第3話 嵐の前の日常

 夕日が差し込む頃になり、和也は自宅マンションに帰ってきた。

 手にはほとんど空になったスポーツドリンクのペットボトルが握られ、雑誌の入ったビニール袋も提げている。

「ただいま」

「おかえりー」

 当然のように告げた和也の帰宅の声に、これまた当然のように榛名が応えた。

 現在午後六時を回ったところだが、夕飯の準備はもうほとんど終わっているようだった。何しろ宣言どおり、肉じゃがの匂いが決して広くはない室内に漂っていたため、料理ができない和也でもすぐにわかった。

「手伝うよ」

「じゃあ、冷蔵庫の中のおひたし、よろしくね。小さいタッパーに入ってるから」

「おっけー」

 これが日常のやり取りだ。まるで新婚だよな、と思い、その発想に照れる。この反応もまた日常である。

 和也にとって、血生臭い日常という向き合いたくない現実。それを忘れさせてくれるのが、小山榛名なのだ。

 榛名の言うとおり、十分後には食卓に夕飯が並んだ。

 山に盛られたご飯に、肉じゃが。ほうれん草のおひたしに、豚汁。とてもじゃないが、和也の独り暮らしでは味わえない品々である。榛名が作ってくれなければ、夕飯はたいてい弁当を買ってくるのだから。

 さらに、榛名は料理が上手いのだから、いくら感謝しても足りないだろう。

「それじゃ、いただきまーす」

 いつも通り、榛名に手を合わせて、箸を動かす。肉じゃがの皿を取り、柔らかく煮えたじゃがいもを口に運ぶ。

 だが、

「あれ?」

 いつもより味が濃いかもしれない。気のせいかもしれないが。

「どうかした?…………あ、―――」

 和也の表情から、榛名は自分の肉じゃがを口に入れる。すると、しゅんとして、うつむいた。

「ごめん、なんかしょっぱいよね」

 どうやら和也の気のせいではないようだ。途端に申し訳なさそうにして、榛名が腰を上げた。

「ごめんね、作り直して―――」

「待って!」

 二人分の肉じゃがの皿を持っていこうとする榛名を、和也は慌てて呼び止めた。

 自分の肉じゃがの皿を口元に運び、一気に掻き込んだ。

 きょとんとする榛名をよそに、今度はご飯を掻き込む。

 そして、空になった茶碗を見せながら、

「やっぱり榛名の料理はいいなぁ」

 満足そうに破顔した。だが、まだ榛名はその意図がわからずにいた。

「そんな、別に無理して食べなくても……」

「美味いじゃん」

 申し訳なさそうに言う榛名に、しかし和也は何を言っているんだ、と反論する。

「確かにちょっと味は濃いかもしれないけど、これくらいの方がご飯が進むし」

 さも当然だと言わんばかりに豪語する和也。その態度に、徐々に榛名は顔を綻ばせていき、「ちょっと待っててね」と和也の手から茶碗を取り、よそいに行く。

 和也はそれからも満足そうに夕食を進めていった。

 別に無理をしたわけではない。食べられないほどの味付けだったわけではなく、「ちょっといつもとは違う」程度に思っただけなのだ。

 それに、もし榛名が失敗したと思っているのなら、次から頑張ればいいだけだと思う。倣岸ごうがんに取られかねないかもしれないが、和也はそのように考えている。どうせ人間は多かれ少なかれ失敗するのだから、こんな些細なことを気にしてはだめだと。

 気づけば、和也はご飯と肉じゃが、豚汁を二杯ずつ完食していた。

「洗い物くらいやるよ」

「いいよ。今日は特に尽くしたい気分だし」

 榛名はすっかり気を取り直したようで、鼻歌交じりに洗い物を始めた。

 元気が出てよかったと思いながら、和也はエプロン姿の榛名の後ろ姿をちらりと見やる。

 ホントに新婚みたいだな、と思い、その思考に至った自分にまたも照れるのだった。


 その夜、二人は体を重ね合った。

 室内はエアコンで適温にしているはずだが、体の芯から熱が溢れてくるようだった。

 未明になり、ベッドの中で寄り添いながら、二人は眠りに落ちる僅かな時間を過ごしていた。

「ねぇ、和也……」

 どこか憂いを帯びた様子で、榛名が呼ぶ。

「和也はさ、MESで営業やってるんだよね?」

「……え?」

 その質問内容もさることながら、儚ささえ滲み出る榛名の様子に、和也は困惑した。

「…………そう、だよ……」

 嘘を吐くのは忍びない。しかし、真実を告げるわけにはいかない。今の幸福を手放したくない。

まっすぐ榛名の眼を見られないまま、和也は答えた。

「ホントに?」

「……本当だよ」

 そう答えるしかない自分が情けなくなり、榛名の素肌から伝わる体温の心地よさに反して、心が薄ら寒く、虚しくなる。

「そっか。よかった」

 しかし、榛名はそんな和也の心中に気づくことなく、ほっとした笑みを浮かべ、やがて寝息を立て始めた。

 このときの和也には、なぜ彼女がそんなことを口にしたのかという疑問を挟む余裕がなかった。

 後に、和也は後悔する。

 もっと榛名を知ろうとし、互いのことをもっと語り合うべきだったと。



 二日後の朝、MAZ-3X強奪の報は、和也の耳にも入った。

 その中で、TNK-4の装着者である谷川英志の殉職も聞かされた。

 英志とは知らない仲ではない。入社当初から、部署は違えどそれなりに多く話をした。いつも和也のことをからかっていた英志だったが、いざいなくなってしまうと、物悲しくなるものだと気づかされた。

