第17話 痩せている子

 共有スペースは、朝食後のなんともけだるいやる気のない空気が流れていた。大体いつもやる気のない空気は流れているのだが、この時間はそれが濃い。朝食後の満腹と薬でボケっとそのまま呆けている子から、テレビを漠然と見つめる子、ひたすら窓の外を見つめている子、ほとんどの子がマイペースに自分の世界に入り浸っている。

 共有スペースの中で一番広いテレビのあるスペースは、いつも一番人が集まっている。テレビを囲むソファや絨毯を敷いた床に銘々好きなように自由に、というか自由過ぎるくらいの格好で座ったり寝っ転がったりしている。テレビには、誰が見ているのか、ブラウン管時代の古い時代劇が流れていた。

「おう」

 その時、美由香が誰かに声をかけた。ふと見ると、共有スペースの真ん中のコンクリートの太い四角い柱のその脇に、真っ白いTシャツに白い短パン姿の痩せた女の子が不機嫌そうに睨むように立っていた。

 その子は何かに怒っているのか、美由香を睨みつけるように見る。

「おうっ、昨日診察だったんだろ」

「ああ」

 その子は不貞腐れたようにうなずく。どうやら、美由香に怒っているのではなく、こういうキャラの子らしい。

「退院できそうか?」

「三十一キロがなんで適正体重じゃないんだよ」

 その子は、いきなり怒りを滲ませながら吐き捨てるように言った。

「・・・」

 あらためて見るその子は痩せていた。異様に痩せていた。

「ダメだったか」

 美由香はどこかうれしそうだった。

「ったく、へぼ医者が」

 そこでその子は、また吐き捨てるように言った。そして、短パンのポケットからタバコを取り出し、一本くわえた。私はここは禁煙ではと慌てたが、彼女はまったく気にする様子はない。

「全然痩せてねぇよ」

 彼女はキレ気味にまた呟いた。そして、タバコに火をつける。

「・・・」

 しかし、その骨と皮だけになったその姿は、明らかに異様だった。


 ――後で聞いた話だが、ガリガリに痩せ、フラフラと学校に通う私を、周囲の人間はどうしていいのか分からず、みんな哀れむようにして遠巻きにして見ていたという。当時、はやりだした短いスカートから覗く私の足は、見るも無残に骨と皮だけになり、棒のように細くなっていた。ブカブカのブラウスの袖口から突き出る腕は、今にも折れそうなほど細く、肘だけがぼこりと気味悪くこぶのように盛り上がっていた。顔は頬がこけ、その中央で目だけがギラギラと異様に飛び出していた。明らかに異様な風体だった。しかし、当の私はそれが美しいと思っていた。どこかおかしいとは感じつつ、しかし、私はそんな自分でかけた魔法の世界に生きていた。どうだ。こんなに痩せている。もっと見て。もっと褒めて。そう思っていた。だが、そんなあまりに痛々しい私の姿に周囲は当惑し、完全に引いていた。

 クラスメイトたちは当然、そんな私に少しずつ距離を取り出していた。それに気づきだした私は、何がいけないのか分からず、さらに痩せることで、再びあの輝いていた自分を取り戻そうとした。また、みんなにきれい、痩せている、羨ましいと言ってもらいたかった。あの、羨望の眼差しが欲しかった。クラスの中心になりたかった。私はどうしてももう一度輝きたかった。だが、そんな思いはただ同級生たちの冷めた視線の中で空回りし、私はさらなる孤立へと落ちていった――。


