第48話 真紀の生い立ち

「では、真紀さんは引き続き、当病院で預かるということで・・」

「ああ、そうしてくれ」

 医師の言葉に、そう横柄に真紀の父が答えて、話し合いは終わった。

 私はまだ鼻水をすすり泣いていた。悔しくて悔しくて溢れる涙をとめられなかった。ものすごく悔しかった。真紀の父の言葉、態度、考え方、意識、すべてが間違っていた。でも、私は何も言えなかった。

 そんな私の隣りで、真紀は、何かに耐えるように暗くうつむいたまま黙っていた。

 話し合いが終わり、入口に近い私と真紀から部屋を出て行くようそれとなく促される。私は涙を拭って拭って何とか泣きやもうとしていた。でも、なかなか涙は、治まらなかった。やっぱり、悔しくて悔しくて堪らなかった。

 それでも、私は涙を拭いながら、ちょっとまだ嗚咽を漏らしながら、椅子から立ち上がり、真紀と共に会議室をよろよろと出て行った。

「ううっ、ううっ」

 私は初めて体験する大人の本気の冷酷さに、心を深くえぐられていた。大人社会の現実の厳しさに対する免疫のない、ただでさえ病的に弱い私の心は、かんたんに打ち砕かれていた。

「ん?」

 会議室を出てすぐ、ふと、涙を拭って顔を上げた時だった。拭った涙の向こうに、何か異様な光景が見えたような気がした。

「あっ」

 見ると、美由香たち私たちの病棟の患者たち三〇人ほどほぼ全員が、廊下の両脇にズラリと一列ずつに並んでいた。後ろから会議室を出てきた他の人たちもその光景にみんな驚く。真紀の父親も驚いている。

「美由香・・」

 私は一番手前にいた美由香の下に真紀と共に近寄る。美由香はそんな私たちを見ても何も言わず、ただ不敵に笑った。

「・・・」

 何が始まるのだろう・・。でも、美由香が何かを企んでいるのは分かった。

「・・・」

 そして、会議室を出てきた人たちがそんな患者たちの並ぶ間を、驚きつつ何ごとかと、それでも自分の持ち場に帰るため通って行く。真紀の父親もその流れの中で歩いてゆく。その真紀の父が一番手前の端にいた美由香の前を通った時だった。

「ワン、ワン」

 美由香が、突然真紀の父親に向かって犬みたいに吠え始めた。

「ワン、ワン、ワン、ワン」

 すると他の患者たちも、それに呼応したように吠え始める。真紀の父親は驚き、動揺する。そこにさらにみんなが吠えたてる。

「ガルルルルっ、ワン、ワン」

 そして、それは大合唱のように高鳴っていく。真紀の父は、さらに動揺し慌てふためく。

「あなたたち何やってるの」

 その場にいた看護師たちが慌てて、それをやめさせようと患者たちに向かって叫ぶ。

「ワンワン、ワンワン」

 しかし、誰一人としてやめようとしない。

「やめなさい、やめなさい」

 医者や看護師が必死に患者たちに向かって叫ぶように言う。

「ワン、ワン、ワン」

 しかし、その合唱はますます大きくなっていった。

 そして、全員が真紀の父親を睨みつけ、その間を通っていく真紀の父親をずっと吠えながら目で追っていく。

 終始横柄な態度だった真紀の父親が、怯えるような表情で縮こまっている。私はその光景を見て、何をしようとしていたかを理解した。そして、一瞬で、私の傷ついた心は曇天が晴れるみたいに、パッと明るくなった。

