36
狸もどきの後を追いかけ急いで川へ向かえば、見慣れたものとは随分変わってしまった川の姿があった。
いつもは穏やかなその川は、嵐により水かさが増し、今も濁った水がその勢いを保ちながら、両岸に水を溢れさせていた。
「こっちです!」
狸もどきが示したのは、草木が生い茂る繁みの奥だ。
県境に流れるこの川は、散歩だったり川遊びで訪れる人も多い場所だが、人が訪れるのは、広く開けた手入れの行き届いた場所で、狸もどきが神様を連れてきたのは、手入れの行き届いていない雑草が生い茂る繁みの奥だった。
子供なら、すっぽりと隠れてしまうような背の高さの草が辺りを覆っている為、危ないから近づくなと言われている場所だ。その為、人が寄りつかず、ここを根城にしている妖もいる。
「
その草を掻き分けた先に、八重がいた。
川岸から離れた場所だ、狸もどき達が掻き集めたのか、柔らかなタオルや布切れ、葉っぱ等を敷き詰めたそこに、八重の体は横たえられていた。その周りに、小さな妖の姿が二つある。化け猫の子猫だ、兄弟だろうか。子猫達は神様に気付き、兄弟の内、一回り体の大きな子猫が、泣き出しそうにしながら神様に駆け寄った。
「神様、この子を助けて!僕を助けてくれたんだ!ずっと目を覚まさないんだ!」
その必死な訴えに、神様は言葉を失った。こちらを見つめる妖達は気づいていない、空から死神が姿を現している事を。
八重が川の側に居たのも、自分もこの町の為、神様の為に何か力になりたいと思ったからだろう。
大きな嵐の後だ、妖だって力がある者ばかりではなく、怯え惑う者もいる。狸もどきがいつもひとりだったように、仲間との関係が希薄な者も妖には多い。それを知っていたからか、八重は普段から妖がよく身を隠している場所をこっそりと見て回っていた、そのお陰で、助けを呼ぶ声を聞きつけたのだろう。八重は一人、声のする方へ向かった。
川に流されそうになっていたのは、化け猫の子猫だった。体の大きな妖がいれば、或いは、助けられる能力のある妖がその場にいれば良かったが、そこにいたのは化け猫の兄妹、その妹だけだった。
川に落ちた兄の猫は、妹を庇って落ちたという。川の中腹で岩場に手を掛け、流されるのをどうにか堪えていた。この川は、八重にも馴染みのある川だ、水嵩が増して流れも速いが、それでも八重の腰の高さ程しかない。季節は冬、その川の冷たさを想像すれば怯みはしたが、その冷たささえ堪えられれば問題ないと思ったのだろう、八重は川に進み入った。肌を突き刺すような水の冷たさを我慢して、一歩一歩、川の中を慎重に進んで行く。必死に川の流れに耐える兄猫に、八重は「大丈夫だよ、もう少しだからね」と声を掛け続け、その腕に兄猫の体を抱き抱えた。八重の腕にもすっぽり収まる大きさだ、初めて人間の腕に抱きしめられた兄猫は、戸惑いながらもその腕の温かさに身を寄せ、泣き出しそうな瞳をきゅっと瞑って八重にしがみついていた。
そうして兄猫を助けられたまでは良かったが、八重は岸に上がる時に足を滑らせ、その体は川に飲まれてしまったという。
兄妹猫は八重を助けようとしたが、力もなく体も小さい自分達では八重を助けることが出来ない。兄猫は助けを呼びながら川から土手に上がった時、八重を探していた狸もどきと出会った。
「桜の家の子を助けたいんだ!僕を助けたせいで川に落ちて、」
それを聞いて、狸もどきは血の気が引いた思いだった。
八重は、
狸もどきは悪魔が現れたのを見て、八重は無事だろうかと、嵐の中も、嵐が過ぎた今も、八重の家と町を行ったり来たりしながら駆け回り、やがてこの川に行き着いたという。
狸もどきが急いで川に降りると、妹猫が泣き出しながら八重に声を掛け続け、その姿を見失わないように追いかけていた。
八重の体は、川岸の木が折れたのか、大きな木の木片の上に、その半身を乗り上げていた。狸もどきは急いでそれを追いかけ、大きく膨らました尻尾を川の流れに横たえさせた。器用に二本の尻尾を操り、八重の体を包むようにして、どうにか岸まで引き寄せると、三匹で力を合わせて八重の服を口に咥えて引っ張ったり、体を頭や尻尾で押し上げたりして、ようやく八重を岸に上げる事が出来たという。
だが、その時は既に八重は意識を失っており、いくら呼び掛けてその体を揺すろうとも、八重は目を開ける事はなかった。八重を助けるには人間の力がいる、そう考えた狸もどき達は人間の助けを呼ぼうとしたが、嵐が過ぎた後も町は混乱に揺れ、妖の訴えに気づく者はない。木々を揺らしてみても、猫や狸に化けて鳴き声を張り上げ、更には人間の足元で訴えてみても、誰も相手にしてくれなかった。皆、自分達の事だけで、いっぱいいっぱいなのだ。そしてようやく神様に会えた時には、八重の命は消えかけていた。
「この子を助けて!お願い、神様!」
兄妹猫の切なる訴えに、神様は頷いた。神様だって、八重を失うなんて考えられなかった。
神様は八重の傍らに膝をつき、その頬に触れた。細いながらもまだ息はある、まだ助けられる筈だ。
「大丈夫、まだ間に合う。そうだよな、死神」
神様のその声に、狸もどき達は驚いて空を仰ぎ見た。銀色の長い髪に黒のロングコート、頭には黒のハットを被った男性の死神がそこにいた。彼は戸惑いをその顔に浮かべたまま地上に降りると、神様の前でハットを脱いで片膝をつき、頭を下げた。それから、言いにくそうに口を開いた。
