第十五話:同情なんていらない



「分かった気がするよ」


 お互いに食べ終わったのを確認して切り出した。

 水の入ったコップから口を離した凪沙は「何を?」と見てきた。


「入月の苗字を特別視して誰も凪沙の中身を見てくれていなかったこと。そしてそれを凪沙は人形って言っていたこと」


 見つめ返すと凪沙はハッとしたように目と口を開いた。どうやら当たっているらしい。


「だから特別って花村に言われた時に、自分自身を否定された気がしたんだな。自分は普通の女子高生なのにって。入月って苗字があるだけで他のみんなと変わらないのにって」


「……そうね。史仁君の言うとおり」


 重ねた俺の言葉に、凪沙はついさっき浮かべたものと似た寂しげな笑みを作った。


「分かってくれたのね」


「ずっと考えてたから、凪沙の事」


「そう言われると少し恥ずかしいわね」


 テーブルに置いたコップを両手で持ち直した凪沙は右手の人差し指でその側面を撫でる。

 そして一度長く息を吐くと吐き捨てるように言った。


「ずっとそうだったの。家の外に出た日から、幼稚園に通い始めた時からずっと、記憶の中の私は入月の娘って言われてきたわ。だいたい十三年くらい、ずっと。顔が可愛いのは、声が綺麗なのは入月希美の娘だから。足が速いのは、運動が出来るのは入月恭平の娘だから。何をしても『流石入月の娘さん』って言われるだけ」


「それでリレーの後、周りに何言われても全く嬉しそうにしなかったのか」


 もっといえば体育祭自体、凪沙にとっては入月の娘であることを見せつけるような催しになるから乗り気じゃなかったのかもしれない。

 凪沙は小さく苦笑した。嘲笑にも似ていた。


「それでも最初は嬉しかったのよ、そう言われるのも。まだ親だと思えていた時は二人を誇らしいとも思えていたから。でも二人のことが嫌いになっていくうちに何かおかしいんじゃないかって気持ちに変わった。私がやっていることなのに褒められる時はいつも『入月の娘さん』ばかり。まるで私じゃないみたいにみんなは言うから」


 凪沙の両手で包まれたコップ内の水は揺れていた。

 その水面を見つめながら凪沙は続ける。


「だからそう言われるのが嫌で勉強も頑張って一番を目指してみた。私の力で何か成果を出せば今度こそ凪沙が褒められるんじゃないかって思ったから。勉強ならあの二人は専門じゃないから私の力として見てもらえるはずだったから。けれど結果は変わらなかった。流石入月の娘さん、勉強も出来るんだね。そうやって褒められたの。笑ってしまうわよね、頭の良さなんてあの人達には何も関係無いのに」


 しっとりとした語り口にため息が挟まった。少しだけその口角は上がった。諦めが濃く刻まれた表情に見えた。伏せられた目を半分覆い隠す瞼は震えている。


「でもおかげで気付けたの。入月の娘に産まれた以上はそこから逃れることは出来ない。入月の娘という人形であり続けるしかない。その中身は周りの人には関係無い。私じゃなくても誰でもいいの。中に入って入月の娘としての人形を動かせさえすれば人じゃなくたって構わないくらい。どうせ誰も気にしないから……史仁君以外は」


 ゆっくりと上がってきた視線とぶつかる。声以上に湿っぽい目だった。


「史仁君だけは私を、入月の娘じゃなくて凪沙という私の中身を見ようとしてくれて、実際にこうして見てくれている」


「……だから名前で呼ぶことにこだわったのか」


「そう。名前で呼んでもらえれば入月の娘としてじゃない、一人の私としてちゃんと見てもらえているって感じられると思ったから」


 そう言った凪沙は少しだけくすぐったそうに笑った。

 そして何より、俺と話す凪沙が人形にならなかった理由がそこにはあった。凪沙という人を知りたいと言って関係が始まったから、いくらか心を委ねて話をしてくれているのだろう。


