第30話 三歩進んで(1)
休みが明けて、テスト週間に入った。
テストは水、木、金曜日の三日間。一日二教科から三教科、各時間五十分。詩乃は、どの教科のどの問題も、よくわからなかった。勉強をしていないので、回答は、質問文の文章そのものから推測する。それでもダメなら、あとは勘。
唯一詩乃は、国語だけは良くできた。実は、神原教諭に個人的に教えてもらっていた。ほとんど誰も知らない話だが、神原教諭は文芸部の顧問だった。顧問だからといって、文芸部の活動や詩乃の創作品について口出しをするわけではない。詩乃と神原教諭の関係は、顧問と生徒というのとは少し違っていた。
神原教諭は、詩乃の茶ノ原高校転入の条件に深く関わっていた。茶ノ原高校に転入する場合、広域な教科からなる一般的な転入試験の他に、一芸入試・自己推薦入試という方法がある。詩乃は後者で入学した。一芸入試の場合は、生徒は個別に、転入の条件を課される場合がある。詩乃の場合は、例えばその条件の一つが、文芸部への入部である。部員のいない文芸部は、「休部」状態だったが、詩乃の入学により、四月一日から三年の時を経て再開となった。
詩乃の転入条件は、他にもあった。その一つが、国語科のテストの点数である。――必ずどのテストでも、国語は八割以上の点数を取らなければならない。そのサポート役として、詩乃には学校側から、神原教諭があてがわれたのだ。
週に二度ほどの個人授業。しかし詩乃は、神原教諭の個人レッスンを苦だと思ったことは、今のところ一度もなかった。個人授業は放課後、一回二十分程度行われる。あとは、神原教諭の「これは読んでおきなさい」や「これは憶えておきなさい」を家でしっかりやってくる。いわゆる「宿題」だが、詩乃にとってはこれも苦ではない。苦にならないどころか、詩乃はその国語科的な知識は、自分が作家としてやっていくなら、必須であると思っていた。
その甲斐あって、詩乃にとっては初めてとなる茶ノ原高校のテストだったが、現代文で一問落とした以外は、全て正解。九十三点だった。神原教諭はテスト三日目の放課後、文芸部までやってきて、詩乃にそれを伝えたのだった。
詩乃は、最初に会った時から、神原教諭にはすっかり心を開いていた。国語科の老教師、それだけで、詩乃が信頼するには充分だった。そしてまた、神原教諭には、教師ではない顔もある。教諭は、元大手新聞社の記者だった。それも、全国紙の一面に載る文章を書くような。
「部誌の調子は、どうですか?」
「一応、短編を六つ、書きました。一篇一万文字くらいなので、部誌として、ちゃんと出せると思います。あ、印刷も頼んだので――」
詩乃はそう言って、PCデスクの傍らに置いておいた印刷業者からの請求書を神原教諭に渡した。神原教諭はその金額などを確認し、それを上着の内ポケットに折りたたんで仕舞った。
「水上君は、編集者にとってはとてもありがたい作家ですね」
そんなことを言い残して、神原教諭は文芸部を後にした。
それから二日の休みを挟んでテストの翌週の月曜日、テストが終わったことの解放感と、文化祭準備期間に入る高揚感で、二年A組の教室も、休みの時間は賑やかだった。そんな中で、柚子と詩乃、二人についてある噂が立っていた。
「ねぇねぇ柚子、あの噂ってさ――」
昼休み、紗枝と柚子と、そしてクラスの他の女子(バスケ部の友人同士)が二人の四人グループ。噂のことを柚子に切り出したのは、その女子二人のうちの一人だった。目を輝かせて、こそこそ話。近くには男子の昼食グループもあって、間違いなくこの会話に耳を澄ませている。それは、紗枝には背中越しでも気配でわかった。
「う、噂……?」
柚子はひとまず、とぼけてみた。
今秘かに話題の〈噂〉の内容は、柚子も紗枝から、そんな噂が出ているよと聞かされて知っていた。テストの前、柚子が詩乃の家にお見舞いに行った、という噂が一つ。そしてもう一つは、先週の休みに、柚子と詩乃が二人でいるところを見た、という目撃情報の噂。これが、火のない所に立つ類のものなら、昼食の話のおかずとして楽しめる。しかし今回はそうではない。まぎれもない、事実である。
