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***



深い夜が夢となって、勝手に脳内を駆けていく。渦巻く黒に、意識の欠片が呑み込まれていく感覚、抵抗しようと奪われるそれに手を伸ばしても、この手は何も掴む事が出来ない。


心を奪われた世界とは、こんな世界なのだろうか。一瞬そんな考えが浮かんでは、その考えもすぐに薄れて、やがてここがどこであるかもどうでも良くなった。暑いも寒いもない、前も後ろも、天も地も分からないまま、ただ暗い世界を歩くだけ。銀色の髪も黒に染まり、自分が誰なのかも分からない。


フウガはふらふらと夜を歩き、記憶の欠片が浮かんでは消えるのを繰り返している。


何でも一人でこなしてきた、それに対して思う事など何もない。

決まった死期リストも、人間の魂を天に導くのも、そこに特別な感情などない。

紳士的に、優しく丁寧に、それだって仕事だからだ。悪魔に襲われた人々の事だって、後の処理が面倒なだけ、だからそうならないように仕事をこなすだけ。感情など、そこには何もない。襲われた人間が可哀想だとも思わない、転生が早まっただけの事。


瞬く間に消える人間を愛する神様には、正直理解に苦しんだ。勝手に仕事を放り出す気持ちも、自分には分からない。

面倒くさがりの天使が、何故、傷を負いながら、ああも立ち上がるのか。


今回の任務だって、ただ天使がいるだけで、いつもと変わらず終えると思っていた。神様は気まぐれな生き物だから、きっとすぐに見つかると。天使がいたところで、自分のする事は何も変わらない。


なのに。

あの天使の背中はどうにも頼りなく、それなのに時折、どうにも眩しい。




暗い夜に立ち止まり、フウガは顔を上げた。ふわふわと空から落ちる光は雪の結晶のようで、フウガの手の平に落ちて溶けていく。


「…あたたかいな」


溶けた光は手の平に吸い込まれ、フウガの胸の奥に静かに光を灯した。トクトクと鼓動が聞こえ、何もない筈の世界に温もりを思い出し、フウガが光の灯る自身の胸にそっと手を当てれば、黒の世界に、優しい光が溢れていった。




***




逃げろ。


そう肩を揺すられた気がして、フウガは瞼を起こした。目の前に一瞬、光が見えた気がした。


まだ体には黒が重くのし掛かり、体は自由には動かせないが、頭の中は妙にすっきりとしている。


今、自分は夢を見ていたのだろうか。

フウガは、今まで見ていた世界を思い起こす。夜の闇の中をただひたすらに歩いていた、出口の見えない旅は果てしなく、このまま消える事が出来たらどんなに楽かと思う程。あれが、心を奪われた人々の見る世界なのだろうか。

だとしたら、夜から導き出してくれたのはー。


「アリア、」


フウガははっとして、重たい頭を無理矢理起こした。

そして目にした光景に、その目を疑った。


そこに、アリアの体を地面に押しつけている、悪魔の姿があったからだ。


アリアの体は半分以上が黒に覆われて、顔や翼に黒が滴り落ちている。首を悪魔に押さえ込まれており、地面に這う黒も、再びアリアを包み込もうと蠢いていた。

よく見れば、アリアの顔にまで火傷のような傷跡が広がっており、アリアからは、何の力も感じられなかった。


「ア、」


思わず名前を呼び掛けた時、アリアが僅かに目を開いた。「逃げろ」と、口許が動いたように見え、フウガは呆然とした。

悪魔に抵抗する力も、もう無いのではないか、その力を、自分を救う為に使ったのかと、フウガは信じられない思いだった。

それでも、悪魔はアリアの力を奪うのに手こずっているように見える。死神とは違う、アリアの力は悪魔とは相反する力で、悪魔に対抗する力だ、そう簡単にはいかないのだろう。その間、悪魔の意識はアリアに向かう。悪魔の手は空に蠢いているが、意識がアリアに集中する分、町に向かう力は御しやすいかもしれない。


アリアは、神様を信じている。あの神の何を見て信じようと思うのか、フウガにはまだよく分からないが、きっと、自分の力が奪われたところで、神様がどうにかしてくれると思っているのだろう。

時間は稼げるかもしれない、でも、アリアは。

本当に力が奪われてしまったら、アリアはどうなる。


「…あなたを、置いて行ける訳ないでしょう」


フウガは、ぎゅっと地面についた手を握りしめた。

どうにかして、アリアを助けなくては。だが、力のない自分に何が出来るのか。


そうこうしている内に、悪魔は更なる動きを見せた。

黒い翼を大きく広げるのを前に、フウガは見えない力の圧に身震いを起こした。フウガにかかる比ではない力が、アリアに向かおうとしている。


それを見た瞬間、形振り構っている場合ではないと、フウガは残る力を振り絞り、自身の体に僅か掛かっている黒をその手で掴んだ。大した力は残っていない、それでも、悪魔の気をこちらに向けなければ。

フウガはギリと奥歯を噛みしめ、黒の力を奪った。死神の奪う力だ。いつも悪魔の手を奪う時のような力は出せないが、それでも微量ながら、グローブに力が吸収されていくのが分かる。


悪魔は、不意にその顔から表情を消し、フウガを振り返った。


例え悪魔の力を奪えても、それがフウガの身になる事はない、悪魔を押さえつけられる力もない。微かに残る力を振り絞り、小さな抵抗を見せる以外、今のフウガには何も出来ない。それでも、例え微量でも、悪魔の力を奪い続ける事が出来れば、気を散らす事は出来るかもしれない。

どうにか体を起こし、膝をつきながら黒から力を奪い続けていれば、やがてフウガの体にかかる黒から力が消えた。


「邪魔だね」


それは一瞬の事だった。低い囁きがフウガの耳元で聞こえたと思ったら、目の前に悪魔の姿があり、その手が翳されていた。いつの間に自分の前に移動したのか、それが全く分からなかったフウガには、抵抗なんて出来なかった。

大きく広げた悪魔の手の平からは、暗く淀む夜の世界が飛び出して、フウガを呑み込もうとしていた。



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