「…先程の悪魔による人間への被害は、神様のおかげでほとんどありません。リストはもう正常に動いています」
その言葉に、神様はぎゅっと拳を握った。
「…何をもって、正常と言ってるんだ」
神様は八重に目を向けているので、死神がどんな表情をしているのかは分からない。だが、困っている事は想像がつく。彼に言っても仕方のない事だ、死神は、送られてきた死期リストに沿って仕事をしているだけ。それでも、ここでどうして八重が天界へ送られなくてはならないのか、神様には納得できなかった。
正常に機能しているなんて、本当にちゃんと精査をしたのだろうか、八重の体が弱っているのを好機と見たのではないか。
自分が、彼女に好意を寄せてしまったばかりに。
神様は唇を噛みしめ顔を上げると、立ち上がり、八重を背に庇うように死神を見据えた。
「彼女がいてくれなければ、この町は悪魔に喰われていた。そもそも私が引き起こした事だ、責任は私が負う。追放でも何でもしてくれて構わない」
「神様、」
「私だって、神だ。お前は神の意思に背くのか」
嫌な言い方だが、八重を救う為ならどんな事でもする腹積もりだった。悪魔と八重をかけた取り引きを受けた時から、追放の覚悟はしていた。これは全て、自分の弱さが招いた事、八重を犠牲にして、終えられる筈なんてなかった。
死神はまだ戸惑っているようだったが、神様の意思に反する事は許されない。
「死神の君には、何の落ち度もないよ。君には何の影響も出ないようにする。天界でも、それは見て分かっているだろう」
神様はそう言って天を仰いだ。きっと、どこかでこの会話も聞かれているのだろう、それなら、八重ではなく自分に罰を与えてくれと、神様は天に願った。ただ、八重を救いたい、その一心だった。
やがて死神は、観念したように「分かりました」と頷いた。
「彼女の魂は、私の意思も含めて連れていきません」
「え、」
死神の思いがけない言葉に、神様は目を瞬いた。死神はそっと顔を上げ、困った様子で眉を下げた。
「彼女の名前は、通常の死期リストではなく、急遽書状で受け取りました。これはこの世界の為ではなく、天界の為の魂の導きです」
その言葉に、神様はやっぱりそうかと、拳を握った。
自分が愛してしまったから、八重は寿命でも精査にかけられる事もなく、天界に送られようとしていた。普段は世界のバランスを見て死期リストを入れ替えているというのに、天界にとって都合の悪い人間は、誰と入れ替える事もない、だから通常のリストではなく、書状で仕事を渡される。
そして、通常なら説明をした上で魂を導くのだが、それもなく、強制的に天へ連れていく事が許されている。それは、問答無用で天界へ連れていくという事、連行に近かった。
自身を責め悔いる神様に、死神は膝をつきながら、まっすぐと神様を見上げた。
「神様、彼女はまだ助かります。本来、こんなに早く天界へ向かう予定のない人間です、彼女を助けてあげて下さい」
そう頭を下げた死神に、神様は困惑した。彼の立場からすれば、天界にとって大事な任務を放り出す行動は、下手をすれば消滅もあり得る事だ。いくら神様からの誘導があったとはいえ、そこまで自分の思いを口にする死神に、神様は驚いていた。
そんな神様の思いが伝わったのか、死神はそっと眉を下げ表情を緩めた。
「私は、過去にも何度かこの書状を受け取りました。天界にとって悪とみなす魂だと毎回説明を受けますが、人間が天界にとっての悪となった事はあったでしょうか。彼らはいつも巻き込まれるばかりなのに、こちらの都合でその命を奪っている。彼女だって、悪と言えるでしょうか。今回の騒ぎの中、見えない者達の為に動いてくれて、神様を動かしてくれたその人は、この町を守った功労者ではないかと、私は思います」
死神は、そうどこか寂しそうに表情を歪めた。ずっと、天界のやり方に対して思うところがあったのか、切実なその様子に神様は唇を噛みしめ頭を下げた。
「か、神様?」
死神はさすがに驚いて立ち上がり、顔を上げようとしない神様に戸惑って右往左往するばかりだ。
神様は死神の言葉を聞き、悪というならそれは自分だと、自身を責めていた。八重を傷つけた、嫉妬から、関係のない人間の気を失わせた事もある。それなのに、天界は八重を責める。神である自分を守る為に、八重の命は奪われてはいけない。
「…私の勝手な行動で、君にも迷惑を掛けてすまない。君には何の咎めもないようにする。
消滅なんてさせない」
この責任は、自分にある。その思いを込めて言葉にすれば、死神は眉を下げて表情を和らげ、そっと頭を下げた。
「私は、神様の力になれるなら本望です」
死神が今まで何を見て、今回のような行動に出たのかは分からないが、神様にとっては背中を押された思いだった。
「…ありがとう」
神様は死神の思いに感謝を伝え、死神が空に向かうのを見送ると、きゅっと唇を引き結び八重を振り返った。
「神様!」
狸もどきの声に頷き、神様は八重の体に手を翳した。
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