第36話 御殿会議(3)

「うん、そうだね。紗枝ちゃん、行ってくるね」


「うん。見に行くから、しっかりね」


 柚子はそう言うと、たこ焼き屋を出ていこうとした。


 そしてふと、教室の隅っこに、文芸部の部誌を売っている無人販売所があることに気づいた。一冊二百円。文庫本サイズ、淡い水色の表紙。茶ノ原高校のエンブレムに、『茶ノ原文芸部短編集Vol1』のタイトル文字。柚子は棚のコインケースに四百円を入れ、二冊を手に取った。それを見ていた千代も、二百円を入れて一冊買った。


「じゃ、行こ」


「うん」


 柚子は本を抱えて体育館に向かった。





 昼も二時を過ぎると、生徒も一般客も体育館のステージを見に行くので、だんだんとたこ焼き屋の客は減っていった。一日目のピークをやりきった二年A組の生徒たちは、互いに互いを称え合った。二時半からは、四基使っていたたこ焼器を三機にして、教室に残る生徒も五人体制から、三、四人に減らした。これも、シフトを組んだのは詩乃だった。


 二時からは軽音楽部の人気ナンバーワンのバンドのステージがあり、その後は、ダンス部、コーラス部、吹奏楽部、ピアノ部・管弦楽部、チアダンス部の発表と続く。どのステージも茶ノ原高校文化祭の目玉で、見逃せない。観に行きたい生徒がA組にも多いので、詩乃も、できるだけ二時から先は、少ない人数で、そして一人一人の拘束時間も減らしてシフトを組んだ。その甲斐あって、A組の生徒たちは、詩乃の作ったシフトに文句は言わなかった。実は、生徒たちが文句を言わなかったのはもう一つ大きな理由があった。シフトを作った詩乃が、どの時間帯にも名前があったからだ。そんなところで、ひっそりと詩乃は、クラスの中で株を上げていた。


 三時半ごろになると、客もずいぶん減ってきたので、詩乃はその場の判断で、四人いるうちの一人を自由にした。そうして段々と、客の数に合わせて人数を減らしていき、四時半には、詩乃は一人でたこ焼き屋を回すことにした。四時半ごろになると、客は来るには来たが、プレート二つで充分対応できる人数以上にはやって来なかった。そうして詩乃は、一人で二つのプレートを使う経験から、明日は最初から、一人か二人ずつ人数を減らしても大丈夫だなと思った。


 文化祭一日目の終わりは夕方五時。ちょうど日も暮れて来て、チアダンス部の発表が終わると、吹奏楽部が『蛍の光』を演奏しながら、校舎の道を練り歩く。各団体の店仕舞いをお願いする放送が流れ、体育館からも人が追い出される。


 詩乃は油まみれの手を洗って、明日のシフトの変更作業を行うことにした。クラス全員の名前と所属する部をまとめた文化祭用の名簿を見ながら、明日のシフト表の名前に二重線を引いてゆく。


 次第に、クラスの生徒たちも、片付けのために戻ってきた。


「水上お疲れー」


「水上君お疲れ様!」


「片付け手伝うねー」


 皆、キッチンペーパーでプレートを拭いたり、床に散らばった揚げ玉や刻んだネギを掃除したりし始める。そのうち悠里も教室に戻ってきた。悠里は、教室の隅っこ、文芸部の部誌を売っている小さな無人スタンドの机で何やら作業をしている詩乃を見つけた。


「水上君、お疲れ様。何してるの?」


 詩乃の後ろから、変更を加えているシフト用紙を覗き込む。


「シフト表、変更させようと思って」


「え、今から!?」


「うん。今日やってみて、人数もうちょっと少なくできそうだから――よし」


 詩乃は二重線で修正を加えた明日のシフト表を持ち上げて悠里に渡した。


「え、もうできたの?」


「うん。何となく考えながらたこ焼いてたから」



 悠里は詩乃が変更を加えたシフト表にざっと目を通した。どの時間帯でも、人数が一人か二人ずつ削減されている。


「これで、大丈夫なの?」


「うん、大丈夫。連絡は、近藤さんに任せてもいい?」


「うん、もちろん! すぐクラスラインに流しちゃうね」


 悠里はそう言うと、すぐに写真を撮って、文化祭用のクラスラインに流した。『水上君が変更してくれました』の一文も忘れずに。悠里は、今は詩乃に対して、好意すら抱いていた。最初はとっつきにくい男子と思って敬遠していたが、実はたこ焼き作りが上手いだけでなく、シフト表やスケジュール管理の能力が異様に高いのがわかった。そして何より、責任感がある。この点について、悠里は自分だけでなく、他の皆にも、詩乃のその良さを教えてあげたいと思っていた。無口で、見た感じは暗いが、それを馬鹿にされるのは、水上君には不当だと思ったのだ。


