一月 ロキシー
彼女はそう名乗った。
誰かに
足取りの軽さから、おそらく女。十代後半から二十代前半と言ったところだろうか。しかし、どうして気配を察したのかと問われると、一体全体どうしてだろう。自身にさえ説明できないから不思議だった。あれこれと、理由を考える。東京の冬が
「内調……? いや、
眼前には
――ありゃりゃ、
女の声が聞こえてくるようだった。ああ……後ろで苦笑いを浮かべている。距離にして二百メートルだろうか。それなのに、表情まで読み取れてしまうのだから、不思議としか言いようがなかった。数秒前まで、何事もないように装いながら、駅まで向かおうと考えていたが、やめた。きっと彼女には、私のことも白黒の世界に浮かぶ一点の異物として見えているのだろう。果たして何色に見えているのだろうか。そんなことを考えながら、女が私に追いつくのを待つ。
「誰かと思えば、
「誰かつけてると思ってたけど、
知り合いだった。偶然を装う
その実、彼女は和名:
見れば、その風貌はどこからどう見ても日本人(私もそうだが)。しかし、私がサハリン出身であるように、
「で? こんなとこで何してたの、
「ねぇ、下の名前で呼びあう仲じゃないでしょ? 馴れ馴れしいよ」
「まぁまぁ、いいじゃん。ね、
こいつ……。音をたてたくなる舌の代わりに、奥歯で感情を噛み殺した。なるほど、
ならば、どうする?
「なるほど。泳がされてたんだね」
「いんやー。個人的に興味があったから調べただけよー。まぁ、知れたのは名前くらいなもんで、有益な情報は出てこなかったけどね。――ソーニャってのもコードネームかなんかでしょ?」
まぁ、同業者同士、仲良くしようよ。それが、彼女の言い分だった。
「私、
「?」
「
コードネーム……? とは思えなかった。ならば本名かとも思ったが、合理的な思考が、即座にその可能性を棄却した。ならば、これまた私を油断させるための即席の偽名だろうか。そう言えば、Roxyは元々ペルシャ語で「夜明け」、Hernandezは
「
くだらない計画だ。名の裏にあるものを
しかし、どうしたことか。
とはいえ、お互いに工作員だと認識していたのだ。リークする機会は、これまでにいくらでもあった。それでも、お互いにそうしなかったのは、お互いにそうしないという暗黙の了解が成り立っていた側面があった(単純に、リークすること自体がリスクでもあるのだが)。なるほど、さながら今のアメリカとソ連のようだ。すなわち平和共存。思えば、あの核戦争に至るチキンレースから四年。この時代を大きな歴史の流れの中で論ずるならば、世界の破滅を回避した二つの超大国が、緊張緩和に向けて動き出す冷戦の一幕であった。しかし、暦の上でも春はまだ遠い。そんな中にあって、一月の東京の風は、やはり生温く感じた。
「……」
不意に、
持病か何かだろうか。先ほどまでの快活さが嘘であるかのように、すっかり
「一人でちゃんと帰れそう?」
「……うち……来る?」
相当弱ってる。呼吸は落ち着いてきているようだが、辛そうに目を閉じている。「家の場所がバレてもいいの?」と切り出せる状況でもなかった。かと言って、乗りかかった船から降りるわけにもいかない。「これ、貸しね」と実際に口にすることで、寄り添うことを正当化した。そんな時に限って、
*****
すっかり陽が落ちた中で、
鍵を開けば闇。明かりを
刹那、私の身体は宙を舞っていた。
全身を貫く衝撃。視界が映しているのは天井。そこでようやく、私は投げ飛ばされたのだと理解した。それも、背負い投げ。痛みよりも、混乱が先立つ私。そして状況を飲み込むよりも先に、眼前にM1911の銃口が付きつけられた。天上からの光源を遮る
「発作は……?」
「
演技の才能あるかも。そんなふうに自画自賛する
唖然。それはすぐに怒りに変わった。「資本主義者め」。気付くとそう吐き捨てていた。だが、それで状況がどうにかなるわけでもない。自然な流れで、起き上がろうとする私の
「さぁ、教えてもらおうか。
「何かしているように見えた? ただの散歩だけど?」
「へぇ……。でも、あそこってさ、ホテルオークラ(旧:ホテルオークラ東京)とアメリカ大使館あるんだけど、それでもただの散歩?」
「じゃあ逆に、
いや、東京タワーあるのは芝公園でしょうが。そんなどうでもいい反論が
「家の周りなら地の利があるとでも? ピッグス湾から何も学んでないようだね、アメリカ人。ああ、ごめん。ここは家の中だったね。まったく、居場所までバラして何がしたいんだか。イギリス人が君らのことを馬鹿呼ばわりする理由が分かった気がするよ」
「言うじゃん、
「教えてもらおうか。沖縄の返還交渉。そのフィクサーは誰?」
「?」
昨年、一九六五年八月。
「Uh-huh. 嗅ぎまわってたのって、沖縄のことだったのかぁ……」
「知りたいことなんて、他にもいくらでもある。挙げればキリがないよ」
知りたいことだらけだ。沖縄の返還交渉に関しても知りたい。二年前の中共の核実験を受けて、日本も核保有に乗り出すのかも知りたい。昨年の日韓基本条約は、アメリカ側がかなり後押しする形で成立したが、これらのことが日米安保体制にいかなる影響を及ぼすのかも注視すべき点だ。沖縄返還問題にせよ核問題にせよ、日米安保体制に亀裂やそうでなくとも不和をもたらしうる重要案件であった。
そして最大の焦点と言えば、やはりヴェトナム戦争の行方だ。北ベトナム側との直接接触が明らかになった今、和平交渉が進むことも考えられる。先日には、ハリマン移動特使が来日し、
銃はもう一丁あった。
「銃を下ろしなよ。
「脅しに見える、
「ちょいちょい。ここ住宅街のど真ん中なんだけど?」
「関係ないよ。私は撃てる。あんたは?」
一九六二年十月。あの時、海の底で核魚雷発射を自制し、核戦争を防いだアルヒーポフ艦長は確かに英雄だったかもしれない。だが今、私の手の中にあるのは、核のボタンでも何でもない。だから、撃つのは造作もないことだ。それどころか、相手は死んで当然、ロクでなしの資本主義者だ。その
「……」
「……」
「……ほーら、撃ちなよ」
「……そっちこそ」
「もしかしてビビってる? 共産主義者さん」
「その銃はお飾りなの? 資本主義者」
それでも。
撃つのを
「
「Wow. 長い名前だね。改めまして、
「あんたの
「あなたの
世界は
カラーテレビの普及率。
この時、
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⁽¹⁾ 日韓基本条約は、一九六五年六月二二日に署名され、同年一二月一八日に発効したが、これを巡って、反対する革新政党、団体、学生がデモを行った。
⁽²⁾ 「東京のアパートで連行寸前に逃げる ソ連大使館員誘かい事件」讀賣新聞、昭和四一年(一九六六年)四月一四日(夕刊)。
⁽³⁾ ちなみに、この演説にはアメリカ側の圧力があったと指摘されている。すなわち、日本防衛に対する沖縄基地の重要性を、演説内に盛り込むように介入してきたのである。したがって、首相演説には「極東における平和と安定のために、沖縄が果たしている役割は極めて重要」との一節を加えることとなった。とはいえ、アメリカの介入に対して、ただただ受け身だったわけではなくく、
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