第9話 真紀
「こいつ真紀」
次の日、そう言って美由香に紹介されたのは、まだ幼さの残る顔立ちをした背の低い小柄な女の子だった。
「お前いくつだっけ」
反対に背の高い美由香が、真紀を見下ろすように訊く。
「十六」
真紀がかわいい声でぼそりと答える。
「あっ、高校生なんだ」
私は驚き、改めて真紀を見る。第一印象では、とても高校生には見えなかった。中学生か、下手をするとちょっと大きな小学生にすら見えないこともない。
そんな驚く私を真紀が下から見つめ返す。その時、何かがおかしいと感じる。真紀は私を見ているようで見ていない。目は確かに私を見ているのだが、心が私を見ていない感じがある。
「こいつ、分裂してんだよ」
そんな私の様子を察して美由香が言った。
「分裂?何が?」
「頭」
美由香は自分の頭を指さした。
「頭?」
「まあ、気違いってことだよ」
私は目の前にいる真紀を見て、なんと答えていいのか困った。しかし、真紀は全然気にしている風もない。
「へへへっ、大丈夫だよ。こいつは普通じゃねぇから」
「う、うん」
そう言われても、本人を目の前に私は困る。
「キングオブ精神病。統合失調症だよ」
だが、美由香は全然気にせず、さらにずけずけと言う。
「統合失調症・・」
私はあらためて真紀を見る。確かにやはり、目の焦点がぼやけて、どこかおかしい感じがある。でも、ちょっとおかしいとは感じても、真紀は黒目の大きなかわいらしい女の子だった。
「たばこ吸いにいこうぜ」
美由香が言った。
「うん」
私たちは、共有スペースから、喫煙場所のある中庭に出るため、エレベーターに向かって歩き出した。
大抵の患者は共有スペースでテレビを見ているか、ソファか椅子でボケーっとしている。みんな何かのスイッチが切れたみたいに、漫然としている。目も虚ろな感じだ。
「クスリがキマッてんだよ」
そんな光景を見ている私に、美由香が言った。
「・・・」
朝食後も、患者たちは薬をそれぞれ渡され飲んでいた。薬でボケているのか、病気でそうなっているのか、私には判断できなかった。
「キャッ、キャッ」
そんな中、一人太った女の子が、テレビを見て、場面が変わる度に何かうれしそうに叫んでいる。
「あれはアッパー系だな」
美由香が言った。
「昔はああいうのいっぱいいたんだけどな。ぶっ飛んだ奴」
「・・・」
「最近はつまんないよ。クスリでみんな大人しくなっちゃってさ」
残念そうな顔を大げさに作って美由香は私を見た。私はどう答えていいのか困って、そんな顔をした。美由香はそんな私を見て笑った。
私たちは、エレベーター横のナースステーションで中庭に出ることを報告し、許可を得ると、下へ降りるためエレベーターの乗り口の前に立ってエレベーターが来るのを待った。
「・・・」
そういえば今日の朝食も普通に食べれた。かなりの少量ではあったが食べることが出来た。吐きたい衝動も起こらなかったし、過食の誘惑もなかった。でも、そんな突然変わった自分自身をどう捉えていいのか私は分からなかったし、そんな自分に現実感もなかった。
――食べて食べて食べまくる過食と、まったく食べることのできない拒食を私は繰り返していた。過食して吐くことを、我慢したり我慢できなかったり、ちゃんと食べようと普通の一食を食べてみたり、自分なりに何度もやめようと努力する。でも、続くのは長くて数日だった。何度も何度も失敗する。何度も何度も同じ失敗を繰り返す。何度も何度も同じ失敗を繰り返していると、もう自分が何かすらが分からなくなってくる。
そんなことに疲れて、疲れ果てて、もうこのまま死んでしまいたいと、もうこのまま消えてしまいたいと、絶望の暗い泥沼の中に私の心は沈殿し、もう、どうしたらいいのか、どうしたいのかすらが分からなくなって、もうすべてがぐちゃぐちゃで、そこから逃げ出すために、私はさらに食べて食べて食べまくった――。
「ん?」
その時、どこからともなく、きれいなピアノの音が聞こえてきた。澄んだクラシックのメロディだった。誰か音楽でも聴いているのだろうか。
「あっ、玲子さんだ」
私が何だろうと思っていると、今まで、呆けたように黙っていた真紀が、うれしそうに食堂手前の多目的広場と書かれた部屋の方を見て叫ぶ。
「玲子も誘おうぜ」
美由香が言った。
「うん」
真紀がうれしそうに大きくうなずく。
「玲子?」
私は首を傾げた。私たちはとりあえず待っていたエレベーターをやめて、多目的広場まで行った。そして、多目的広場の扉の前まで来ると、美由香がその扉を開けた。
「よっ」
入ってすぐ、美由香が中の誰かに向かって声をかける。私も多目的広場の中を覗く。
「あっ」
CDが流れているのかと思っていたら、中で一人の女性が実際にピアノを弾いていた。美由香に声を掛けられたその女性はこちらをちらっと見て、微笑んだが、ピアノの手は止まらなかった。そのまま淀みなくピアノを弾き続ける。
「上手い」
私は小さい時少し、ピアノを習わされていたのでなんとなく分かった。それは相当なレベルだった。素人のうまさではない。プロを目指すレベルだ。
「・・・」
この人も患者なのだろうか。私は改めてピアノを弾く女性を見た。同世代かちょっと上。ゆったりとウェーブのかかった長い髪をしたとてもきれいな人だった。それに、身なりもきれいで、どこか知的で気品のようなものもある。こんなところに入院している人にはまったく見えなかった。実際に目の前でこの病院の中で見ているのにそれでも何か違和感があった。
「おいっ、タバコ吸いに行こうぜ」
女性がピアノを弾き終わり、ふーっと息を吐くと、美由香がその背中に言った。女性は黙って立ち上がると、そのまま私たちのところにやってきた。
「こいつ新入り」
美由香が私を玲子さんに紹介する。
「真知子です」
私はおずおずと頭を下げる。
「玲子ですよろしくね」
玲子さんはそう言ってにこりと微笑んだ。そのあいさつの仕方もどこか気品がある。何でこんな人がこんなところにいるんだろう。玲子さんは美由香同様、いや、美由香以上にまともな人間に見えた。でも、ここにいるということは何かを抱えているのだろう。私はそんなことをちらっと思った。
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