42


アリアの抵抗に、優雅な動きを見せていた悪魔の指先が、見えない糸に引っ掛かりを覚えたみたいに強張り、悪魔は舌を打った。

悪魔は面白くなさそうにアリアを暫し見つめていたが、何やら思い至ったように微笑むと、フウガを振り返り、立ち上がった。


「ねぇ、どう思う死神。この神様みたいな力がボクの体に入ったら、ボクはこの世界の神様になれるかな?」


「は…?」と、声を漏らしたのはアリアだ。彼らの会話はフウガにも聞こえているが、フウガは声を発する事が出来ないでいる。


フウガは悪魔の発言に、そんなこと出来る筈がない、普通に考えればあり得ない、そう反論したいのに、その思考が溶けて消えていく。

悪魔の力が、体にのし掛かる黒から流れ込んでいるのが分かる、それが死神の力を奪っている事も。

だが、フウガはそれに抗う力を持っていない。


「フウガ…?おい、フウガ!」


フウガの返答がない事に異変を感じてか、アリアは焦った様子でフウガを呼ぶ。フウガはアリアの声に不安が混じっているのを感じ取り、問題ない、取り乱すなと言ってやりたいのだが、頭が上手く回らず、口が動いてくれない。


「死神の力は、美味しくないんだよね」


眉を寄せて唇を舐める悪魔に、アリアもフウガに何が起きているのか気づいたのだろう。その声に、更に焦りが滲んでいくのを止められない。


「おい、お前が欲しいのは俺の力だろ!そいつは関係ないだろ!」


必死に訴えるアリアの声が聞こえ、フウガは閉じかけた瞼を止め、重い頭をどうにか動かして、アリアへ視線を向けた。

アリアは地面にひれ伏し、その体は完全に黒に飲まれてしまっている。それでも、フウガの為に必死に声を上げるアリアに、フウガは胸が苦しくなるのを感じた。

そんな事しなくていい。自分の身だけを案じてほしい。そう訴えたくても、考えた側から思考がどろりと溶けていく。


悪魔は楽しそうに頬を緩め、再びアリアへと体を向けた。


「じゃあ、代わりに君の力をボクにくれる?」


その問いかけに、アリアが言葉を詰まらせたのが分かった。そんなアリアに、フウガは、何をやっているんだと、胸の内で吐き捨てた。


迷う必要なんてない、人の事など構ってる場合ではない、ここで大事なのは、アリア自身、それだけなのだから。


フウガは溶けゆく思考に額を地面に擦り付け、力任せに頭を打ち付けた。額の皮膚が切れてじわりと熱を持つが、痛みは感じられなかった。感覚が麻痺しているのかもしれない。

それでも、溶ける思考を引き止める一時しのぎにはなったようだ。


早くアリアを解放しなければと、フウガは震える体を起こそうと、力を振り絞った。


悪魔がここにいるからといって、悪魔の手が人々に向いていない訳ではない。声にならない悲鳴が聞こえる、人々が倒れる音がする。心を吸いとられた人間は、やがて命を失う。命を失うまでの時間が、今回は極端に短かいように思う、心を奪われた人間は、その殆どが間もなく命を落としてしまうだろう。自分を痛めつける事なく、そのままその場所で。


もしかしたら、悪魔の力がそれだけ強いという事かもしれない。だとしたら、この悪魔が鞍木地町くらきじちょうを襲っていたこの数ヶ月、悪魔はその力を抑えていた事になる。今の悪魔は、ただ広範囲にその手を広げているのではなく、その心のみならず、人の体力も、体の奥底に残った僅かな気力も奪い、命の期限を早めてしまっている。


天界でもこの騒動は気づいている筈だが、他の神様が応援にやって来る様子はない。

神様が当てにならない今、頼りはアリアだけだ。そうでなくとも、アリアは疲弊している、自分のように悪魔に力を奪われているとしたら、アリアはどうなってしまうのか、考えただけでもゾッとする。