「水上君、今日はもう上がっていいよ。片付けは、みんなでやっとくから」


 悠里はそう言った。


「でも……」


「皆、うちの〈たこ焼きリーダー〉帰しちゃってもいいよね?」


 悠里が、クラスに戻ってきた生徒たちに訊ねると、皆、「いいよいいよ」と、応じた。


「……いいの?」


「うん、いいよいいよ、水上君今日ずっとやってくれてたし」


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


「あ、そうだ水上君――」


 悠里はそう言うと、財布から二百円を取り出して部誌販売所のコインケースに入れ、部誌を一冊手に取った。


「私も読ませてもらうね」


「……口に合わなかったら、ごめんね」


 詩乃はそう答えて教室を出た。


 悠里は、思わず笑ってしまった。


 教室にはそれから続々と、部活の方の片付けなどを終えたクラスメイト達が戻ってきた。柚子も、体育館の掃除と衣装の片付けをしてから二年A組に戻った。柚子が戻ってくる頃には、教室の掃除はすでに大方終わっていた。柚子の後ろには、ひょっこり千代がくっついてきている。千代は、柚子の恋を応援しようと、早速その気になっていた。柚子が好きだという男子のことも見ておきたかった。

 ところが、すでに教室に詩乃の姿はなかった。柚子はそれとなく悠里に聞いた。


「もう先に上がってもらったよ」


 悠里は軽い口調でそう答えた。


 もやもやっとした感情が柚子の中に沸き起こった。その感情に従って、柚子は悠里に言った。


「近藤さん、最近水上君と仲良いよね」


「うんうん、仲良いよ」


 と、柚子の言葉の裏を探るわけでもなく、悠里が応えた。悠里は、まさか柚子の質問が、言葉以上の意味があるものとは考えていない。


「水上君、最初はやりにくかったんだけど、結構いいトコあるんだよ。今日も朝からずっと頑張ってくれたし、その前の準備だって――」


「知ってるよ!」


 柚子は、悠里の言葉を遮るようにしてそう言った。


 言ってしまってから、しまった、と思った。


 あれ、と悠里が首を傾げる。


「――水上君、ずっとシフト入ってくれてたもんね。近藤さんも、たくさんやってもらっちゃって、あはは……ごめんね、私、学級長なのに全然手伝えなくて……」


「そんなことないよ! 新見さんは文化祭盛り上げてくれてるし、新見さんが学級委員長じゃなかったら、こんなに上手くいってないんだから!」


 悠里は、慌てて柚子を慰める。


 そういえば、新見さんも責任感が強いんだったと、悠里は思い出したのだ。それで、クラスのたこ焼き屋を手伝えないことに責任を感じているに違いない。そう思ったのだ。


 悠里から慰められた後、柚子は、片付けの済んだ教室をとぼとぼと出た。


 いつもは元気印の千代だったが、今は、柚子にかける言葉を探しすぎて、頭がパンクしていた。クラスメイトに、あんなに露骨な嫉妬心をぶつけるなんて、そんな柚子を、千代は今まで一度たりとも見たことはなかった。大体、他人に対して、柚子が攻撃的な言葉や態度をとることさえ、千代は見たことがない。ダンス部なんていう、先輩からの指導はかなりスパルタなことの多い環境にいても、柚子は、後輩に教える時には、いつも優しい。言葉も、態度も。〈仏の柚子〉と呼ばれないのは、容姿が整っていて仏像のあのイメージとかけ離れすぎているから、というだけの理由である。だからちょっと笑顔が少なくなっただけで、後輩が不安になってしまう。


「私、なんか、嫌だ……」


 ぽつりと、柚子が言った。


「そんなことないよ、柚子はいい子だよ。さっきのは、普通だよ、普通!」


「普通じゃないよ。近藤さんも、頑張ってくれてるのに、私あんな、なんか嫌なこと……なんであんなこと言っちゃったんだろう」


 本気で落ち込んでいる柚子を見て、千代は、同性ながら、この子なんでこんなに可愛いの、と思ってしまった。


「あれ、柚子、千代、お疲れー」


 ――そこへ、紗枝がやってきた。

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