 その後、真紀の父は、逃げるようにして慌ててその場から去って行った。

「ざまあみろ」

 美由香がその背中に吐き捨てるように言った。私は美由香を見る。私も胸のすくような思いだった。

「頭のおかしな奴の怖さを教えてやったぜ」

 美由香がにやりと笑いながら、どや顔で私を見た。

「美由香・・」

 私は、そんな美由香を人類の危機を救ったヒーローでも見るみたいな眼差しで見た。

「さあ、あんたたち、もう戻りなさい」

 そこに看護婦さんの大きな声が響き渡った。看護婦さんのその声で、私たちはみんなぞろぞろとその場から移動して行った。

「でも、何で分かったの?中のこと」

 共有スペースのいつものソファに座ると、私は隣りに座る美由香に訊ねる。

「お前とあいつのおやじの怒鳴り声がここまで聞こえて来てたぜ」

「そうだったの?」

「ああ」

「・・・」

 私は夢中だったから、そんな大きな声を出していることにまったく気づいていなかった。

 私はこの時、ちらりと隣りの真紀を見る。真紀は会議室の時と同様、小さく縮こまるようにして元気なく一人ポツンとうつむいている。やはり、相当、傷ついているのだろう。

「真紀、あの・・」

 私が真紀に声をかけようとすると、真紀はふいに立ち上がり、黙ってそのままどこかへ行ってしまった。

「真紀・・」

 真紀は会議の間ずっとうつむき一言も話さなかった。真紀が私に一緒に来てと言った時の気持ちが、今になって流れ込むように分かり、切なくなった。

「真紀は誰も引き取り手がないんだ」

 美由香が真紀の背中を見ながら言った。

「おやじも母親も誰も引き取りたくないんだと」

「なんで」

「そりゃ、めんどくさいからだろ。頭のおかしな奴なんて。しかも、真紀は統合失調症だからな。精神病の中でも王様みたいな病気だからな」

「・・・」

「でも、それが本音だろ。みんなの。あのおやじはそれが分かりやすいだけさ。他にもそんな奴はいっぱいいるというか、この病院にはそんなのばっかだ」

「・・・」

「誰も引き取りたくなんてないのさ。めんどくさい人間なんて」

「・・・」

「母親の方は、鬱病らしいしな」

「そうなの?」

「ああ、真紀の話じゃ、あのおやじはDVおやじでもあるらしいぜ」

「・・・」

「殴る蹴るは当たり前なんだと」

「・・・」

 私は父親の隣りでただ黙ってうつむいている真紀の母親の姿が浮かんだ。

「・・・」

 私は親に殴られたことは一度もない。病院から出れば当然のようにやさしく迎え入れてくれるだろう。私は恵まれた人間だった。でも、思い出す両親の姿に、どうしても私は憎しみを感じずにはいられなかった。


 ――父はいつもイライラしていた。大手一部上場企業のサラリーマンだった父は、会社では大変に優秀な人間であった。だが、家では、そのストレスをことあるごとに爆発させていた。いつ何で怒り出すのか分からないその恐ろしさが、幼い兄と私をいつも怯えさせた――


「あいつは虐待児なんだ」

「虐待児・・」

「ずっと小さい時から虐待されてたんだ」

「・・・」

「親だけじゃないぜ、親戚にもだぜ」

「・・・」

「親が養育拒否して誰も引き取り手がなくて、小さい頃からあちこち親戚中たらい回しにさてたんだ。あいつ」

「・・・」

「だから、十六なのにあんな小さいんだ。ろくに飯もくわせてもらえてなかったからな」

「・・・」

「ここにいた方があいつは幸せなのかもしれないな」

「・・・」

 そんな幸せでいいのか。私は思った。

「これから真紀はどうなるの?」

「さあ、ずっとここじゃないのか」

 美由香はこともなげに言う。

「・・・」

「下の階にいただろ。この道何十年て方々が」

「・・・」

「真紀の未来もあんな感じだろ」

「そんな・・」

 そんなの酷過ぎる。

「なんとかならないの」

「なんともならないな。日本の法律だと、親が同意すれば強制入院可能だからな。精神障碍者なんて人権がないも同然。ましてあいつは未成年だしな」

「・・・」

「それに今の日本じゃ、精神障碍者に対する差別も酷いし、社会に出ても生きていく場所もない」

「・・・」

「それがうちらの現実さ」

「・・・」

「北館行きにならないだけましさ」

「北館?美由香知ってるの?北館の中」

「まあ、噂はな」

「どんな?」

「あそこに入ったら生きては出られない」

「生きては出られない?」

「ああ、死ぬまで出られない」

「・・・」

「あそこに入れられたらお終いだってことさ」

「お終いって?」

「人生がってことだろ」

「・・・」

 そんな、そんな・・、そんなことが・・。私の中にふつふつと、何か煮えたぎるものが湧いて来た。

「私が引き取るわ」

 私は勢いよく言った。

「あ?」

 美由香はポカンとして私を見る。

「私が面倒を見るわ。真紀と一緒に暮らす」

 美由香は驚いて私を見ていたが、突然大声で笑い出した。

「はははははっ、そりゃいいや、はははは」

「私本気なんだよ」

「ははは、まあ、がんばってくれ」

「私が大人になって、そして、お金を稼いだら真紀を引き取る」

「そうか、じゃあ、そん時はあたしもついでに引き取ってくれ」

 美由香は涙目になってまだ笑っていた。

「・・・」

 私は不満だった。

「拒食症の奴がどうやって働くんだよ」

 美由香が笑い終わると、真顔で冷たく言った。

「生きてくのも精いっぱいだろ」

「・・・」

 私は返す言葉もなかった。働くどころか学校すら行けていない。

「でも、なんとか・・」

「精神病んでる頭のおかしな奴を誰が雇うんだよ。精神病者がまともに生きていける訳ねぇだろ。社会の中で」

「そんなことない。私はがんばる」

「あんま夢見ない方がいいぜ。うちらは精神障碍者だぜ」

「・・・」

 障碍者・・。

「現実って奴はいつも想像を超えて厳しいからな」

「・・・」

「まっ、せいぜいがんばるこったな」

 美由香は行ってしまった。

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