第16話 睡眠薬
「・・・」
眠れなかった。
今日、美由香たちと見た患者たちの姿が脳裏に浮かぶ。クスリで呆けた患者たち。廃人のような老婆。保護室に入れられた患者。
「・・・」
それはあまりに衝撃的な光景だった。
「・・・」
暗い天井を見つめる。私は言い知れぬ不安を感じた。私は今まさにそこにいるのだ。私は彼らと同じ病院にいる。堪らなく不気味な不安が、心の奥底から込み上げてくる。心細かった。堪らなく心細かった。不安で壊れてしまいそうだった。
面会室で会った母の顔が浮かんだ。悲しげで、元気のない母の顔・・。母は少しやつれていた。私が・・、私が傷つけたのだ・・。
自責の念。堪らない自責の念が込み上げてくる。
「私は・・」
私は本当にダメな人間だ。心の底からそう思った。私は最低だ。最低だ。最低だ・・。乱れる心。苦しい。堪らなく苦しい。何かにすがりたかった。何かでこの苦しみから逃れたかった。食べたい。何か食べたい。強烈な食欲衝動が湧く。スナック菓子、菓子パン、インスタントラーメン、チョコレート菓子。食べたい、食べたい、食べたい・・、お腹がはち切れて、壊れるほどに無茶苦茶になってもいい。とにかく食べたい・・。
――私を見るすべての視線が私をバカにしている気がした。その目の奥が私を笑っている気がした。
学校帰りの電車内。車内はガタゴトと揺れていた。視線が飛んでくる。ありとあらゆるところから視線が飛んで来る。みんなが見ている。私を見ている。私を笑っている。私は醜い。化け物のように醜い。自分の姿が恐ろしかった。堪らなく恐ろしかった。私は震えるようにその場に崩れ落ちた――。
苦しかった。夜一人になると、やっぱり、嫌なことばかりが浮かんでくる。次々と溢れるように私の脳裏には嫌な記憶が浮かんでくる。それはとてもリアルで、終わったはずの、もう遠い過去であるはずの数々の辛い出来事が目の前でもう一度再現されていく。
そんな、思考や記憶の断片による脳内映写は、私の意志ではどうしようもなく止まってはくれない。むしろ抵抗すればするほど、その映像は私に迫って来る。
「・・・」
私は起き上がり、ベッド脇の小机の引き出しを開けた。そこには睡眠薬が置いてあった。私は何か違うと思って、美由香に教えてもらったように、薬を飲むふりをして、飲まずにそのままポケットに忍ばせていた。
「・・・」
私はそのピンク色の二つの小さな丸薬を見つめる。そして、私はそれを手に取った。
「・・・」
私は一瞬ためらった後、睡眠薬を口に入れた。そして、飲み込んだ。
「・・・」
私は再びベッドに横になる。どうなるのだろうか。こんなんで本当に眠れるのだろうか。少しドキドキした。
薬を飲んでも特に変化はなかった。
「・・・」
私は暗い天井を見つめ続けた。
「あっ」
だが、しばらく暗い天井を見つめていると、ほわぁっとした心地よさが目の前に広がって来た。そして、それがグングン意識の中心に集まって来る。
「ああ、なんて気持ちいいんだろう」
今まで味わったことのない心地よさだった。私の意識は、そのまま引き込まれるようにその心地よさの中に溶けていった――。
「おいっ、おいっ」
声がして、私は朦朧とした意識で目を覚ます。
「何?」
何が起こったのか分からなかった。今がどういう状況なのかがまったく分からなかった。誰かが私を呼んでいる。だが、分からなかった。意識がしびれたように朦朧としていて、認識しようとする意識の部分が働かない。
「おいっ、なんだよ。クスリ飲んだのかよ」
「・・・」
なんだか頭がボーっとしてよく分からなかった。声の主が美由香だということはなんとなく分かった。
「あ~あ、だめだこりゃ」
また声がした。しかし、起きたくても強烈な何かによって私の意識は強制的にまた心地よい暗い底へと引っ張られていく。私は、それに抵抗することもできず、引き込まれるがまま再び意識の底へと落ちていった。
「・・・」
朝、目を覚ますと、なんだか意識が混沌としていて、はっきりしなかった。時計を見ると九時を過ぎている。しかし、長く寝たはずなのに、まったく寝た感はなかった。むしろなんだか頭の中は疲れていた。
「そういえば・・」
そういえば美由香に会ったような気がした。あれが夢だったのか現実だったのかうまく判別できなかった。夢だったような気もするし、現実だったような気もした。とにかく、頭がもやもやしていて、不快だった。
「おうっ」
その時、入口で声がした。美由香だった。後ろには真紀もいる。美由香と真紀はそのまま私の部屋に入って来て、私のベッドの脇に腰掛ける。
「なんで睡眠薬なんか飲んでんだよ」
美由香が座るなり言った。
「えっ」
なんだか美由香は怒っている。
「ほんとお前は全然起きねぇし」
「あれはやっぱり美由香だったんだ」
「せっかく夜のお散歩に誘おうと思って来たのにさ」
「・・・」
私の頭はまだ少しぼーっとしていた。
「どうだ、初のダイブは」
「う~ん・・」
なんだかよく分からなかった。とても気持ちよかった気もするが、なんだか苦しかったような気もする。そして、今私はなんだかとても気分が悪い。
「気持ちよかっただろ」
「う~ん」
なんだかよく分からなかった。寝る前はものすごい気持ちよかった。それは覚えている。
「朝食は?」
私は美由香に訊いた。
「終わったよ、そんなもんとっくの昔に」
「・・・」
そうだよな。今はもう九時だ。
「なんで誰も起こしに来てくれなかったの」
「起こしに来たさ。看護婦が二人係で起こしてたぜ」
「えっ?」
全然記憶がなかった。
「・・・」
私はなんだか少し怖くなった。私・・。本当にまったく記憶がなかった。
「おいっ」
「えっ」
美由香が私の顔を覗き込んでいた。私はぼーっと、またどこか別の世界にいってしまっていたらしい。まだ薬の影響が残っているのか・・。
「大丈夫か?お前」
「う、うん・・」
「テレビ見に行こうぜ」
美由香が立ち上がる。
「う、うん・・」
私たちは共有スペースへと向かった。
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