なのに、アリアは何も出来ない死神すら見捨てられないのだ。フウガは自分が情けないと思う反面、アリアをバカだと毒づくが、その気持ちに柔らかな色が混じるのを、フウガは自分の事ながら不思議に思った。

何であれ、アリアの足をこれ以上引っ張る訳にいかない。自分が事切れても、アリアを助けなくてはいけない。


そう思うのに。


心でいくら強く思おうとも、体に力が入らない。体を起こそうとしても、地面に付けた頭を起こす事すら叶わず、フウガの体は地面の上で倒れたままだ。


どうしてこんなにも儘ならない。


ギリと奥歯を噛みしめ、フウガは自身の無力さに悔やみながら、その意識は暗い夜の底へと引きずり込まれていった。






「あらら、もう立つ事も出来ないみたいだね」

「フウガ、」

「このままじゃ、死神が力尽きるのも時間の問題だね、君のせいで」


責めるようなその声に、アリアは僅かに怯んだ。


「知ってるよ、君が神様の代わりみたいな事をしてたの。今だって、くたばりそうなのにまだ抵抗出来るもんね。こんな天使、初めてだよ。どうして今まで現れなかったのかな」


感心するような声が、のんびりと聞こえてくる。その余裕のある様子に、アリアの焦りは増していく。フウガを助けたい、助けなくてはいけない、でも、この力が悪魔に渡ってしまったら、今、この町を飛び回っている天界の者達の頑張りが無駄になる。町を救えない、神様の帰る町がなくなってしまったら、悲しむ者がいる。

帰る場所がないなんて、そんな悲しいことはない。それでも、目の前の死神を置いてはいけない。


残る力で、自分が出来ることは何か。アリアは焦る気持ちを抑え、そっと拳を握りしめた。


「…俺も知りたいくらいだよ。お前こそ、こんなに人間を襲って、腹でも壊すんじゃないか」

「ご忠告どうも、でも心配には及ばないよ。だってボクらは、人の心から生まれたんだよ?命の源だよね」


それに、と、アリアの前にしゃがみこんだ悪魔は、黒に包まれたその体に身を寄せた。


「ボクらを厄介者扱いするけど、ボクらを生み出したのは、君達が慕う神様だからね」


ヒヤリと冷たい声が、アリアの喉元に突き刺さる。黒の向こう側から伸びてきた指が、アリアの顎を掬い上げた。


「不公平だよね、同じ神様が創り出したっていうのに、君たちは正義の味方で、ボクらは悪者だ。生きる権利は平等である筈でしょう?それなのに、君は神様みたいな力でボクの獲物を守って、まさか、神様気取りでいるつもり?」


ずるいな、と、悪魔の長い指が、アリアの首に絡むかのように蠢いている。


「お友達まで犠牲にしてさ」


その言葉に、アリアは声を詰まらせた。

見えないフウガに視線を向ける。分かっている、神様が来てくれるとして、あとどれくらい待てば良いのか、今のこの状況を引き延ばしても良い筈がない。


きっと、怒るだろうな。でも、きっと神様は来てくれる、それまでで良いのなら、多分これも間違いではない。


胸の内で呟いて、アリアは悪魔へ視線を上げた。


「…俺の力を食わせれば、あいつを解放してくれるのか」

「ふふ、勿論だよ」

「…ちゃんと約束するんだな」

「疑り深いな。役に立たないお友達がそんなに大事?」


からかい混じりの声に、アリアは口角を上げた。どんなに目を開いても、黒に飲まれた内側では目の前の悪魔の顔すら見えないが、それでも、倒れているフウガの姿は見えるような気がする。アリアは握りしめた拳の中に小さな光を忍ばせ、真っ直ぐに、悪魔の瞳があるだろう先を見つめた。


「大事だよ。それに、あいつは誰よりも頼りになるんだ」


だから、今度は俺が助けてやらないと。


アリアは、ぎゅっと小さな光を握りしめると、頼りなくぼろぼろになった翼を微かに震わせた。


弾ける閃光に、悪魔が目を剥いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る