第19話 ためらう風鳥(9)

 柚子の頭にあるのは、すでにテストの事ではなかった。どうやって詩乃と仲直りしよう、そればかり考えていた。しかしどんなに考えても、わからなかった。もう何を言っても、嫌われてしまった今となっては、ダメなような気がした。紗枝には申し訳なくて聞けず、最後に柚子が頼ったのは、十コ上の姉だった。


 どう謝ろう、と相談を投げかけた柚子に対して、柚子の姉は優しく答えた。


『男はプライドの生き物だから、たぶん柚子ちゃんが謝ったら、逆にプライド傷付けちゃうと思うよ。だからその子は、柚子ちゃんに嘘ついたんだよ』


『嘘?』


『はぐれたとか、スマホの充電が切れたっていうのは、たぶん嘘だと思わない?』


『うん』


 姉の助言は、確かにそうかもしれないと思えるところばかりだった。柚子も、詩乃から花火大会翌日に来たメッセージを本当とは思っていなかった。本当にはぐれたとしたら、きっと水上君だったら、その時点で私に連絡をしてきたはずだ。本当にスマホの充電が切れていたのだとしても、今時コンビニの機械を使えば二十分程度で充電なんて満タンにできる。私が水上君を探しているかもしれない状況の中で、充電が切れているからと連絡を後回しにして帰ってしまうなんていうことは、それこそ、水上君らしくない。


『好きな子を他の男に横取りされるのって、男としては屈辱なのよ』


『好かれてる自信ないんだけど……』


『まぁそれは、お姉ちゃんにはわからないけど、花火は、二人で見に行ったんでしょ? 要するにその子からしたら、柚子ちゃんは、自分のモノだったわけ』


 水上君のモノ……なんてぞくぞくする響きだろうと柚子は思った。


『それを横取りされて、やっぱり男の子だから、落ち込むのよ。自分のモノを守れなかった、奪われたっていうのは、自分が弱いことの証明でしょ?』


『水上君、全然弱くないのに……私の方が――』


『男はそう考えるのよ。だから、柚子ちゃんに嘘をついたんじゃない? 奪われた弱い自分ってのを認めたくないから、はぐれたことにして。謝るのは、それを認めさせるようなものだから、触れない方がいいと思うけどな、お姉ちゃんは』


 さすがお姉ちゃんだなと、柚子は思った。


 それに比べて私は、ずっと水上君のことを見ているのに、全然水上君の気持ちがわかってない。こんな私が、水上君を好きでいいのだろうか。そして、柚子は、姉の言葉を理解していくにしたがって、自分は水上君に、なんてひどいことをしてしまったのだろうと胸が痛くなるのだった。


 夏休みが明けて最初の一週間は、柚子は、詩乃への申し訳なさと、自分の至らなさに落ち込んで、結局詩乃に、上手く話しかけることができなかった。席替えもあり、席も窓側と廊下側で随分と離れてしまった。その距離間が悲しくて、クラスの新しい座席表に皆の名前を書きながら、柚子は泣きそうになってしまった。


 それでも一週間が経つと、どうしても水上君と話がしたい、仲直りがしたい、一緒にいたい、という気持ちが強くなって、抑えられなくなってきた。


 一方詩乃はというと、祭りの後は急にまた執筆の方がはかどるようになった。次から次に頭に出てくる文章に追いつくように、夏休み中家にいる時は自室のキーボード、学校が始まると放課後は部室に籠って、文芸部のPCデスクにかじりついて、ひたすらに文字を打った。二学期が始まって以降は、寝る間もないくらい文章を書き進めているが、常に頭は冴えた状態だった。授業中や授業の自習時間にも、ボールペンで、紙に文章を書いている。ここに来て新作が一篇、すでに完成しそうな勢いである。あの夏のイベントは、今思えば、この新作を作るために神様が用意したものなのではないかとさえ思えてくる詩乃だった。


 九月第二週の金曜日、放課後の文芸部部室。


 詩乃は、一つの場面を書き終えて、ほうっと息をついた。腕を動かすと、ぱきぱきと骨が鳴る。そこへ、ノックがあった。


「新見です。水上君、入っていいですか?」


「どうぞ」


 詩乃が応えると、制服姿の柚子が部屋に入ってきた。これまで、文芸部に来るときは、柚子はいつもダンス部のTシャツ姿だったので、詩乃は制服の柚子を見ると、感情では柚子に対して怒りを覚えていても、男としての本能が反応して、ドキリとしてしまうのだった。


「差し入れ、持ってきたよ」


 柚子はそう言うと、紙パックのココアを両手で持って、詩乃に渡した。詩乃は小さく礼を言って、それを受け取った。


「いいの、勉強しなくて」


 詩乃は、柚子に訊ねる。


 冷ややかな声に、柚子はくじけそうになる。


「うん。たぶん、大丈夫」


「そう」


 詩乃はデスクチェアーのひじ掛けに肘をつき、顔を覆う。そうしてちらりと、柚子の方を見やる。柚子はずっと詩乃を見ていたので、目が合った。詩乃は目を逸らさず、柚子の目を見つめた。一体何を考えているのか、その真意が知りたかった。


「そういえば水上君、誕生日、いつ?」


 詩乃は、すぐには答えなかった。


 何のためにそんなことを聞こうとするのか、詩乃にはどうしてもわからなかった。


「九月二十日」


「え、来週!?」


 柚子はそう言うと、スマホを確認する。


 やはり来週だった。ちょうど来週の金曜日。柚子はすぐに、カレンダーアプリにメモを書き込む。


「そんなの知って、どうするの」


 詩乃は、乱暴に言った。


 柚子は、スマホから顔を上げて、詩乃を見つめた。今までなら目線を逸らせていた詩乃が、今日は全く逸らさない。詩乃の視線は、見つめ合えるような甘い視線ではない。見据えるような、厳しい視線だ。今までと違う。やっぱり、怒っている。


