通過した。


「!?」


 アウトボクシングからの組み立てで、後ろ重心になっていたのが幸いした。もしもインファイトを選択していたなら、今の一発で静川のタイトルマッチは終わっていただろう。

 だが、事態は少しも好転していない。いきなり振り抜いた左フックの反動で、滝の右フックが飛んでくる。一度目の回避で運を使い切った静川は、今度こそ反応が遅れてしまい、左ガードにフックを引っかけてしまう。


 フルパワーで打ち込まれたパンチの衝撃で、静川の体がくの字に折れ曲がった。


 左腕の感覚が一瞬途絶、体幹のバランスが崩されて、コンビネーションをフルコースで喰らう未来を予感する。だから静川は、そのままキャンパスにダイブした。


「静川――ッ!」


 青コーナーから新海の絶叫。しかし開始早々のダウンを取り、ペースをつかんだはずの滝の表情は、依然鬼のようにけわしかった。拳に残る手応えから、静川が自分からダウンを選択し、逆に窮地を脱したことを察したのだ。


 だが、ダウンはダウンである。即座にカウントを取り始めるレフェリーに、無事をアピールして、わずか7秒ほどの休息を終えた静川が戦線に復帰する。


「ハーッ。ハッ、ハーッ」


 動揺が収まらない。

 いきなり、来た。滝聖人が、いきなり来た!


 頭の中が一気にその言葉で埋め尽くされた静川は、攻撃プログラムの起動を恐怖に阻害され、ステップワークとは名ばかりの逃走を強いられる。


 普段なら、レフェリーを盾にするぐらいの小細工も考え付いただろう。しかし、滝は敵に思考する時間など与えない。弱腰になったボクサーの心理を突いて、ジャブとボディーワークを駆使したプレッシャーをかけると、相手の逃げ先をコントロールする。選択肢を奪われた静川は、みるみるうちに赤コーナーへ詰められた。


 本来は、相手が低威力のジャブを打っているうちに、ポジションを確保して打開策を見つけるべきなのだ。だが、ダウン復帰直後のボクサーの多くは、ジャブの後に潜むコンビネーションブローを恐れて、それができなくなる。


 静川の体内で続くシステム障害を見抜いた滝は、冷徹にラッシュを開始した。

 効果覿面な押し込み戦術である滝のラッシュは、手数こそ多いが、そのほとんどは威力や精度を度外視したアピールブローだった。しかし、そのうち数発は本物のパワーパンチが紛れている。


 ストップのタイミングを見計って、レフェリーの顔色がわずかに変わる。あと数秒でこの試合は止められるだろうという、滝の心の声が聞こえた気がした。しかし、そんな針の穴のような隙を、静川は見逃さない。


 膝を折り、腰を落とし、静川は滝の両脇へ自分の腕を差し込んだ。虚を突かれた相手の胴体へ組みつくと、静川はそのまま強固なクリンチを完成させる。

 

 しかし、状況はそれで終わらなかった。

 クリンチを嫌がった滝が暴れるよりも早く、レフェリーが二人の間に割って入るよりもなお早く、静川はみずからホールドを解いていた。危機を回避するのが最優先であるはずの静川が、クリンチを放棄? そんなものは滝の想定外だった。


 ホールドを解除された両腕両足が、即時戦闘モードに移行する――、その直前、静川の右アッパーが滝聖人の顎に先着。肉が破裂するような音がした。


 観客の悲鳴に、レフェリーのダウン宣言がかき消される。


 かつて、南の顎を砕いたパンチに相当する感触が、静川の右拳に余韻を残す。だがKOの予感は、一瞬で覆された。

 滝が即座に立ち上がったのだ。ただし、至近距離で利き腕のアッパーを顎に叩き込まれたそのダメージは、甚大だった。足元がいかにも怪しい。


 これが千載一遇のチャンスだという事は、静川にも理解できている。再起動したシステムに従って自分のボクシングをすれば、さらに大量のダメージを与えられる。なにもかも分かっていながら、それでも静川の足は、滝との間合いを詰めることができなかった。


 お互いに中間距離を保ってのジャブの差し合い、それが今可能な最善手だった。一方は恐怖で、また一方は脳震盪のうしんとうで、精神と肉体のリカバリーを待っている。


 二人の膠着状態を打ち破ったのは、リングの外から鳴り響くゴングの音だった。


「大丈夫か!? やれるか?」


 青コーナーに戻った途端、新海が血の気の引いた顔で尋ねてきた。


「やれるさ。ダウン、取り返しただろ?」

「ポイントは取られとる。お前、手も足も全然動いてへんやんけ」


 南の毒舌に、静川は強がりを言い返すことができなかった。もっと慎重なボクサーだと思っていたのだが、滝があれほど苛烈な立ち回りをしてくる相手だとは予想外だった。


 南の言う通りだ。ボクシングはラウンドマストシステムにより、両者ダウンの状況でも優劣が決まる。クリーンヒットや積極性などの要素が考慮され、先ほどのラウンドは滝に軍配が上がっているはずだった。


