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アリアの抵抗に、優雅な動きを見せていた悪魔の指先が、見えない糸に引っ掛かりを覚えたみたいに強張り、悪魔は舌を打った。
悪魔は面白くなさそうにアリアを暫し見つめていたが、何やら思い至ったように微笑むと、フウガを振り返り、立ち上がった。
「ねぇ、どう思う死神。この神様みたいな力がボクの体に入ったら、ボクはこの世界の神様になれるかな?」
「は…?」と、声を漏らしたのはアリアだ。彼らの会話はフウガにも聞こえているが、フウガは声を発する事が出来ないでいる。
フウガは悪魔の発言に、そんなこと出来る筈がない、普通に考えればあり得ない、そう反論したいのに、その思考が溶けて消えていく。
悪魔の力が、体にのし掛かる黒から流れ込んでいるのが分かる、それが死神の力を奪っている事も。
だが、フウガはそれに抗う力を持っていない。
「フウガ…?おい、フウガ!」
フウガの返答がない事に異変を感じてか、アリアは焦った様子でフウガを呼ぶ。フウガはアリアの声に不安が混じっているのを感じ取り、問題ない、取り乱すなと言ってやりたいのだが、頭が上手く回らず、口が動いてくれない。
「死神の力は、美味しくないんだよね」
眉を寄せて唇を舐める悪魔に、アリアもフウガに何が起きているのか気づいたのだろう。その声に、更に焦りが滲んでいくのを止められない。
「おい、お前が欲しいのは俺の力だろ!そいつは関係ないだろ!」
必死に訴えるアリアの声が聞こえ、フウガは閉じかけた瞼を止め、重い頭をどうにか動かして、アリアへ視線を向けた。
アリアは地面にひれ伏し、その体は完全に黒に飲まれてしまっている。それでも、フウガの為に必死に声を上げるアリアに、フウガは胸が苦しくなるのを感じた。
そんな事しなくていい。自分の身だけを案じてほしい。そう訴えたくても、考えた側から思考がどろりと溶けていく。
悪魔は楽しそうに頬を緩め、再びアリアへと体を向けた。
「じゃあ、代わりに君の力をボクにくれる?」
その問いかけに、アリアが言葉を詰まらせたのが分かった。そんなアリアに、フウガは、何をやっているんだと、胸の内で吐き捨てた。
迷う必要なんてない、人の事など構ってる場合ではない、ここで大事なのは、アリア自身、それだけなのだから。
フウガは溶けゆく思考に額を地面に擦り付け、力任せに頭を打ち付けた。額の皮膚が切れてじわりと熱を持つが、痛みは感じられなかった。感覚が麻痺しているのかもしれない。
それでも、溶ける思考を引き止める一時しのぎにはなったようだ。
早くアリアを解放しなければと、フウガは震える体を起こそうと、力を振り絞った。
悪魔がここにいるからといって、悪魔の手が人々に向いていない訳ではない。声にならない悲鳴が聞こえる、人々が倒れる音がする。心を吸いとられた人間は、やがて命を失う。命を失うまでの時間が、今回は極端に短かいように思う、心を奪われた人間は、その殆どが間もなく命を落としてしまうだろう。自分を痛めつける事なく、そのままその場所で。
もしかしたら、悪魔の力がそれだけ強いという事かもしれない。だとしたら、この悪魔が
天界でもこの騒動は気づいている筈だが、他の神様が応援にやって来る様子はない。
神様が当てにならない今、頼りはアリアだけだ。そうでなくとも、アリアは疲弊している、自分のように悪魔に力を奪われているとしたら、アリアはどうなってしまうのか、考えただけでもゾッとする。
なのに、アリアは何も出来ない死神すら見捨てられないのだ。フウガは自分が情けないと思う反面、アリアをバカだと毒づくが、その気持ちに柔らかな色が混じるのを、フウガは自分の事ながら不思議に思った。
何であれ、アリアの足をこれ以上引っ張る訳にいかない。自分が事切れても、アリアを助けなくてはいけない。
そう思うのに。
心でいくら強く思おうとも、体に力が入らない。体を起こそうとしても、地面に付けた頭を起こす事すら叶わず、フウガの体は地面の上で倒れたままだ。
どうしてこんなにも儘ならない。
ギリと奥歯を噛みしめ、フウガは自身の無力さに悔やみながら、その意識は暗い夜の底へと引きずり込まれていった。
「あらら、もう立つ事も出来ないみたいだね」
「フウガ、」
「このままじゃ、死神が力尽きるのも時間の問題だね、君のせいで」
責めるようなその声に、アリアは僅かに怯んだ。
「知ってるよ、君が神様の代わりみたいな事をしてたの。今だって、くたばりそうなのにまだ抵抗出来るもんね。こんな天使、初めてだよ。どうして今まで現れなかったのかな」
感心するような声が、のんびりと聞こえてくる。その余裕のある様子に、アリアの焦りは増していく。フウガを助けたい、助けなくてはいけない、でも、この力が悪魔に渡ってしまったら、今、この町を飛び回っている天界の者達の頑張りが無駄になる。町を救えない、神様の帰る町がなくなってしまったら、悲しむ者がいる。
帰る場所がないなんて、そんな悲しいことはない。それでも、目の前の死神を置いてはいけない。
残る力で、自分が出来ることは何か。アリアは焦る気持ちを抑え、そっと拳を握りしめた。
「…俺も知りたいくらいだよ。お前こそ、こんなに人間を襲って、腹でも壊すんじゃないか」
「ご忠告どうも、でも心配には及ばないよ。だってボクらは、人の心から生まれたんだよ?命の源だよね」
それに、と、アリアの前にしゃがみこんだ悪魔は、黒に包まれたその体に身を寄せた。
「ボクらを厄介者扱いするけど、ボクらを生み出したのは、君達が慕う神様だからね」
ヒヤリと冷たい声が、アリアの喉元に突き刺さる。黒の向こう側から伸びてきた指が、アリアの顎を掬い上げた。
「不公平だよね、同じ神様が創り出したっていうのに、君たちは正義の味方で、ボクらは悪者だ。生きる権利は平等である筈でしょう?それなのに、君は神様みたいな力でボクの獲物を守って、まさか、神様気取りでいるつもり?」
ずるいな、と、悪魔の長い指が、アリアの首に絡むかのように蠢いている。
「お友達まで犠牲にしてさ」
その言葉に、アリアは声を詰まらせた。
見えないフウガに視線を向ける。分かっている、神様が来てくれるとして、あとどれくらい待てば良いのか、今のこの状況を引き延ばしても良い筈がない。
きっと、怒るだろうな。でも、きっと神様は来てくれる、それまでで良いのなら、多分これも間違いではない。
胸の内で呟いて、アリアは悪魔へ視線を上げた。
「…俺の力を食わせれば、あいつを解放してくれるのか」
「ふふ、勿論だよ」
「…ちゃんと約束するんだな」
「疑り深いな。役に立たないお友達がそんなに大事?」
からかい混じりの声に、アリアは口角を上げた。どんなに目を開いても、黒に飲まれた内側では目の前の悪魔の顔すら見えないが、それでも、倒れているフウガの姿は見えるような気がする。アリアは握りしめた拳の中に小さな光を忍ばせ、真っ直ぐに、悪魔の瞳があるだろう先を見つめた。
「大事だよ。それに、あいつは誰よりも頼りになるんだ」
だから、今度は俺が助けてやらないと。
アリアは、ぎゅっと小さな光を握りしめると、頼りなくぼろぼろになった翼を微かに震わせた。
弾ける閃光に、悪魔が目を剥いた。
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