柚子は思わず、ちらっと教室の廊下側の端、詩乃を見やった。そこにはまだ、詩乃の姿があった。この日に限って詩乃は、すぐに部室に行かず、真っ新なA4印刷用紙を前に、柚子のプレゼントした万年筆を持って、片肘をついていた。柚子が一瞬詩乃を見たその視線に、紗枝も、バスケ部女子の二人も、即座に気が付く。
「え、本当なの?」
こしょこしょっと小さな声で、一人が柚子に訊ねる。
声を潜めてはいるが、この会話は、どんな小声で言っても筒抜けであると柚子は知っていた。
「う、うん」
おずおずと、柚子は答える。
えぇー! と、強いため息のような声をバスケ女子二人が上げ、顔を見合わせる。それって、そういうことだよね!? というような驚きと期待を含んだ目。この二人は本当に、恋バナに目が無いなと紗枝は思うのだった。
紗枝は、ちらと柚子を見やった。
どうする? もういっそ、オープンにしちゃったら? 水上なら誰も狙ってないだろうし、この二人だって、他の女子も、そうとわかったら柚子に味方するよ。男子はまぁ、柚子狙い多いから、水上はちょっと大変かもしれないけど、ここで変に否定して水上とすれ違うよりは、認めちゃった方がいいんじゃない? ――そんな思いを、紗枝は目線に込める。
「水上君、一人暮らしでさ――」
柚子は、慎重に答える。
柚子は、今はまだ、詩乃との関係を騒がれたくはなかった。詩乃がそれを嫌うだろうというのが一つ。そしてもう一つは、柚子自身、今のふんわりした詩乃との、何とも言えない関係が嫌いじゃなかった。付き合うだとか、彼氏彼女だとか、いずれそうなりたいというのはあっても、それを急ぎたくはない。
「――風邪引いてたんだよね」
紗枝は、ちらりと詩乃の様子を見る。相変わらず、頬杖をついて何やら考えている。この会話に参加する意思が無いことを示しているようだと、紗枝は見て取った。期待はしていなかったが、柚子が困っているんだからもう少し、何かあるだろうと思ってしまう。
「谷ちゃんに頼まれたとか?」
バスケ女子の一人が早口で質問した。
谷ちゃんというのは、二年A組の担任、大谷教諭のことである。
「あー、そういうこと?」
少し拍子抜けしたように、もう一人が柚子に確認する。
柚子は目を伏せて、微かに首を縦に動かした。するとバスケ部の二人は、残念そうな、しかしホっとしたようなため息と、気の抜けたような表情で笑った。
「そうだよね、柚子が水上のわけないよね」
その一言が、鋭利な刃物の様に、柚子の心を刺した。昼食が終わった後も、詩乃に対する罪悪感だけが、鉛の様に、胃の中に残り続けた。
――たぶん、水上聞いてたと思うから、後で絶対謝った方がいいよ。
授業中、紗枝からのラインメッセージ。
その通りだと柚子も思った。放課後、すぐに文芸部に行こうと柚子は決めた。
やっぱり部室は静かでいいなと、放課後の部室に入った瞬間、詩乃はその静寂を感じてため息をついた。どっと、今日の疲れを自覚し、パイプ椅子に腰を下ろす。昼休み、久しぶりに周りの雑談に耳を傾けて、そのせいで詩乃は、気疲れしてしまっていた。
――でもまさか、新見さんといるところを見られていたとは……。
世間は狭いなぁと、つくづく思う詩乃だった。
昼食時、詩乃が教室にいたのは、まさにその、自分に関する〈噂〉の情報を得るためだった。詩乃自身は、噂なんかはどうでもいいと思っていたが、柚子はそうではない。もし、その噂で新見さんが傷つくようなことがあれば、そうならないようにフォローしてあげなくては。新見さんには、友達付き合いというのがある。そう思い詩乃は、どんな噂が出回っているのかを、授業の合間の休み時間や昼休み、放課後の教室のちょっとした会話から秘かに聞き集めていた。そうして大方の情報は集めたと思い、文芸部の部室に避難してきたのだった。
その中で一番大きな収穫は、柚子の出方がわかったことだった。やっぱり新見さんは、自分とのこの関係を伏せておきたいようだ。それがわかれば、あとは容易い。新見さんに話を合わせて、新見さんの〈新見さん像〉を壊さないように、必要な所は、必要な場面場面で補足していけば良い。
――この話はこれで終わり。
