嫌なことに出くわすと常々「猫になれたらなあ。」なんて思っていたけど、まさか本当になってしまうなんて思わなかった。まだ自分の姿を見たわけではないけど、このぷにぷにとした肉球にふさふさのしっぽは間違いなく猫だろう。しかし参ったな、これでは家に入れない。


どうにか自宅に入る手段を考えていると、後ろからカサカサと物音がした。振り返ると一匹の猫が茂みの中でこちらを見つめていた。


「やあ、その様子だと君は猫になりたての子だね」


猫語を理解できる自分に少し驚いた。返事をしなければととっさに「はい」と返したが、自分の口から出た音は「ニャー」だった。


「今はわけもわからず混乱しているだろうけど、三日もすれば慣れるさ。僕ももともとは人間だったからわかるよ」


「…あの、もう人間に戻る方法はないんですか?」


「人間に戻る?どうしてだい。せっかく猫になれたのに。人間に戻ったってなんにもいいことなんてないさ。君もわかっているだろう?だから御神木様が君を猫にしたんだ」


「御神木様?」


「うん。御神木様は猫になりたいと念じる人間を猫にしてくださるんだ。君もいずれお礼を言いに行きなさい。ともあれまだ気が動転しているだろう。天気もいいし散歩でもしてきたらいいさ」


返事を待つことなく猫は行ってしまった。やはり猫とは自分勝手な生き物なのだろうか。自宅に入れない以上ほかにやることもないので、猫の言う通り散歩をしてみることにした。毎日歩く道でも目線が違えば景色が変わる。入れなかった小道まで難なく進める。世界が何倍にも広く感じた。なるほど、猫になるとはこういうことか。


小汚い家の間を歩いていると、ネズミが一匹前を横切った。その瞬間、今まで感じたことのなかった本能が湧き出てきて、気づいたころにはネズミにとびかかっていた。しかし自分の攻撃を華麗に交わしたネズミは穴の中へと隠れていった。


「その年でネズミ一匹も捕まえられないの?」


あきれた口調は頭上から聞こえた。上を見ると美しい白猫がネズミを咥え、屋根の上にたたずんでいる。目が合うと素早く屋根から降りてきて、私の顔を覗き込んだ。


「見かけない顔だね、どこから来たの?」


猫になった事情を話すと、白猫は不思議そうな顔をした。


「おかしい子ね、なんで猫になんてなりたいと思うのかしら。私なんて人間になりたくて仕方ないわ。きれいな服も着られるし、ネズミなんて取らなくたっていい。それに人間はこの世界で一番強いわ。私たちは毎日隠れながらしか生きられないのよ」


そんなことを言われたってこちらも本当になるなんて思っていなかったのだから仕方がない。どう反応したらいいのか悩んでいると、私が猫になったことを後悔していると読み取ったらしい。白猫はまた語りだした。


「確かその日のうちに御神木様にお願いすれば人間に戻れると聞いたことがあるわ。後悔する前にお願いしてみたら?」


思わぬところで有益な情報を獲得した。詳しく聞いてみると、最寄りの神社のひときわ大きな木が、その御神木様であるらしい。白猫にお礼を言うと、神社を目指して出発した。


迷うことなく右へ、左へと道を進んだ。通ったことのない小道からショートカットもしてみた。軽い足取りとは裏腹に、私はひどく悩んでいた。あの人間生活に戻るということに対して、何の希望も抱けなかった。しかし、猫として退屈な余生を過ごすのにも、前向きにはなれなかった。私はどこに存在すべきなのか、いつも思考していたが、猫になった今でさえ、結論に至れないのか。私の思考を遮るように光が差し込んだ。細い道を通ってきたが大通りにつながったようだ。向かいには目的地である神社が見え、日光とそよ風によって一層神々しくあった。まるで誘い込まれるかのように私は走り出した。私の居場所を求めるように、そこに答えがある気がして、全力で走った。


気が付くと私は倒れていた。どうやら車にはねられたらしい。意識がもうろうとし、私がいなくなる寸前、「ありがとうございます」と心の深いところがつぶやいた。

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