第7話 ノック

 コンコン

 暗闇の中でどれだけ時間が経ったろうか、突然、部屋の扉をノックする音がした。そして、私が返事をする間もなく、すぐに扉が開いて、看護婦が顔を覗かせた。この部屋に鍵はなかった。

「眠れる?」

「あ、はい」

 私は頭だけを持ち上げ、なぜかとっさに嘘を言った。

「眠れないようなら言ってね」

 そう言って、すぐに看護婦は扉を閉めた。

「あんな見回りまであるのか・・」

 私は枕に頭を下ろすと、また何もない真っ暗な天井を見つめた。そういえばこの部屋で、美由香の友だちが自殺したと言っていた。

「それでなのか・・」

 そう考えるとさらに眠れなくなった。

「ある意味事故物件だよな・・」

 精神病院というサイコホラー的な怖さもあるが、リアルなホラー的な怖さもあった。実際にこの部屋で人が死んでいるのだ。

「・・・」

 その子はなぜ、自殺したのだろうか。そんなことを考えれば余計に眠れなくなるのは分かっているのに、つい考えてしまう。どんな子だったんだろう。様々な人物像があれこれ頭に浮かんでは消える。

 しかし、いつしかそんな考えにも疲れ、私は再び真っ暗な天井を見つめる。夜はあまりに長過ぎた。

 

 ――絵美が私を見る目。麻美が私を見る目。真由美が私を見る目。ゆかりが私を見る目。映子が私を見る目。クラスメイト達が私を見る目。哀れむような、苛立つような、軽蔑するような、嘲笑するような目、目、目・・、すべてが私を否定していた。全てが私を拒否していた――  


「・・・」

 夜は嫌いだった。無気力で、寂しくて、憂鬱。横になりまっ暗い天井を見つめていると、嫌な事ばかり頭に浮かぶ。そして、それに連動して嫌なことばかり考える。やめたいと思っても、どうしてもとまらない。そんな長い長い夜がこれから続いていく。そう思うだけでなんだか絶望的な気持ちになった。

 そこにさらに、いつもの自己嫌悪が襲ってくる。辛い。堪らない辛さ。どう悶えても抜け出せない苦しみ。なんて私はダメなんだろう。なんて私は醜いんだろう。生きていることが恥ずかしかった。堪らなく消えてしまいたかった。まるでそういった拷問を受けているような堪らない苦しみだった。

 そんな苦しみに苛まれていると、現実逃避的に、また堪らない衝動的食欲が湧いて来る。何か食べたい。菓子パン、お菓子、チョコレート、ポテトチップス・・、それらが次々に堪らない食欲と共に頭に浮かぶ。そして、あの菓子パンのとろけるような甘い生クリームの味が口の中にリアルに思い出される。あの快感が欲しかった。この苦しさを忘れさせてくれるあの堪らない刺激。一心不乱に何も考えず、とにかくお菓子や甘いものを貪り食いたかった。とにかくこの苦しみから介抱されたかった。手段なんか関係なく。その後の苦しみなど関係なく。とにかく今、この瞬間のこの苦しみから逃げ出したかった。

 いつもならここで、確実に冷蔵庫を貪りに台所へ下りて行く。だけど、ここは病院だった。こんなところで、あらためて自分が入院したことを実感する。そう、私は今入院している。私は病気なのだ。私は病人・・。

「・・・」

 暗い部屋。私の心は最高潮に沈んでいく。みんなは今どうしているだろうか。みんな勉強、部活、学校生活を普通に楽しく送っているのだろう。そんな情景が浮かんでくると、今の自分が堪らなく惨めになってきた。もう学校には行けない。こんな醜い、哀れな姿を見られたくなかった。こんな惨めな状態を誰にも知られたくなかった。私はもうどうしていいのか分からなかった。

 ザクッ、ザクッ

 私は切り刻み始める。夜中に目が覚め、眠れなくて苦しい時にいつもそうするように、私は頭の中で自分の体のありとあらゆるところを切り刻み始める。ナイフで、鋭いナイフで、私は自分の体のありとあらゆるところを切り刻んでいく。ザクッ、ザクッ、私は全身を切り刻んでいく。このダメな自分を切り刻んでゆく。ザクッ、ザクッ、そうすると、私の心は不思議と落ち着いた。切り刻めば切り刻むほど私の心は落ち着いた。歪で病んだ行為だとは分かっていても、やめられなかった。

 コンコン

 また、扉が鳴った。また?早過ぎないか?と思ったが、扉は勝手に開いた。しかし、そこには看護婦の姿も人の姿も無かった。あれ?っと思った瞬間、下の方で、何かもそもそと動く気配がする。私は驚いて少し体を起こし、その蠢く物を暗い部屋の中で必死に凝視する。それは人の形をしていた。

「何?」

 私は恐怖する。

「よっ」

「えっ」

 よく見ると美由香だった。私は慌てて体を起こす。

「あ、あの・・」

 私はあまりに驚き、口がパクパクするだけで何も答えれらなかった。だが、美由香はそのまま四つん這いになって、もそもそと私の部屋に入って来た。

「へへへっ、退屈してるだろうと思ってな」

「えっ?」

 私が呆けていると、美由香は立ち上がった。

「何ボーっとしてんだよ」

「う、うん」

「眠れねぇんだろ」

 美由香は私を見透かしたように言った。

「う、うん」

 嘘をつく間もなかった。

「やっぱりな」

 美由香はなんでもお見通しだった。

「なんで?睡眠薬飲んだんじゃ」

 今度は私が訊いた。

「へへへっ」

 美由香は、いたずらっぽく笑うと、ポケットから薬の錠剤のたくさん入った小さなピンク色のプラスチックのケースを取り出した。

「どうして?」

 確かに看護婦の目の前で薬を飲んだはず。口を開けてチェックも受けていた。

「ちょっとしたコツがあるんだよ。それより、おい、タバコ吸いに行こうぜ」

「えっ、外に出れるの?」

 院内は完全禁煙だった。それは廊下の壁などあいちこちに、でかでかと張り紙が貼ってあった。美由香は私の質問に答えること無く、すでに私に背中を向けて扉の方に向かっていた。

「・・・」

 私は考える間もなく、布団を跳ね上げ、ベッドから立ち上がっていた。

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