「でだ、多分お前にMAZ-3Xの破壊命令が下るはずだよ」

 オフィスで状況説明をされた後、竜胆寺から言われた台詞は、しかし予想の範疇はんちゅうではあった。試作実験機とはいえ、いやむしろ試作実験機だからこそ、敵対会社に奪われたことは深刻な問題だ。強奪から一週間以上経過してしまっているため、技術の流出が懸念されている。ならばせめて、完膚なきまでに破壊しなければ、面子に関わるのだろう。

 その関係もあってか、最新鋭試作機の奪取の責任を取って、TDD室長である里平という中年男性は辞表を提出したらしい。

「ってなわけで、これから講義だ」

「え、なんのですか?」

「MAZ-3Xについてだよ。お前はなんの知識もなく突っ込むつもりかい?」

 言われてみればもっともだ。TNK-4は高い防御能力を有している。それに勝ったというのだから、MAZ-3Xについての情報は知っておくべきだろう。

「その前に、いつまでもMAZ-3Xなんて呼ぶのは長ったらしいから、これからは開発コードである『ジャンパー』と呼称する」

 個室に移動し、講義が始まった。薄暗い室内で、プロジェクターが起動する。

「ジャンパーには、HRNシステムが搭載されている。これは高次元空間誘導システムといって、『物体を任意の位置に転送』することができる」

「転送……、ワープするってことですか?」

「そうだ。ただし、転送距離は最大で三十メートル。転送精度は転送距離に反比例して悪くなるが、五メートルの転送距離での誤差は十ミリ以内だそうだ」

 精度は装着者の能力にいくらか影響されるがな、と付け足された。他にも、転送質量や形状に関して細かい制約があるらしい。

「じゃあ、谷川さんは……」

「こいつの能力で腹に爆弾転送されて、バン!って寸法だろうね」

 イメージしようとして、和也は止めた。余りに壮絶すぎる。

 それでも目を逸らすわけにはいかない。この講義が生死を分けるかもしれないのだから。

 プロジェクターにより映し出されたジャンパーの外観やスペック表示を見ながら、竜胆寺の話を聞き続ける。

「固定武装はHK P7T 一二.七ミリバヨネットハンドガン。両肩部の四つのブロックにはHRN-FX 独立空間機動斬戟兵装〝ハバキリ〟。そして、物質転送による、今回で言えば爆破。お前はこれらを攻略する必要がある」

 そして、竜胆寺はそれぞれの機能について考察を始めた。

「ハンドガンについては、だだの補助兵装サイドアームだ。ハマーの装甲ならば防げる。問題は後の二つだが、転送機能については、まぁどうにかできないこともない」

 どうにかできるのだろうか。いきなりワープしてくる爆弾にどう対応すればいいのだ?

 和也が腕を組んで考えていると、あっさりと解答が聞けた。

「HRNシステムは、座標指定から転送までに三.八八秒のタイムラグが発生する。これは装着者ではなく、搭載された演算機の限界だ」

「……どういうことですか?」

「この物質転送には、自分自身を絶対軸の原点Oとした、十次元以上ある非線形の高次連立偏微分方程式の演算が不可欠だ。これを『転送』時に行い、出現位置を初期条件とした非線形高次連立積分方程式を経て『出現』させる」

 何を言っているのかはよくわからないが、竜胆寺はそれについて解説する気はさらさらないらしい。説明は続く。

「この演算の厳密解は、一般のハイエンド仕様PCでは、最速でも数十時間はかかる。それを、短距離且つ精度の低下によって、二次以降の項を『0』として演算していくことで時間を短縮。MES独自の専用OSとCPUによって、実戦で使用できるギリギリの性能を、演算時間と射程・精度の評価関数によって導き出したのが、現在のHRNシステムなわけだ」

 さっぱりわかりません。

 和也の顔は、暗にそう告げていた。

 ゼロの装着者になったことで、和也は数々の必要な知識を叩き込まれた。軍事分野は最優先だが、中には数学や物理の知識も与えられている。

 だが、あまりに荒唐無稽で学術的に難解な説明をされて、理解が追いつかない。仕様のないことだとはいえ、高卒の十八歳(しかも体育系)に教える内容ではない。

 それを理解しているのか、竜胆寺は簡潔に纏めた。

「つまり、一ヶ所に留まるな、ということだ。四秒そこに留まるということは、お前の体が弾け飛ぶということだからな」

 それからさらに一時間近い講義時間を経て、和也はいろいろな意味で頭が痛くなる授業から開放されたのだった。

「ああ、そういえば」

 竜胆寺は部屋を出る和也に、ピッと何かを投げつけた。

「これは……」

 白いカードだ。表面には『Lanze』の表記がある。

「新武装だ。役立てな」

 不敵な笑みを浮かべながら、竜胆寺は告げたのだった。

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