「誕生日、お祝いしたら迷惑かな?」


 健気な言葉に叱られた子犬のような表情。


 騙されるものかと詩乃は思った。


「どうして新見さんがお祝いしてくれるの」


「それは……」


「いいよ、お祝いなんて。どうせ普通の日なんだから」


 明らかな拒絶。


 こんなことは、柚子には初めてだった。嫌われてしまった悲しさと、そういうことをしてしまった後悔が、ぐっと柚子の胸に押し寄せる。どうしたら許してくれるの、と聞きたい気持ちをなんとか堪え、柚子は言葉を返した。


「誕生日、お祝いしないの?」


 詩乃は黙り込んでしまった。


 顎を支えながらペンを握っている手を、いっそう強く握り込んだ。


「祝うほどめでたい事なんてないよ」


「そんなことないよ! 私は水上君の――」


「新見さんと自分は違うんだから」


 柚子の言葉から被せるように、詩乃が言った。いつもよりも大きい詩乃の声に、柚子は驚いてしまった。こんなに声を荒らげる詩乃は、見たことが無かった。詩乃は、思わず声を上げてしまった自分を恥じ、柚子から視線を外した。


「誕生日なんて、いらないよ」


 柚子は、一瞬詩乃が泣いているように見えた。さっきまでの、私への拒絶感とは少し違う、気がする。怒っているよりは、寂しそうな、そんな目をしている。表情の変化が大きくない水上君だけれど、その目の奥を良く見ると、ちゃんと感情が見えてくる。


「九月は好きじゃない……」


 ぽつりと、詩乃が零した。


 どうして、と柚子は聞きたかった。しかし、そこには踏み込んではいけないような気がした。水上君の九月に、誕生日に、一体何があるだろう。何かあるには違いない。でも、今は、きっと私には見せてくれない。だから、踏み込ませないような距離を置いている。この沈黙は、許されていない沈黙だ。


「短編は、どう? 新しいの、できた?」


「できたよ」


 ぶっきらぼうに、詩乃が応える。


 詩乃は、夏祭りの日の会話を覚えていた。自分が短編を懸賞に出すつもりだと言った時、新見さんは特にこれといった反応を示さなかった。興味があったら、もっとあの話に食いついてきたはずだ。読書は好きなのかもしれないが、自分の小説に興味があるわけではないのだろう。それなのにこうやって聞いてくる。


 柚子は、詩乃を見つめて口を開きかけた。


 読ませて、と頼みたかった。でもその一言が、出てこない。拒否されるのが怖い。頼んでも、たぶん断られる気がする。読ませてもいいと思っているなら、私が頼む前に、逆に聞いてくるはずだ。でも、そんな言葉も、聞いてくる素振りさえもない。


「新見さん、ここ、何も楽しいことないよ」


 詩乃は、気まずい沈黙の中、静かに柚子に言った。


「気の利いた面白いことを言えるわけじゃないし」


「……水上君は、面白いよ」


「それは、違う〈面白い〉でしょ。ピエロみたいに思うのは勝手だけど、わざわざそれを、こんな所まで見に来られるのは、嫌だ」


 最後の一言が、柚子の心臓を突き刺した。


 一番嫌われたくないと思っていた人に、嫌われてしまった。そのショックに、柚子は気が遠くなった。頭が真っ暗になって、自分がそこにいる、という存在意識まであやふやになっていく。


 立ちすくむ柚子を見て、そして机の横に置いたココアのパックを見て、詩乃もさすがに、罪悪感が湧いてきた。自分の気持ちに嘘はないが、新見さんが、そこまで気にするようなことではないだろうに、と思った。しかし、目の前の新見さんは、あの、林間学校でカレー鍋をひっくり返したときみたいな顔をして、立ち尽くしている。唇も、微かに震えている。好きな子の弱った姿というのは、詩乃も、やはり見たくないものだった。しかも、自分がそうしていると考えると、どうにも気持ちが良くない。


 詩乃は掌で顔をぬぐってから言った。


「新見さん、別に自分は、新見さんのことが嫌いなわけじゃないよ。大体、学校で話をするのは、新見さんくらいなんだから、気にかけてくれてることは、すごく感謝してるし、優しいなって思う。花火の時だって、正直に言ってくれて良かったんだよ」


 詩乃はため息をついて、言葉をつづけた。


「誰かと合流するための時間つぶしなら、そう言ってくれて良かったんだよ。最初から言ってくれれば、自分だって気持ちの準備ができるから、何も、驚かないですむ。それでいいんだよ、新見さん。たぶん、そうやって誘ってくれてても、自分は、行ったと思うよ。自分を使うなら使うで、はっきりそう言ってよ。遠慮して言われない方が、困るよ」


 ――そうじゃない。そうじゃない!


 柚子は、心の中で叫んだ。時間つぶしで水上君を誘ったわけじゃない! 本当に二人で花火を見たかった。お話がしたかった。本当にそう思っているのに。なんで、どうしてそういう風に思われてるの。そんなんじゃないのに。


 丁度その時――。


「失礼しやぁーす」


 そう言いながら、ノックもせずに、制服の男子生徒が部屋に入ってきた。その男子は、川野だった。川野はこの日、柚子と駅まで帰ろうと思っていたのだ。しかし柚子のクラスのほうが早く解散になったので、今日は無理かと諦めていた。ところが、まさに帰ろうと正門を出ようとしたとき、コンビニのロゴの入ったビニール袋を片手に下げた柚子が、正門から学校へと入って来たのだ。それをこっそり追いかけて、川野はこの場所にやってきたのである。

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