詩乃はパチンと膝を叩いた。詩乃からすると、人間関係だの噂だの、恋愛についてさえ、自分を取り巻いているそう言った諸々を考える時間は不毛以外の何物でもなかった。人間関係であれば、自分が周りにどう見られているかよりも人の結びつきと排他性についての考察、噂なら自分と柚子が一緒にいたうんぬんかんぬんよりもなぜ人は噂を信じたがるのかについて、恋愛なら恋の定義や愛の普遍性についてを考える方が、詩乃は好きだった。
詩乃はデスクチェアーに座り、PCモニタに表示されている入力フォームにパスワードを入れる。電源はずっと点けっぱなしなので、パスワードを入れるだけですぐにデスクトップ画面になる。最初はシンプルだったデスクトップは、今や、色々なソフトや、メモ帳、ワープロソフトの色々なファイルで埋まってしまっている。
メールソフトとワープロソフト、インターネットブラウザを一気に起動する。それぞれが立ち上がるまで数秒――この待ち時間が、詩乃は好きだった。このたった数秒は、雑多な世界と自分の世界を分ける境界で、一日で最もリラックスできる瞬間である。
そこへ――ノックもせずに部屋に入ってくる男子生徒がいた。
ガチャっと豪快に扉を押し開けて。
川野だった。
「水上、話あんだけど」
詩乃は、眉間にしわを寄せ、あからさまな敵意を含ませた一瞥を川野に投げかけた。それから頬杖を突き、面倒くさそうに、手のひらで顔を覆った。
「何?」
「お前、柚子に看病してもらったって本当かよ」
ノックくらいしろ、扉くらい閉めろ、話はそれからだろうと詩乃は腹を立てる。しかし、勝手に話し始めてしまったので、いちいち川野の態度について指摘するのも面倒だと詩乃は思った。この質問自体も、心底面倒だというのに。
「だったら何?」
「お前が、頼んだのかよ」
面倒くさい男だなと詩乃は思った。こんな質問に、いちいち答えてやる義理はない。とはいえ、この苛立ちを押し込めておくのも癪だ。よし、と詩乃は思い立った。そっちがそう来るなら、少しやり合おうじゃないかという乱暴な気分になる。
「頼んだって、普通来ないんじゃない? いくら新見さんが優しいからって」
「――お前、柚子の事どう思ってんの?」
「どうって?」
「好きなのかよ!」
川野が声を荒らげる。
詩乃は、わざと大きな声で笑った。
「なんでそんなこと。友達でもない人間に、教えないでしょ、普通」
「どうなんだよ!」
詩乃は、嘲るように目を細める。
「――頼んだんだよ。どうしても来てくれって、先生と、新見さんに。三十八度超えてたからね。新見さんは、優しいから来てくれたよ。そりゃあ、放って置けないよ。熱で苦しんでる同級生。折角だから、熱が治った後も、散歩に付き合ってもらった」
「お前、じゃあ……柚子を利用したってことかよ」
詩乃は、再び咳き込むように笑う。全て演技である。仕草も、声も、表情も。川野の感情を揺さぶって楽しむために。
「だったら何だよって。何か関係あるの?」
「ふざけんなよお前! 迷惑だから近づくなよ」
「新見さんに?」
「そうだよ」
詩乃は鼻で笑う。
「てめぇ、陰キャのクセに、調子乗んなよ」
詩乃はじいっと川野を睨み据える。川野も、怒りの目を詩乃に向ける。
いいぞ、と詩乃は内心ほくそえんだ。
「陰キャ相手に怒ってんの? 川野君も律儀だね」
「はぁ?」
「あの、はっきり言ってね、川野君はものすごくダサい奴だよ――」
露骨に馬鹿にされて、川野は反射的に口を開く。しかし詩乃は、その反論が川野の口から出るよりも早く、言葉を継ぎ足した。
「元カレのくせに新見さんに付きまとって、新見さんの新しい男友達に勝手に嫉妬して、暴言まで吐いて、自分の気持ちだけしか考えてないくせに、近づくななんて言い出して、元カレのくせに。下の名前で呼んでることに優越感を持ってるのはバレバレだし、そんなことでしかマウントを取れないのを暴露してるようなものだって気づいてない。調子乗るなって言うけど、本当は怖いんでしょ。怖いから、こうやってわざわざ部室まで来て、恫喝まがいのことをしてる。野球部で、エースで、でも本当は自信が無いんでしょ。隠すなら、もっとうまくやらないと、バレるよ、新見さんに」
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