「でもきっと俺以外にもいるはずだよ、凪沙自身を見てくれる人は」


「かもしれないわね」


 凪沙は言って俯いた。


「けどそんな保証はない。ずっと向けられてきた視線が今になって変わっているかなんて分からない。いいえ、根本的には変わってないの。入月の娘である以上私は特別、だから」


 実際に凪沙の事を特別だと思っている人の方が多いのだろう。俺の知るサンプルは二人だけでも一般的な見方を提示してくれた二人の説得力は高い。

 あの時の花村の言葉は思っていたよりも凪沙に致命的な口撃になっていたのかもしれない。


「信じて近づいて、結局今まで通り入月の娘としか思われなかったら私は耐えられないの。だったらもう周りと関わらないほうがいい。遠くから勝手に人形だと思われるだけだったら諦められるから」


 だから凪沙は家の中だけではなく外の環境にすら自分の居場所を作ることが出来なかった。誰も悪意があったわけではなかったのに凪沙と言う存在は否定され続けて、それによって凪沙は誰も信じられなくなり孤独に追いやられてしまった。


 それはとても残酷な話だ。誰のせいでもない分、簡単に解消する手立てはない。当人がどれだけ上手く割り切れるかということではありながら、追い詰められている人間にそれを強いることはあまりにも酷だ。


「それに今更他の人が私を見たとして、それは何を見ている事になるの?」


 下を向いていた目が上がった。眉は八の字に垂れ下がり、頼りなく震えている。


「もし入月の娘によって作られてきた私が今、顔と苗字を失って全く別の皮の中に入ったら、私として見てもらえるの? 何を見て私というの? 一度だって見られてこなかった私の、何が目に映るの?」


 凪沙は立ち上がって身を乗り出してきた。左手をテーブルについて右手を俺に伸ばしてくる。

 その手が俺の左頬に触れた。酷く冷たい手だった。細い親指が下瞼をなぞって顔を上に向けられる。

 見つめ合う澄んだ瞳は熱っぽく水気を感じさせ、今にも感情があふれ出しそうだった。


「ねぇ、今史仁君の目には何が映っているの?」


 そして言葉と共に音もなくそれは目尻からこぼれた。


「教えてよ、史仁君……」


 呼ばれた名前が身体の中に溶け入って、心の奥底にある何かに触れた気がした。

 俺の目には一人の孤独に泣いている女の子が映っていた。

 でも俺は答えられなかった。そんな目で見ただけのことは凪沙の求めている答えではないような気がしたから。


 突然の感情の溢流は俺の頭を痺れさせ、心を蝕んできた。初めて涙を見せる凪沙を俺はただ見つめることしか出来なくなる。視線を外したくても彼女の涙と揺れ続ける瞳がそれをさせてくれなかった。


 涙は彼女の頬を濡らしてテーブルへと落ちていく。

 しばらく見つめ合って、ようやく気が付いたのか凪沙は「あれっ」と言いながら俺の頬から手を離して自分の目を拭い始めた。


「違っ、違うの。おかしいの、悲しくなんてない。私は今嬉しいの。史仁君に知ってもらえて、嬉しいはず、なのになんで? どうして?」


 不規則に乱れ出した息の合間に嗚咽を交えながら凪沙は手の甲と掌で目元を擦る。

 見慣れないせいもあるだろう、吐きそうになるほど心が痛くなった。これを引き出したのは誰でもない俺だ。凪沙の中に踏み込んで想起させてしまったのだ。それを凪沙は嬉しいと言っている。しかし良いことなのか悪いことなのか、どうにも判断を下せそうにない。

