3



二人が向かったのは、町の大通りにある歩道橋だ。時間は真夜中だが、車の通りは少なくない。ヘッドライトを光らせて車が走る中、歩道橋の上にぼんやりと佇む人影があった。長いスカートをふわりと揺らした女性で、年齢は二十代位、虚ろな瞳で真下を行く車を眺めていた。

すれ違う人々には、ただ女性が立っているようにしか見えないが、アリア達の目には、先程から空を漂っている大きな黒い塊から腕が伸び、それは彼女の体に綿菓子のようにふわりと纏わりついているのが見える。黒い影はふわりふわりと彼女の視界を覆い、やがて彼女は導かれるように、歩道橋の欄干の上に身を乗り上げた。


「待て!」


空からやって来たアリアはその体を掴み、彼女を欄干から降ろさせた。彼女は虚空を見つめ、力なく座り込む。倒れ掛かる体を支えながら、アリアは彼女の頬を両手で包んだ。


「悪いけど、あんたはまだ死期リストには載ってないんだ」


そう呟くと、アリアは目を閉じた。その途端、ぶわっとアリアの翼が大きく広がり、真夜中に光が散った。優しくもまばゆく輝くその光だが、歩道橋の下を行く車も、道行く人々もまるで気づいていない。

光はアリアの体を満たすと、アリアの手から彼女に触れた頬へ、その体へと伝わっていく。すると、彼女に纏わりつく黒の内側にも光が満ちていき、ふわりとした黒がパッと散ってしまうと、彼女の体の中からも、驚いたように黒い影が飛び出していった。散り散りに空へと飛び出した黒が、それぞれが腕のように形を変えて絡み合い、また形を変え、徐々に体積を大きくしながら、空に浮かぶ大きな物体に戻ろうとしているようだ。


「逃がしませんよ」


ふわりと空に浮かんだフウガは、グローブをはめた手でその黒の端を掴んだ。直後、稲妻のような光が黒の中を駆け抜け、大きな黒い物体は、フウガの手の中でみるみる内に小さな球体となってしまった。

ビリビリと、まだ電気が走る黒い球を握りしめ、フウガは胸元から取り出した小瓶にそれを収めた。縦が五センチ、横が三センチ程のビンで、コルクの栓が嵌められている。その中に収められた黒い球は、ビンの栓を内側から開けようと弾んでみたり、栓の隙間から出ようとして液体になってビンの中を這っているが、どれも無意味のようだ。


「あまり手応えがありませんでしたね、今夜はこれで最後でしょうか」


歩道橋に降り立ち、フウガがアリアを振り返れば、アリアの体がふらりと倒れてしまった。


「アリア、」


フウガが慌てて駆け寄りその体を抱え起こすと、天使の翼や金色の輪が、キラキラと塵のように空へ消えていく。力を使い果たしたようだ。


「アリア、大丈夫ですか?」

「…うん、残った根は、全部消した」


アリアは疲れた顔を見せながらも、何ともないと言うように手をひらひらと振ってみせるが、手の甲にあった火傷のような跡が、指先まで出来ているのに気づいた。フウガは戸惑いに眉を寄せたが、アリアが女性の様子を確認しようと体を起こしたので、フウガもそちらへ意識を向けた。

彼女の体からは黒い影の存在が消え去り、すっかり顔色も良くなって、今は眠っているようだった。


「無事ですね、それでは帰りましょうか」

「…うん」


ほっとした声でアリアが頷いたのを見て、フウガは慣れた手つきでアリアを背負うと、パチと指を鳴らした。

すると、フウガの足元から空気の波紋のようなものが広がり、周囲に張られていた透明の膜が解かれていった。人目を避ける為の結界だ。天使と死神の姿は人目には見えないが、もしもの場合がある。アリアで言えば、その翼が消えた瞬間、アリアの姿は人目に映る。今みたいに意図せず翼が消えてしまうと、誰もいない筈の場所に、突然アリアが現れて見えてしまうので、結界はそんな、もしもの時の予防でもあった。


結界が消えると、眠る女性の意識にも影響が及んだのか、彼女がぼんやりと目を開けた。


「…あれ、私…?」


彼女は、何故自分が歩道橋で座り込んでいるのか分からないようだ。自分に起きていた事も、まさか命を失いかけていたなんて、思いもしないだろう。


「大丈夫ですか?」


ぼんやりしている彼女に、フウガが優しく声をかけた。アリアと話していた時とはまるで違う、心配が声に乗って伝わってくるようだ。

そして、髪の色も変化していた。銀色だった髪は黒色に変わっており、それだけで、普通の青年に見える。ただ背中には、ぐったりとしたアリアを背負っているが。


フウガに心配そうに声を掛けられた彼女は、暫し目を瞬いて固まっていたが、自分がフウガの腕に支えられている事に気づくと、途端に顔を真っ赤に染め上げ、慌てた様子で体を起こした。座り込んでいる所を見られ、更に支えられている事に恥ずかしくなったのだろう。だが、上手く体に力が入らなかったのか、足をふらつかせてしまった。咄嗟にフウガが彼女の腕を取って支えると、彼女は更に顔を赤くさせ、「すみません!」と焦って飛び退いた。


「大丈夫ですか?怪我はありませんか?」

「は、はい、」

「少しふらついてますね、歩けますか?」

「だ、大丈夫です、すみません、なんか頭がぼんやりして…ただの立ちくらみです、ありがとうございます」


彼女は恥ずかしそうにしたまま立ち去ろうとするが、まだ足元はふらついている。救急車を呼んだり、病院に行かせる程ではなさそうだが、少し心配だ。


「では、階段の下まで一緒に行きましょう」

「え、でも、」

「私もそちらから帰るので」


優しく微笑んで手を差し出せば、彼女は戸惑いつつも「ありがとうございます」と、恐縮しながらフウガの手に手を重ねた。


彼女は手すりとフウガの手を頼りに、階段を一歩ずつ下りて行く。少し会話を重ねていると、不意に「…優しいんですね」と、彼女が呟いた。その視線が、フウガの背中でぐったりしているアリアに向かっているのに気づき、フウガは何とも言えない気持ちになった。

彼女には、友人を介抱した上、道行く人にも手を差し伸べる、随分優しい人間に映ったのかもしれない。

フウガは少し視線を彷徨わせたが、「そんな事ありませんよ、たまたまです」と、彼女に微笑みかけた。



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