 口を濯ぎ、少しだけ水を飲む。次のラウンドは必ず取る。


 決意を固めた静川は、ゴングと同時にコーナーを飛び出した。

 どういうつもりか知らないが、滝は自分が有利なはずの長期戦を切り捨てているらしい。

 緻密に計算されたボクシングを好む滝にしては、ずいぶんとお粗末なストラテジー戦略だが、短期決戦は静川も望むところである。全力の攻防を仕掛けてくるならば、血が枯れるまで付き合うだけだ。


 予想通り、またしても滝は過剰なプレッシャーで試合のペースを取りにきた。

 滝がリング中央から仕掛けてくるせいで、静川はその周囲を高速でサークリングする羽目になる。滝が放つジャブの一発一発は、静川のステップ中に両足が交差、あるいは揃ったタイミングで飛んできた。人体の構造上、衝撃に弱いポジションになった瞬間を、狙い撃ちしているのだ。


 この攻防で、二人のスキル差は否応なく浮き彫りになった。

 被弾によるダメージだけではない。高速ステップを強要されているせいで、静川の脚に疲労が溜まっていく。そして、1ラウンドをポイントで取られたというメンタルダメージ。あらゆる角度から滝にアドバンテージを奪われていた。


 しかし、これほどの差を見せつけながら、なお滝の猛攻は止まらない。

 ペースを握っているのだから、焦った静川のミスブローに照準を定めて、カウンター狙いに切り替えてもよさそうなものだが、なぜか滝はそうしない。かといって、静川の不用意な挙動にはちゃんとカウンターが飛んでくる。右、左、どちらをとっても強力なフックを叩き込み、体ごと相手のメンタルを折りにくる。


 1ラウンド目に痛い目をみた静川は、たまらずステップバックした。左の後にはすぐ右フックがくるだろう。ミスブロー時の隙が大きくなるのがフックの特徴だが、滝は素早いボディーワークで、その隙の発生時間を短縮する術を心得ていた。


 しかしその滝も、攻撃回避直後の静川が、正面から突っ込んでくるとは思っていなかったようだ。それも滝の右フックに備えて左ガードを固めたまま、がら空きの右ボディーに自分の右を差し込んできた。


 完璧な位置取りで安全圏を確保していた滝の体が、腹を撃ち抜かれてバランスを崩す。静川は空白地帯になったリング中央に乗り込むと、今度は自分からジャブを打って出た。


 あきらかな攻守逆転劇に観客席からは歓声が上がったが、滝は無表情だった。遠巻きに静川のジャブを観察して、距離とスピードを把握する。さらに吟味した低威力のジャブを肩ではじくと、彼はあっという間にクロスレンジへ再侵入した。


 足を止めてのインファイトでは、能力に劣る静川が圧倒的に不利。

 状況を俯瞰していた観客達は皆そう思ったが、誰よりも己を知る静川は、すでに行動を起こしていた。

 静川は一度占拠したリング中央をあっさりと放棄すると、今度はアウトボクシングにシフトする。猪よろしく突っ込んできた滝の顔面に、右フックの土産付きで、だ。


 2ラウンド目終了のゴングは、その直後に打ち鳴らされた。


「と、取っただろ? 今のラウンドは」

「俺の採点やと負けとるで。見栄えが悪すぎるねん、お前」

「くそったれ」


 青コーナーに帰った途端、静川は尻から椅子に落下した。疲労とダメージで膝が緩くなっている。新海と南が二人がかりで腿から揉みこんでいるが、効果のほどは怪しかった。


 呼吸を整うのを待ってから、静川は野々見沢が口に突っ込んでくるボトルから、水分を補給する。

 インターバルは残り二十秒、赤コーナー側もめまぐるしい作業に追われているのが見て取れる。まるでF1サーキットのピット作業だった。これが現代格闘技、チームスポーツの本領である。わずか一分間に過ぎない、このインターバルこそが勝負を分ける試合も多数存在するのだ。


 明日を捨てたはずの静川が、未来を見つめ直すきっかけを作ってくれた仲間達。自分の勝利を信じて、全力で仕事をこなす彼らの姿を見ていると、静川はなぜか拳が固くなるのを感じた。


 もし、このリングを無事に降りることができたなら、その理由を彼らに尋ねてみたい。もしかしたら、笑われるかもしれないが。


 ゴングが鳴った。


「距離を間違えんな、自分が強い場所におれ!」


 背中に叩きつけられた南の声の勢いで、静川はリング中央へ踏み出した。


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