第21話 カウンセリング
「真知子さん」
「はい」
廊下を歩いていると、突然、看護婦さんに名前を呼ばれた。
「カウンセリングの時間よ」
「はい?」
私は驚く。
「何も聞いてない?」
私の反応に看護婦さんも驚く。
「はい・・、あの受けるとは言いましたが・・」
「ああ、時間とか連絡がいってなかったのね」
看護婦さんは誰に対してなのかやれやれといった感じで、一つため息をついた。
「今からだけど、大丈夫?」
「はい」
私はいきなりで戸惑ったが、同意した。私は、そのまま看護婦さんにカウンセリングルームへと連れていかれた。そこはカウンセリングルームとはいえ、結局は、集会所で、カウンセリングの時だけ、人を入れないというだけだった。だから、中はやたらと広く、中央には長机が並んで、会議室のようになっていた。案外いい加減だった。
中に入ると、広い室内の奥に、三十代半ばくらいの眼鏡をかけた男の人が座っていた。
「やあ、君が真知子ちゃんだね」
入って来た私を見ると、その人は明るく笑顔で声をかけてきた。妙に明るい感じで、私はそれに少し安心感を覚える。でも、それはわざと私を安心させるためにしていることなのだろうと、警戒している自分もいた。カウンセリングなんて初めてのことなので私はやはり緊張していた。
私は奥まで歩いていき、その男の人の前に向かい合うように置かれている椅子に座った。
「さてさて」
私が座ると同時に、カウンセラーのその人は、そういうキャラなのか、わざとなのか、やはり、妙に明るくそう言ってあらためて私を見た。
「カウンセラーの鎌田です」
そして、人好きのするように、にこりとして鎌田さんは言った。
「よろしくね」
「あ、はい」
「緊張しているかい?」
そうやさしく言って鎌田さんは笑った。
「はい」
そのやさしい感じに私は好感を持ち、最初に感じた安心感がさらに増していく。そして、警戒感が薄れていった。
「じゃあ、まあ、いろいろ真知子ちゃんのことを聞いていこうかな」
「はい・・」
――私はずっと言えないでいた。自分の容姿のこと。自分が、自分の容姿が醜いと感じていること。絶対に言えなかった。あまりにも恥ずかしくて、あまりにも辛く、その事実が怖くて、誰にも言えないでいた。人間は本当につらいことは絶対に人に言えない。テレビなんかで自分の辛い話をしている人がいるが、人に話せている時点で、もう、その人は救われている――
「どんなことで悩んでいるのかな?摂食障害があるっていうことは、主治医の先生から聞いているんだ」
「・・・」
だが、やはり、当然だが、そんなすぐにはなかなか言い出すことができない。それに、今日カウンセリングだなんて、ついさっき知ったばかりだ。
「まあ、言いにくいならそんなに無理して言うことはないよ。言えることからでいいんだ」
鎌田さんは再度やさしく促す。
「はい・・」
私はまだ緊張していた。でも、どこかで、話をすれば楽になるような気がしていた。
「あの、私・・」
誰かに話したかった。ずっと誰かに分かってもらいたかった。もしかしたら、話すことで私は変われるかもしれない。楽になれるかもしれない。私は思った。
「私はずっと容姿にコンプレックスがあって・・」
私は話し始めた。
――ずっと心に引っかかっていた。ずっとずっと幼い頃から感じていた。様々な差。かわいい子との差。それは、明らかに違っていた。露骨に違っていた。人の私に対する扱いが全然違っていた。
「あいつなんか、変じゃね」
私に向けられた同級生の心無い言葉。
私はいつも一人うつむくしかなかった――。
「人から醜いって思われてるんじゃないかって、いつも気になって、人とうまくやっていけないのもそれが原因なんじゃないかって・・」
なんだかしゃべっている自分が信じられなかった。今まで誰にも言えない、心の中にずっと封印していたものだった。自分でしゃべっているのに、しゃべっている自分が自分じゃないみたいだった。
「ニキビができて、皮膚科に行った時、そこの若い看護婦さんたちが私だけを見て、笑ってるんです。それがすごく傷ついて・・」
すごく傷ついた記憶だった。ずっとずっと誰にも言えない深い私の中の心の傷。
「お前なんか、治っても一緒だよって囁き合ってるんです。私を見て笑いながら」
「そんなことは気にするな」
「えっ」
そこで、鎌田さんがいきなり言った。さっきまでのやさしい感じから一転して、かなり強い断定的な言い方だった。
「大したことじゃない」
「えっ」
私はいきなりの豹変に驚いてしまう。
「気にしなきゃいい。そんなこと」
「・・・」
そんなこと・・、
「気にし過ぎだよ。誰も見てないよ。自分が思ってるほど他人なんか君のこと見てないから」
「・・・」
ずっと悩んでいたことだった。ずっとずっと、心の深いところで苦しんできたことだった。誰にも言えずに、一人でずっと苦しんできたことだった。ずっと、何年も・・、人に、誰にも言えなかったことだった・・。それをやっと言えて・・。
「でも、あの・・」
「気にしないこと、いいね」
有無を言わせない言い方だった。何かそういうテクニックなのだろうか。心理学のそういうやり方なのだろうか。
「・・・」
でも、そう言われても気にしてしまう。だから、私は苦しんでいる・・。しかし、私はあまりに突然のことで頭が混乱して、そのことをうまく言語化できなかった。
「で、どんななの」
「はい?」
「拒食症だっけ?」
「はい・・」
