26


「…耐えろよ」


アリアが隣りで、そう呟いた。まだどこか不安定に揺れる瞳はフウガを見つめる事はなく、それがフウガに言った言葉なのか、彼自身に言った言葉なのかは分からなかったが、アリアの口元は不敵に弧を描いていた。


「あの神様、初めから何かおかしかったんだ。もしかしたら、力が弱まってたのかもしれない。何度か鎮静の煙を吸わせてたけど、あんまり効果はなかったな」


アリアの口元の笑みは、皮肉故だったようだ。それよりも、フウガはアリアが煙草に仕掛けをしていた事に驚いていた。あの青い煌めきを含んだ煙は、そんな効果を持っていたのかと。愛煙家故か、それとも怠けついでの発想だろうか。


「…いえ、ちゃんと効いていたと思いますよ」


由来が何であれ、神様が額を押さえて見せた表情は、あの煙の力が少しでも働いたおかげだろう。

それなら良かったと、アリアは空いた手でフウガの肩を叩いたが、その後はぐったりと体を地面に横たえてしまった。それでも重なった手からは、アリアの力が後押しするように流れ込んでくるのを感じる。アリアの手に浮かぶ火傷のような傷痕が、捲られた袖の下、ジリジリと腕に滲み出ていくのを見て、フウガはぐっと唇を噛みしめた。アリアが無事である筈がない、弱っていたとはいえ、神様の力を一身に受けていたのだから。今こうして話せて、更には力が使えるなんて、普通ではない。それが出来るのはきっと、一部とはいえ神様と同等の力を持っているからで、それだって、無理をしてこそだ。それなのに、アリアはまだ自分を犠牲にして、力をくれる。


フウガはしっかりと視線を上げ、地面から這い出た神と繋がる蔦をぎゅっと握りしめると、項垂れたままの神と向き直った。アリアの力を、思いを無駄にしてはいけない。


「彼女を救って、彼女の寿命を伸ばし続けて、あなたは満足ですか。大勢の人間を見捨てて彼女を救えば、彼女は神に守護された人間だとして、善からぬ者を呼び寄せますよ」

「…私が守ればいい」

「守れるのですか?あなたは今、誰一人守れていない、それどころか、守るべき人々を見捨て、」

「分かった口を利くな!」


その声に威圧が混じり、フウガは息を呑む。落ちそうな腰をどうにか耐え目を逸らさずにいられたのは、アリアの手がフウガの手を握ったからだ。


「では、誰が私を覚えていてくれる?多くの人間は私を忘れた!社は崩れ始め誰もやって来ない、私の存在理由は、その価値はどこにある!彼女だけだ、彼女だけが私を思ってくれた!」


神と繋がる蔦が膨れ上がり、蔦の途中からは幾つも新たな蔦が生まれ、それは大きな口を開けてフウガ達に牙を剥く。フウガはすぐさま蔦を握り返し力を奪おうとしたが、フウガの力では敵いそうもない。自分を遥かに凌駕する力に、フウガは成す術なく呆然と目を見開き固まった。


「まだ、いるよ」


ふわっと、アリアの翼が膨らみ、フウガの体を包んだ。蔦の牙に噛みつかれ、その口に呑み込まれた翼がハラハラと零れ落ちていく。それでも、アリアはフウガの前に立ち上がる、その姿をフウガは呆然と見つめた。


「アリア、」


アリアはふらふらとしながら、自分の翼を食いちぎろうとする牙に触れる。それはとても微かなものだったが、柔らかな光が触れた途端、牙は花びらとなり、花がそこかしこに咲き誇った。


「あんたのいなくなった社には、まだ参拝に来ている人間がいるよ」

「そんな筈ない!私はずっと一人だった!力は失われる一方だ!お前一人、」


神はそこで言葉を切ると、悔しげに頭を抱えしゃがみ込んだ。


「お前一人、消す事も出来ない、誰も救えない、救えなかった、目の前で悪魔に呑まれた人を前に、何も出来なかった…あの時だって、彼女がいなければ」


あの時だって。その言葉に、フウガは少年から聞いた、枯れた桜が咲いたという話を思い出した、日誌には書かれなかった出来事だ。悔やんで地面に拳を叩きつけ、頭をつけてしまいそうな神に、フウガは口を開きかけたが、アリアが先に「いるだろ」と声を掛けたので、フウガは僅か目を見開きアリアを見た。


「あんたの事、神使は探してる。あんたの帰りを信じて、ずっと、この町を守ってる。この町の人間の為に、あんたの為にさ」


深い緑の髪が、静かに小さな肩を滑り落ちていく。


「誰もがあんたを忘れて、見向きもされなくなったって、あんたは神使には必要なんだよ。神使がまだ力を保てているのは、あんたにそれだけの力があるからだ。あんたは自分の事ばっかりで気づいてないけど、神使を動かせる力があるのは、あんたを思う人間がまだいるからだ。信じられないなら、自分の目で確かめてみろよ」


神の手元で、小さな花が咲いた。蔦から現れたものだ。神は、戸惑うようにそれに触れ、握り潰そうとして出来ず、その手を地面に力なく落とすだけだった。


フウガはその姿を見て、再びアリアに目を向けた。疲弊しきった体は背中を丸めて今にも倒れそうだが、その眼差しは穏やかに神を包み込むようで。


天使そのもののような、いや、それよりも。


そう思いかけ、フウガは頭を振った。

フウガの中で、アリアの印象がまた変わっていく。今のアリアは、怠け者と呼ばれたアリアとはまるで別人のようで。もしかしたら、これが本来のアリアの姿なのだろうか。



「…時間だ」


そう呟いたのは、フウガと共に来た天使だ。その声にフウガがはっとして空を見上げれば、病院の上に停まっていた車が動き出しているのが分かった。遠目でも魂の存在は分かる、半透明となったその人は、あのベッドで眠っていた女性、死期リストを確認せずとも分かる、彼女は木島八重きじまやえだ。


「八重さん、」


その名前に、神ははっとして空を見上げた。


「待て、行くな!」


神は蔦も全て投げ捨て、下駄を鳴らし空へ駆け出した。



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