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***



“桜の人、あなたは今日も神社に来てくれた。昨日は少し塞ぎ込んだ顔をしていたけど、今日は安らいだ表情を浮かべているのでほっとした。

「今日は良い天気ですね」と、あなたが手を合わせながら言うので、私は「そうだね、君の家の桜ももうすぐ咲く頃だろうか」と、聞こえやしない返事をする。「桜の蕾がね、今年も膨らんで。可愛らしい花を咲かしてくれそうですよ」と、あなたは微笑み、いつものように社の庭を掃いてくれた。サラサラと小石の上を箒が撫で、その穏やかな横顔を見る度に私は、私の指先があなたの髪を揺らした事を思い出す。あなたは忘れてしまっただろうか。私はあなたとね、会った事があるんだよ。私はあなたとね、お喋りをした事があるんだよ。あなたは泣いていて、なんだか放っておけなくて、そうしたら私を見て、あなたは泣くのも忘れて手を引いて。

あなたは、まだ覚えているだろうか。

皺が増えて、髪が白く染まっても、私のあなたはあなたでしかないのに。

あなたはいつものように再び手を合わせて、感謝をして神社を出て行く。感謝をしたいのは私の方なのに、悪い足を少し引きずって帰る背を支えて、触れられないから支えているような気がするばかりで、私はあなたをただ見送るしか出来ない。すっかり木々がのし掛かる鳥居の下、聞こえやしない言葉を、ぽつりと投げかけるばかりだ。

あなたの幸せを願っている。

桜の人、あなたは私を覚えているだろうか、桜の人、あなたもきっと、忘れてしまうのだろうね。”





藤の籠の中に仕舞われた思いが、フウガの手によって開かれていく。

昨夜の事だ、フウガはアリアの眠る横で、神様の書いた日誌を捲っていた。

籠の中、一番上に乗っていた日誌は、恐らく一番新しい物だと思われるが、それは一昨年の春を迎えた辺りから更新が途絶えていた。それからどれくらい月日が経ったのか、空白だらけのページをパラパラと捲った最後に、殴り書きのような一文があった。


“全ては遠い昔の出来事だ、遠い遠い、過去に私もなる”


ぽた、ぽたと、滲んで見える跡は涙だろうか。滲んだ文字は紙に皺を寄せ、固くなっていた。


フウガは文字を声でなぞり、日誌を閉じた。そして、顔を上げた先に溜め息を吐く。夜の社は静かで、冷たい闇に溶けてしまいそうだ、だが、その一部となって消えるには、フウガは神様を知らなすぎる。ふと視線を滑らせ、布団で眠るアリアを見やれば、静かだと思っていた寝息は弱々しい呼吸を繰り返し、その額には汗が滲んでいた。フウガが傍らの桶で手拭いの水を絞り、その額を拭ってやると、アリアの表情が幾分和らぎ、フウガもほっとして肩から力を抜いた。

手拭いを桶の縁に掛けると、フウガは再び日誌に目を落とし、桜の人に思いを馳せた。


桜の人は何故、神社に来なくなってしまったのだろう。神様にとってその人は、特別な存在だと感じられるが。


「…神様は人間の振りをして彼女に会っていたのか…」


そんな事して良いのか、そもそも、一人の人間に肩入れし過ぎではないかと、フウガは眉間に皺を寄せた。そのまま、日誌の入った籠を漁り、日誌の日付を確認していく。最後の日誌に登場する桜の人は、年齢を重ねているように感じる。日誌を遡れば、その人との出会いが書かれているかもしれない。その人がどこの誰か分かれば、神様の居どころを探る手がかりになるかもしれないと、フウガは朝が来るまで、日誌を捲り続けた。



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