第18話 ためらう風鳥(8)

 川野が言うと、その仲間たちも、「新見さんと話してみたかったんだよね」だとか、「そうだよ、折角だし」などと言って、川野の援護に回った。詩乃は、柚子の様子を覗った。


「あぁ、ええと……」


 柚子は、どう断ったらいいものかと考えて、しどろもどろになってしまった。


 それを見た詩乃は、奥歯を噛んで、唇を引き結んだ。


 しかしすぐに、ふっと唇を緩めて、穏やかに言った。


「一緒に見ようか」


 詩乃が言うと、連れもそう言ってることだし、と川野たちが言い出して、柚子の答えを待たずに、そういうことになった。本当は、花火は二人で見たいと思っていた柚子は、なんでそんなこと言っちゃうのと、詩乃に目で訴えた。しかし詩乃は、柚子には目もくれなかった。


 この失礼な男と自分と、そっちの男子の方がいいなら、最初からそっちを誘えば良かったじゃないか。この状況で迷うくらいなら――詩乃はそう思い、腹を立てたのだった。


 柚子と詩乃の間に、早速川野が入り込む。


 川野の友人たちも、二人を中心に集まり、柚子のダンスの話題で盛り上がり始める。大袈裟な言葉と笑いは、そこに一つの空間を作り上げる。詩乃には不可侵の空間だった。詩乃はもうそこに、無理やり入り込む気はすでになかった。柚子も、自分を中心に繰り広げられる会話に対応するのに必死で、詩乃に声をかけることも、近づくこともできなくなった。目線だけは熱く詩乃に送るが、詩乃はもう、柚子の事を見なかった。


 ほどなくして、花火の打ち上げが始まった。


 低い建物越しに、花火の全形が綺麗に見える。


 おぉっと、歓声が上がる。


 皆の視線が花火に集中しているのを見計らって、詩乃は境内を出た。小さな路地を、花火を見上げる人々をしり目に、人知れず駅近くの駐輪場に向かい、自転車を引いて、ひっそりと帰路に就く。花火を背に、その音を聞きながら自転車をこいでゆく。


 信号待ちで振り返ると、花火が遠くの夜空に、スカイツリーをバックにして、綺麗に咲いていた。ビルの隙間から見える、狭苦しい花火だが、やはり花火は、綺麗だなと詩乃は思った。少し自転車を走らせただけで、さっきまでの人ごみは嘘のように無くなり、祭りなど知らない夜の街道に出た。

新見さんも、あの境内も、たった数分の距離なのに、もうずいぶん遠くに感じる。


 信号が青になった。


 詩乃は花火に背を向け、自転車を走らせた。北へ向かう大通りに入ると、もう花火も見えなくなり、花火を打ち上げる音だけが、ゆっくりした反響音となって聞こえてきた。


 きっと、新見さんのことだから、心配してあとで電話をかけてくることだろう。かかってこなければ、それはそれで構わない。


 結局また、こんな態度を取ってしまった。体育祭のあと、新見さんと知らない男子――いや、今思えばさっきの無礼な短髪男がまさに、ダンスを踊っていた相手だったかもしれない――とにかくあの時と同じことをしている。あの後も自分は新見さんを避けた。そして今、またこうして、新見さんから逃げている。気にしてほしくて、そうしている。


 でも、やっぱり嫌なものは嫌だった。〈百万本の薔薇〉のあの芸術家のように、献身的な、見返りを求めない〈好き〉というのに憧れながら、でも自分はやっぱり、ああはなれないと思った。新見さんにとっては自分は遊びだ。それは最初から薄々気づいていた。でも、わざわざ目の前でそれを突き付けられるのは、やっぱり辛い。


 新見さんに気を使わせないように、花火は一応、一緒に最後まで見て、差しさわりのない会話と最後の「じゃあね」の挨拶で別れる終わり方が、やっぱり一番良かったのだと思う。でも、自分にはできなかった。そこまでお人よしにはなれない。