「なんであたしが病気なんだよ」

 タバコの煙を吐き出しながら、その子は毒づいた。

「食べても痩せる体質なんだよあたしは。何度も言ってんのにさ。まったく冗談じゃないわ。こんな気違い病院」

 彼女の丸い額に、青いミミズのような血管が浮き上がっていた。

「・・・」

 私はそのぷくりと浮き上がった青い筋を、なぜか魅せられたように見つめていた。

「なんで私が病気なんだよ」

 彼女が叫ぶ。

「私は病気じゃないわ。早く出してよ」

 彼女がさらにヒステリックに叫ぶ。その声が、私の耳から脳内にキンキンと不快に響いた。

「院内は禁煙よ」

 そこに、叫ぶ声と、タバコのにおいを嗅ぎつけて慌てて看護婦が二人飛んできた。

「うるせぇ」

 その子は、逆にキレ返す。

「男性職員を呼ぶわよ」

 すると、こういうことにはなれているのか、年が上と思われる先輩看護婦の方が、毅然とその子に対峙して言った。

「・・・」

 その子は黙る。

「保護室に入ってもらいますからね」

 さらに看護婦が言った。

「・・・」 

 それを聞いて、一瞬躊躇した後、その子は仕方なく火のついたタバコを看護婦に渡した。

「ちゃんとルールは守ってね」

 それを受け取った看護婦たちは、これ以上厄介ごとがめんどくさいのか、たんに忙しいのか、そのまま何も罰することもなく、看護ステーションの方に戻って行った。

「保護室に入るとどうなるの?」

 私は美由香に訊いた。

「しばらく、まあ、一週間くらいは出られないな」

 美由香が言った。

「一周間・・」

 私はあの閉鎖病棟の保護室の光景を思い浮かべていた。あの狭い部屋に一週間は想像しただけで嫌だった。

「おっ」

 美由香が何かを見て声を上げた。私は何事かと、美由香の視線の先を追った。そこには少し恰幅のいい年配の看護婦がいた。

「ボスが登場だ」

「誰?」

 私が美由香を見る。

「あいつは田中。この病棟の看護婦長だ」

 私はその看護婦長の田中さんを見た。その顔の中央に乗っかるメガネの奥の少し腫れぼったい目に頑強な意志を感じた。それを見ただけで、なにやら厄介そうな人だと分かった。

「あいつには気をつけろよ」

 私は美由香を見た。

「あいつは、いわゆるお局様。結婚も出来ず。もうすぐ五十代。仕事が生きがいになっちゃってさ。もう、色々うるさいんだ」

 美由香が顔をしかめて言う。

「そうなんだ」

「この病棟の絶対権力者。医者も彼女には何も口出しできないんだ。うちらの天敵」

「天敵?」

「そう、宿敵だね」

 美由香がにやりと笑った。

「おっ、早速、来た」

「えっ」

 見ると、田中看護婦長がこちらの方へやって来る。

「あなたたち、昨日、下の病棟に行ったそうね」

 私たちの前に立つと、開口一番、田中婦長が険しい顔で言った。

「ダメよ。他の病棟うろうろしちゃ。前にも言ったわよね」

「は~い」

 だが、美由香は相手を舐めたようにおどけた調子で言う。その態度に田中婦長はさらに表情を鋭くする。それを見て、気が小さく学校ではいい子ちゃんだった私は、ハラハラしてそれだけで心臓がドキドキして来る。

「そういう態度だと、また保護室ですよ」

 田中婦長は、美由香に指をさしながら言った。しかし、美由香はまったく動じる風もない。おどけた表情で明後日の方を見ている。

「いいわね。他の病棟には行かない」

 さらに強く、念を押すように田中婦長は言った。

「は~い」

 しかし、美由香は相変わらずだった。

「・・・」

 田中婦長はそれに対し、まだ何か言いたそうだったが、忙しいのかこの時はそれだけで行ってしまった。

「また?」

 私が美由香を見る。 

「美由香、保護室に入ったことあるの?」

「ちょっとな」

「何度もでしょ」

 そこに玲子さんの声がした。私は振り向いた。やはり、そこに玲子さんが立っていた。

「おうっ、玲子」

 美由香は玲子さんに片手を上げる。

「えっ」

 しかし、私は驚いて美由香を見た。

「保護室に入ったの?あそこに?」

 また、あの閉鎖病棟の光景が浮かんだ。

「あそこじゃねぇよ。この階にも保護室はあるんだ。そこだよ」

「同じでしょ」

 玲子さんが言った。

「閉鎖病棟とは違うだろ」

 美由香はむきになって言い返す。

「あそこに入ったら終わりだよ」

 美由香が言った。

「この階にも、保護室があるんだ・・」

 私は二人のやり取りの隣りで一人呟いた。

「おっ、珍しい」

 その時、また誰かを見つけて美由香が声を上げた。私もその方を見る。

「誰?」

 そこには、年齢不詳の男の人が歩いていた。

「院長先生だよ」

「えっ、あれが?若いわ」

 まだ三十代くらいに見える。

「ああ、あれは二代目だよ。ボンボンさ。多分今日もゴルフだ。ほらっ、Vネックのべストを着てるだろ」

「うん」

 確かにラルフローレンのちょっと高そうなベストを着ている。

「あれが、ゴルフに行く時のいつもの恰好さ」

「そうなんだ」

「いいご身分だね」

 美由香が言った。

「あたしらはここから出れずに、あいつはお日様の下で呑気にゴルフかよ」

 あの痩せている子がそれに続いてまた吐き捨てるように毒づいた。

「まっ、しょうがねぇよ。あいつらはここじゃ神様みたいな存在だからな。絶対権力者」

 美由香が痩せている子の肩を抱いて慰めるように言った。

「さっ、また下の階に探検に行こうぜ」

 そして、美由香が言った。

「えっ?」 

 私は美由香を見る。さっき怒られたばかりなのに、美由香はまったく反省していなかった。

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