ヒューマンエラー

錦木

1.

 霧のような雨が降る日だった。

 俺は傘もささず通学のために乗る電車の駅の反対方向を歩いていた。

 道を戻っていたのだ。

 改札を通る直前になって通学用の定期がないことに気づいた。

 前日にカバンの中身を机の上に広げた際にうっかりと入れ忘れたのだろう。

 記憶力には自信がないからそうだと思いたい。

 道に落ちていたら紛失届けを出さなければならないだろう。

 幸いなことに駅は住んでいるアパートの最寄りなのでアパートには早く着いた。

 急いで引き返せば講義の時間に間に合うはず。

 はたして、机の上にパスケースが置かれていた。


「よかった……」


 吐息をついた瞬間に声がした。


「よかった、ね。ダメだよ、不用心に机の上に出しといちゃ」


 パスケースが拾い上げられる。

 俺は固まった。

 玄関は閉まっていた。

 鍵を開けて入ったのだから間違いない。

 じゃあ目の前のこいつはどこから入った。


「オジャマしてます」


 その答えはすぐにわかった。

 男の手には俺が持っているより大ぶりな鍵、おそらくマスターキーだろうものが握られていた。

 しなやかで長い指がキーチェーンを揺らしている。

 まず色素の薄い髪が目についた。

 薄暗い部屋の中で灰色の髪が鈍く輝いているように見える。

 目の前に立っているのは整った容姿の男だった。

 見た感じで男なのはわかるがどこか中性的で手脚はすらりと長い。

 儚そうな見た目なのにその眼光は妙に理知的で鋭かった。

 観察するように俺を見る。


「ふうん……」


 顎に指を当てて。


「まあだいたい思った感じだ」


 どういうことなのか、そう言って唇を少し引き上げた。

 笑った?

 俺のパスケースを開く。

 そして中身と俺の顔を見比べた。

 定期入れには学生証が一緒に入れてあることを思い出す。

 その写真を見ているのだろう。


黒洲くろす、タクトくん。これって本名?」

「そうだけど……」


 俺は反射的に返事をしてしまった。


「珍しいね」


 パタンと定期入れを閉じると、男はこちらに足を踏み出した。

 一歩。

 二歩。

 ここに来て俺はやっと思い至った。

 何が目的かはわからないけど人の家の鍵を勝手に開けて不法侵入するようなやばいやつだ。

 逃げないと。

 次の瞬間首が締まった。

 フードを後ろに引っ張られたのだと気づく。

 男の片手は俺のフードを締め上げたまま、片手がガンとアパートのドアを打ちつけた。


「どこに行くの」


 足を蹴られると同時に俺は無様に床に転がった。

 後ろ手で男が鍵を閉める音が聞こえる。

 男は俺に馬乗りになった。

 そんなに重くはないがやはり男の体重だ。

 息が苦しい。

 ファスナーを開ける音がする。

 男は持っているポーチからなにか取り出した。

 なにかはわからないが、カチカチとプラスチックが当たるような音がした。

 俺の首に頭を乗せ、なぜか服の袖をめくった。


「このへん、かな。うーん固定が難しいんだよね一人だと」


 振り解こうとすると呑気な声が返ってきた。


「あー暴れないほうがいいよ。二度手間になるし変なところにささったら大変だ」


 聞き捨てならない言葉を聞いた気がした。

 ささる?なにが。

 床に手首を固定される。

 二の腕に痛みがはしった。

 針を突然さしこまれたような。

 首をもたげると目を疑った。

 腕に注射器が突き立っている。

 驚きで声が出ない。

 酸素の足りない魚のように口をパクパクさせていると男が背中から降りた。


「ハイ、終わり」


 終わりって、なにが。

 毒?

 毒を入れられたのか。

 命の終わり、死。

 俺は死ぬのか?


「なんだ今のは、なにをやったんだ」


 俺はやっとのことで男につかみかかる。

 指先が震える。

 これも薬のせいなのか。


「なにって」


 男はふわりと笑った。


「知りたい?」


 シュッとなにかが目の前に吹きかけられた。

 香水のような。だが、においはしない。

 一瞬でふらりと目眩めまいがした。

 机の上に置いていたグラスが落ちた音がする。

 机を支えにしようとしたが、手が滑る。


「ゆっくりおやすみ」


 ささやく声はいっそ穏やかで。


「答え合わせはまた後で」


 俺の意識は暗闇に落ちていった。

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