 耐えられなくなって立ち上がった。


「とりあえず落ち着いて、座って」


 彼女の肩に手をかけてゆっくりと椅子に座らせる。


「ありがとう、話してくれて」


 凪沙の背中に手を当てて優しく撫でる。凪沙は一度小さく頷いたように見えた。

 触れる背中は火傷しそうなほど熱かった。この背中に今までどれだけの不満と不安を背負ってきていたのだろうか。この広い家の中で一人、何度こうして小さくなって泣いてきたのだろうか。いつもはスッと伸びた背中を丸めて、感情の薄い顔の裏に隠している涙で濡らしてきたのだろう。


 なぜこんな風に泣く、ごく普通の女の子が理不尽に追い詰められて自殺なんて考えなくてはならなかったのだろう。なぜ孤独に涙を流さなくてはならなかったのだろう。

 そんなことを考えて奥歯を噛みしめた。


 凪沙の心の痛みは分からないし、分かるようなものでもない。分かっていいものですらない。なのに状況に流されかけた自分がいた。それがたまらなく憎かった。

 違う。俺が出来ることは、やることはそんなことじゃないはずだ。

 背中を撫でる手を止めないまま、凪沙に気付かれないように苛立ちを息と共に吐き出す。


 しばらくそうしていると「もう大丈夫だから」と目を拭いながら凪沙が言った。けれどその間もずっと涙が止まる気配はなく、拭う手が目を逸れるとすぐに頬を濡らしていた。

 それでも「大丈夫」と続ける凪沙に俺は分かった、と言ってゆっくりと背中から手を離した。


 落ち着くために一人にさせて欲しいと言われている気がした。そして俺もまた、少し一人になりたかった。今の凪沙と一緒に居続けると自分がおかしくなりそうだった。

 俺は凪沙と自分の分の空になった食器を持ってキッチンへ向かった。ドアを閉めて流しに置く。


「……最悪だ」


 水を出して溜め息交じりに吐き捨てた。

 凪沙を泣かせてしまったことではない。涙を見せた凪沙に同情してしまったことだ。


 俺は凪沙に同情したくなかった。しちゃいけなかった。どれだけ可哀想だと思っても、その気持ちが分かったとしても同情だけはしちゃいけなかった。

 してしまったら彼女が死ぬのは間違っていると思ってしまう。凪沙の死こそが俺を死に導いてくれるという前提を揺るがすことになってしまう。


 なのにしてしまった。一線を越えてしまった。彼女の涙を見てしまったから。表れるとは思ってもいなかったむき出しの感情を目にしてしまったから。

 その涙は俺の中にたまっていたものと混ざり合って毒になった。


 凪沙に名前を呼ばれる度に俺の中に何かが入ってきていたのはなんとなく気付いていた。その声の響きが、柔らかい唇の動きが俺の意識に染み込んでいた。気にさえしなければ問題ないと思っていた。


 けれど、その染み込んだ何かと新しく流れ込んできた涙が合わさってしまった。不意の涙に俺の中に染み込んでいた何かが活性化して毒になり、心の底にある何かを刺激した。刺激して引きずり出そうとしている。割れそうな痛みが胸の奥に走る。

 気付いたところで遅すぎた。


 左頬に手が伸びる。さっき触れられた箇所には冷たい感触がまだ残っていた。忘れたくて思い切り頬の肉を握る。爪が食い込んで痛みを感じる。消えない冷たさを上書きしたくて握る手にもっと力を込める。