 詩乃はスマホの電源を切った。


 一言、メッセージだけでも、「はぐれたから先に帰ります」とか何とか、送っておいた方が良かったろうか。しかし詩乃は、柚子には今、そんな気を遣う気分にはなれなかった。どうせ探さないだろう。探したとして、それで今更、何になるというのだ。探さなければそれはそれで良いし、連絡をしない自分のせいで、いくらか時間と体力を浪費して探し回り、そのことで自分のことを嫌いになっても、別に構いやしない。


 詩乃は、ただひたすらに自転車をこいだ。使っていなかった体中の汗腺が汗を吹きだし、背中や腕の下がかゆくなる。千住大橋を一瞬で通過し、次の信号を、点滅ぎりぎりで侵入して渡り抜ける。ハザードランプもなしに道脇に停車するトラックを避ける。後ろの車からクラクションを鳴らされる。


「うるせぇバーカ!」


 大声で叫ぶ。轢けるものなら轢いてみろという、無茶な気分になっていた。道を横断して、そのまま小さな路地に入る。北千住駅から徒歩三分、安アパートの共同駐輪場に、投げ捨てるように自転車を置く。長方形の一階ワンルーム、玄関を開けて靴を脱ぎ、洗濯機に汗まみれの衣類をぶち込む。そのまま空の湯船に入り、カーテンも閉めずにシャワーを浴び、床をびしゃびしゃにしながらバスタオルを取り、体を拭くのもそこそこに、敷きっぱなしの布団に倒れこみ、冷房をつける。設定温度は十六度、風量最大。もうこのまま寝て、起きたら風邪ひいてたとか、死んでたとか、それくらいのほうが笑えていい。


 そのまま詩乃は眠りにつき、真夜中に寒さで一度目を覚ました。その間に、詩乃の玄関口に放りだしたポーチの中、電源を切られたスマホには、柚子のかけた電話は届かなかった。






 花火の後、柚子は川野たちとの夕食の誘いを断って、駅に向かう花火の見物客の列に揉まれながら、詩乃を探した。大通り、小さい路地、川沿いの遊歩道、公園。川に出ていた船が引き上げて明かりを消し、屋台が片付けの準備をはじめたあとも、柚子は一縷の望みを胸に、詩乃の姿を探して歩いた。


 祭りの熱気もついに冷め、酔っ払いの笑い声が家々から聞こえてくるようになった頃、柚子は、詩乃がもう、帰ったことを悟った。電話をかけても、つながらない。電源が切れている、という無機質なアナウンス。


 ――今回は完全に、私が悪い。


 柚子は、花火の前、川野が来た時のことを何度も頭の中で思い返していた。


 あの時どうして私は、川野君の誘いをはっきり断らなかったのだろう。


 水上君が、あの水上君が、あんなにはっきり、「二人で来ている」と言ったのに。水上君にそこまで言わせて……。あの時、すごく嬉しかった。それなのに私は、結局また、波風が立たないようにと、なぁなぁに済ませてしまった。本当に、つくづく、自分のそういう所が柚子は嫌いだった。皆は、それが良いという。いつも穏やかで、人の悪口を言わなくて、誰に対しても優しく接して、公平で――だけどそれは、紗枝ちゃんの言葉を借りるなら、臆病者だ。喧嘩をしてでも、川野君の誘いをはっきり断った方が、どんなに良かったか。


 柚子は、泣く気にもなれなかった。泣く資格すら自分にはないと思った。


 本当はこの日、紗枝の家に泊まる予定の柚子だったが、柚子は紗枝に謝りの電話を入れて、茗荷谷の自宅に帰ることにした。きっと紗枝ちゃんは、私を慰めてくれる。元気づけて、応援してくれる。少し叱ってくれるかもしれない。でも私は、紗枝ちゃんの優しさを受けるのに相応しくない。そんなのは、応援してくれている紗枝ちゃんに申し訳ない。


 祭りの後の電車の中は、疲れ切った、だらしない雰囲気が漂っていた。帰宅のピークは過ぎ、三次会や四次会のような、だらだらした会話がラジオのように車内に流れていた。柚子はぼんやりと扉に体を預け、窓の外を眺めた。