「あの、でも、その前は過食で」
「過食?過食がなんで拒食になるの?」
「それは、あの・・」
摂食障害のこと分かってるんじゃなかったの?私はとっさに思った。
「全然違うものでしょ?過食と拒食って」
「・・・」
何も分かってなかった。専門家なのに、何も分かっていない。摂食障害のこと・・。
「あの私は、過食が始まりで・・」
私は説明した。
「食べ出すとどうしてもとまらなくて、それで・・」
必死で説明した。
「食べたくて、でも痩せたくて、食べて吐いてを繰り返して、それがつらくて、でも、やめられなくて・・」
何から説明していいのか分からなくて、さっき突然否定されたこともあって、頭が混乱していて、でも、一生懸命分かってもらおうと、私は口下手な口で必死で説明した。いつの間にか、いつになく私は口数多くしゃべっていた。
だが、鎌田先生は、私が必死でしゃべっている途中で顔を伏せてしまう。分かってもらえていないのかと、私の説明が悪いのかと、私はさらに必死で説明する。過食症の苦しさ、そして、心の苦しみ・・。
「あの・・、あの・・、とても辛くて、すごく辛くて・・」
その時、ふと違和感を感じて、鎌田先生のうつむくその顔を覗き見た。
「・・・」
あくびをかみ殺しているのが見えた。
「・・・」
私は、ショックを受けた。
「そして、過食をやめたら、今度は拒食になってしまって・・」
だが、私はさらに混乱し、そして、冷静さを失い、鎌田さん分かってもらえていないんじゃないか、自分の説明が悪いんじゃないか、そう思い、自分の苦しみを分かってもらおうと、摂食障害のことを分かってもらおうと、さらに必死で説明し続けた。
「あのあの、始まりは、ダイエットすればきれいになれるじゃないかって、そう思って・・」
私は完全に冷静さを失い焦る。
「痩せればきれいになれるんじゃないかって、クラスメイトたちに認めておらえるんじゃないかって・・」
そこで、鎌田さんは、急にうつむいた。そして、肩を震わせている。私は驚いてそのよく見えない顔を覗き込む。うつむき加減に笑いをこらえているのが見えた。笑っていた・・。鎌田さんは笑っていた。私の話を・・、笑っていた・・。
「・・・」
私の握るこぶしに力がこもった。
「あの・・、私は・・、それで・・」
私の唇が震えた。私は全身が震え、混乱し、今何が目の前で起こっているのかよく分からないまま、戦慄した。話すべきではなかった。話すべきではなかった。そのことだけは混乱した頭の片隅で分かった。
「ダイエットしたって骨格が変わるわけじゃないだろう」
そして、鎌田さんが呆れるように言った。
「・・・」
そんなことは分かっている。そんなことは分かっている。そうじゃない。そうじゃない。そういうことじゃない。そういうことじゃない。伝わらない、分かってもらえないもどかしさに私はさらに混乱していく。
そこからはなんだか、意識もほんわりとして、何を言われているのかも、自分が何を言っているのかもよく分からなかった。なんだか、また気にするな的なことを言われた気がする。でも、心が何か震えていて、とてつもなく、今、私はとんでもなく、私は・・、屈辱的な経験をしている、そのことを、なんだか、あまりのことに混乱して、受け入れられなくて、とにかく私の心は震えていた。なんだか目の前の現実が現実じゃないみたいにふわふわと漂っていた。
「・・・」
私はどうやってカウンセリングが終わったかも思い出せないような混乱状態のまま、打ちのめされたように、ふらふらと集会所を出た。何か大事な今まで大事に守って来たこれだけは壊されたくない心の何かを壊されたような気がした。その事実に、私はしかし、認めたくなくて、でも、それは今確かに起こったことだった。
「どうしたんだよ」
そんなふらふらと歩く私を見つけ、美由香が話しかけて来た。その隣りで、玲子さんと真紀も心配そうに私を見ている。
「うん・・」
でも、私はショック状態で答える気力もなく、心配してくれている三人を振り切るように、そのまま一人自分の部屋に戻った。そして、ベッドにうつぶせに倒れ込むと、そのまま、心を覆っている深い暗雲の悲しみの中に沈み込んだ。
「・・・」
なんだか私は心を犯されたような気がした。そんな感じがしていた。最低な屈辱感と憎しみの入り混じった堪らない怒りのような悲しみが私の中を渦巻いていた。
「・・・」
私は死体のように、そのまま微塵も動かずじっと横になり続けた。
「・・・」
何も考えられなかった。何もできなかった。
部屋に帰り、混乱が少し落ち着いてくると、今さっき起こったとんでもないことが、よりリアルに確かに起こったことなのだと、私の前に迫って来た。
悔しかった。とにかく悔しかった。今はそれしか言葉にできなかった。
「どうしたんだよ」
夕食の時間に、再び美由香がやって来た。
「うん・・」
私は顔だけを上げる。やはり話す気力もなかった。
「飯だぜ」
「うん」
だが、私は再び自分の顔を叩き落とすようにベッドに下ろした。
「美由香の言うとおりだったよ」
ベッドに顔を押しつけたまま私は言った。
「あん?」
美由香が私を見る。
「全然役立たずだったよ。カウンセリングなんて」
「だろ」
「うん」
役立たずどころじゃなかった。それどころじゃなかった。私は・・、私の心は・・、ものすごく傷つけられた・・。
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