 それでも凪沙の手の感覚は消えなかった。生まれた同情が阻むように消え去ってくれなかった。

 諦めてスポンジに洗剤をつけて皿を洗い始めた。


 苛立ちと焦りをぶつけるように、同情を洗い流すように執拗に皿を擦る。何度も必要以上の力を込めて擦り続けた。

 それでも一旦生まれてしまった感情は汚れや洗剤と一緒に流されてはくれなかった。虚しい綺麗な泡だけが排水口へと流れていく。俺はただそれを見送ることしか出来なかった。




 使った食器と調理道具を洗い終えてリビングに戻ると凪沙はすでに泣き止んでいた。顔を合わせるとお互い気まずくて、そのまま俺は帰ることにした。


「ごめんなさい、洗い物全て任せてしまって」


 玄関で靴を履き替えた俺に凪沙が言った。


「来てくれたお客さんなのに面倒くさいこと押しつけたみたいになってしまったわね」


「いや、元はと言えば俺が悪いからな。せっかく楽しませてもらったのに、最後に空気を壊すこと言ってごめん。別に今日じゃなくてもよかったな、話すの」


「ううん、史仁君は悪くないわ。さっきも言ったけれどああして話せたこと、悲しいんじゃなくて嬉しかったから。ありがとう、私の事考えて、知ってくれて」


 そう笑った凪沙の目は赤くなっていたけれど、今までで一番自然な笑顔だった。ぎこちなくもなくて表情全てが柔らかい、嬉しがっているのだとよく分かる綺麗な笑顔だった。言葉を交わす毎に彼女の笑う顔はどんどん自然なものになってきていた。

 その眩しい表情に罪悪感が膨らむ。この笑顔が死に向かうことを期待し続けている俺が直視していいものではない。


「それならよかった」


 それでも背けたくなる視線を無理矢理合わせたまま俺も笑った。今は笑っていなきゃいけないという義務感だけがその顔を作っていた。上手く笑えているかは分からない。

 そんなに違和感はないのか、凪沙は穏やかに笑ったまま言った。


「私、決めたわ」


「何を?」


「史仁君を信じるって」


「信じる?」


「えぇ」


 その赤くなった目からは明確な意思が見て取れた。普段の無表情が嘘みたいな光が宿っている。目元の色が余計にそう見えさせているのかもしれない。


「だから、あと少しだけ手伝って欲しいの。そして私の中にいるものを知って欲しい」


「中にいるもの?」


「そう、私の中にいる私自身を史仁君には知って欲しいの」


「どうして凪沙は知って欲しいと思うの?」


「そう、ね……」


 凪沙は少しためらうように口を小さく動かして、やがて言葉にした。


「もっと私を知って、受け入れて欲しいからよ。史仁君に」


 少し恥ずかしそうな表情だった。

 それはどうして?

 そう問う前に凪沙は「それじゃあ、そろそろ」焦ったように言った。少しだけ声が弾んでいた。

 そしてスリッパのままドアを開けて外へと手招いた。

 逆らうことも出来ずに俺は外へと出る。


「それじゃあ、また月曜」


「うん、また」


 手を振り合って歩き出した俺は「史仁君」とかけられた声に振り返った。


「期待しているから」


 そう言って浮かべられた自然な笑顔は目に毒だった。

 俺は曖昧に頷いて背中を向けて再び歩き出した。逃げるようにエレベーターへと向かう。すぐにでも凪沙の視界から消えたかった。その中にいるだけでも罪悪感に刺激された胸が痛んで仕方ないから。


 すぐにやってきたエレベータ―に乗り込んで、ようやく一息吐けた。安心すると、さっき聞けなかった問いが頭の中に渦巻いて頭を締め上げる。鈍い痛みがその中で生まれる。


 どうして凪沙は俺に知って欲しいと言うのだろうか。

 今までも感じたことはあった。知ろうとしているのは俺のはずなのにどうしてか凪沙は俺が彼女のことを考えて理解していくことを期待している節がある。


 そこになんの思惑があるというのだろう。死に行く凪沙はどうして俺にそんなことを期待するのだろうか。知られた上でどうしたいのだろうか。一体その先に何を見ているのだろうか。


 絡みついたその疑問を考えようとすると頭の中に警告音が鳴り響くように痛んだ。考えてはいけないと、理性と心が同時に叫んでいるみたいに至る所に痛みが走る。


 この問いは、そして凪沙は一体俺をどこに連れて行こうとしているのか。本当に俺を死なせてくれるのだろうか。押しつけがましい願いが少し、揺らいで見えた。


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