 駅に着き、駅から自宅まで歩く。微かな傾斜の道を下り、そして上る。家々の玄関先の明かりが、ぼんやりと道を照らす。後悔ばかりが頭を巡り、気が付くと、柚子は自宅に着いていた。


 柚子が玄関の扉を開けて家の中に入ると、物音を聞きつけた柚子の母が、リビングの扉を開けてやってきた。柚子は今日、友達の家に泊まると聞いていたので、泥棒か何かが入ったのかと思ったのだった。


「あら、どうしたの?」


「なんでもない」


 柚子はそう言うと、母の開けた扉を通ってリビングに入った。リビングとダイニングが素通しになった広い居間のリビング側のテーブルには、柚子の姉が雑誌や企画書を広げて翻訳の仕事をしていて、テレビの正面のソファーには、今年大学院を卒業したばかりの兄が寝そべって本を読んでいる。父はと言うと、ダイニング側のテーブルに座って、残った焼きそばを摘まみに、梅酒を飲んでいる。柚子の家族はこの日、皆で柚子のダンスの舞台を見に行って、その後花火を楽しんでから、屋台で焼きそばやフランクフルトやたこ焼き等を買い込んで帰ってきたのだった。


「あれ、柚子ちゃん、おかえり」


 柚子の姉が、暗い顔の柚子に声をかける。


「ただいま」


 柚子の様子がおかしいので、姉と母は顔を見合わせる。


「ご飯、食べてきたの?」


「うん。大丈夫」


 柚子はそう言うと、階段側の扉を開けてリビングを出ていった。階段を上る足音さえ聞こえない。


「柚子ちゃん、今日どうしたの?」


 姉が、母に訊ねる。柚子の姉も、今日柚子が浅草の女友達――多田紗枝さんの家に泊まる予定だと知っていた。


 母も何も知らないので、首を傾げる。


「あいつは、ただいまも言わないで……」


「お帰り言わないからでしょ」


 ぶつぶつ言い始めた父親に、姉がぴしゃりと言う。


「そういう問題じゃあないだろう」


「お父さんさ、ホント無神経だよそういうトコ。柚子ちゃん、暗かったのわからなかった?」


「そ、それが理由にはならないだろう。社会に出たら、会社で――」


「ここ会社じゃなくて家、do you know?」


本物の英語の発音に、父はたじろいでしまう。いつもの光景だった。


「お母さん、まだたこ焼きあったよね?」


「ひと箱あるわよ」


「温めよ。私、柚子ちゃんにあげてくるよ。たぶんあの感じ、夕食食べてないと思うから」


 そのあと、柚子の部屋に夕食を運びに行った姉は、妹が落ち込んで帰ってきたのが、友達との喧嘩が原因ではないと知って、驚くことになるのだった。






 隅田川の夏祭りが終わると、その一週間後には二学期が始まった。


 詩乃は、柚子から何か連絡が来るよりも早く、祭りの翌日に自分から、花火の途中ではぐれてしまった事、スマホの充電が切れてしまった事を、柚子の番号あてにショートメッセージで送った。そういうことにすれば、あの日のことでお互い、これ以上嫌な気持ちにならない。これが良い落としどころだろうと詩乃は考えた。柚子からの返事も淡白なもので、『そっか、一緒に花火見れなくて残念だったけど、また行こうね』というだけだった。コピーペーストのような文面からふつふつと沸いてきた怒りの感情は、スマホを投げ飛ばして、とりあえず発散したのだった。


 二学期は九月の末に前期テストがあり、よって、九月は学校全体が勉強モードとなる。授業は自習の時間が多くなり、放課後は校内に、各学科の教師が待機する学習ルームが作られる。茶ノ原高校の部活動にテスト休みの習慣はないが、テストが危ない生徒は、自主的に部活動を休んで、学習ルームに通ったり、図書室などで自習をしたりする。


 柚子も茶ノ原生らしく、ダンス部に出ながら、勉強もしっかりやっていた。もともと柚子は、勉強が嫌いではない。成績も、苦手な古典、生物、日本史以外は順調だった。その三教科も、講習に出たのもあって、テスト本番には間に合いそうなくらいは捗っていた。

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