天使が空を飛んだ "The angel dived into the sky."
神楽健治
天使が空を飛んだ "The angel dived into the sky."
満天の星空が独り占めにできる場所。
校舎の屋上。
誰もいない。
星の輝きと漆黒のカーテン。
そして、静寂。
須藤綾音は寝っ転がって夜空を見上げていた。彼女にとって、夜の高校に忍び込むことはお手の物だった。演劇部に所属している彼女は舞台稽古という名目で特別に居残りを許可されることもあった。その時に、施錠がきちっとされない箇所がいくつかあることに気付いていた。都会とは違い、この街はきっと治安が良いのだろう。時間の流れも緩やかなような気もする。
彼女がこの高校に転校してきたのは高校二年生の二学期だった。ちょうど一年前だ。都会の名門高校から田舎の高校への転校。
事前に情報だけが出回ったのか、初めて登校し、クラス皆んなの前で自己紹介をさせられた時は様々な眼差しを感じた。
羨望、好奇心、邪推。
実際のところ、彼女はちょっとした有名人でもあった。
以前の高校で、部員を何とか搔き集め、演劇部を立ち上げ、その年に高校演劇全国大会の切符を手にしたのだった。
綾音がそもそも演劇部を立ち上げた発端は、高校に入学してすぐに知り合った相澤恭子と演劇や創作について意気投合したからである。
それほど積極的なタイプではなかったのに、この時ばかりはすぐに行動に移したのだった。きっと、それは相澤恭子という魅力的な友人の魔力のせいだったのかもしれない。
魔力。その言葉がぴったりだった。恭子が部員集めの為に、目ぼしい生徒に声を掛けると、すぐに勧誘に成功する。元々、演劇部がない高校である。当然、演劇に関心のある生徒など皆無に等しかった。それなのに、恭子の声掛けは不思議と上手くいったのである。
部員数は綾音と京子を含めて、八名になった。カメラ好きの佐藤君。作家志望の高山さん。工作が得意な岸本君。アイドルになりたい畑中さん。映画が大好きな川村君。
個性的なメンバーだった。演劇部の発足に興味を持ってくれたのだから、それだけで個性は強いと判断できるだろう。幸運にも、それぞれの個性がぶつかり合う事なく、上手く団結し、演劇部発足から二ヶ月で、すでに作品が出来上がった。ひとえに恭子の魅力、あるいは魔力なのではないか、と綾音は思っていた。
処女作は「マッチ売りの魔女」。題名からして、パロディ色が強そうに見えるかもしれないが、なかなかの完成度だった。マッチを擦るごとに、昔話の世界に飛ばされるという展開になる物語。そして、最後の一本をすると、誰もが知っているであろう「マッチ売りの少女」の話になって終わる。
全員演者で裏方でもある。発案は恭子で、それを上手く台本に落とし込んだのは高山さんだった。綾音と川村君で演出を練って、舞台装置は佐藤君と岸本君に任せた。畑中さんは魔女役に徹してもらう。魔女以外の役はモブキャラみたいなものなので、魔女の存在感が重要だった。
それぞれが全力を注ぎ込み完成させた作品を上演させる場所がまだ見つかっていない。高校演劇大会の予選は十月でまだまだ先であるが。その前に発表の場が欲しい。顧問になってくれた音楽教師である坂口先生に相談するが、自分たちで会場を借りるのは難しい、という結論に達した。当然だろう。活動資金もなければ、知名度もないのだから。アマチュア高校演劇部の初舞台に誰が手を差し伸べてくれるというのだろうか。
綾音と恭子は悩んだ。カメラ好きの佐藤君に、動画撮影をしてもらい、それを部員全員で鑑賞した。上手に編集すれば、面白いかもしれないが、それでは舞台劇の醍醐味が伝わらない。
恭子は異常に悔しがった。否、焦っていた。演劇部発足当初から、彼女は何かに取り憑かれたかのように必死だった。不自然なくらい。
綾音はその情熱が好きだった。だから、演劇部を立ち上げたのだし、取り敢えず、上演してみたいと思った。
そんな悩める演劇部員たちに幸運が舞い込んだのは六月下旬の期末試験の試験範囲が発表された日のことだった。
物静かな坂口先生が昼休みに綾音の教室に会いに来たのだった。
流れ星を見たことがない。
無数の星が今にも降り注ぎそうなのに。
綺麗。
ただそれだけ。
そして、まだ静寂の中に包まれる。
綾音は起き上がると、屋上の階段室を一度振り返る。誰にも見つかっていないはずだが、万が一ということはある。謝罪で済むのなら、それくらいの演技はできそうだ。あの日、坂口先生が公演場所を見つけてくれた。高校のある街から少し離れた街の市民会館で高校演劇部OBの有志の主催による演劇公演が行われるという話だった。坂口先生のコネで参加できることになって、綾音と恭子と部員たちの初舞台を迎えることとなった。
取り敢えず、期末試験で赤点は取らないこと。坂口先生は念を押した。
「私も、皆んなが演劇に夢中になって楽しんでいる姿は嬉しいの」
坂口先生は学生の頃、ピアニストを目指していた。プロの音楽世界は、努力だけではなく、才能が物を言う。
「簡単に言うとね、私は諦めたの。ピアノはもちろん好きだよ。でも、何度も何度も挑戦して、才能がないと嘆いて、でもまた練習して、それでもね」
諦めてしまったのだ。後悔をしているわけではない。青春を音楽に捧げて、完全燃焼した。だから、諦めることができた。
「あっ、長くなったわね。君たちは今から挑戦するんだ。それが凄く眩しく見える。その情熱を完全燃焼させてね。いつか諦めることになっても、それが後悔に変わらないようにね」
珍しく熱く語った後にもう一言付け加えた。
「期末試験の点数が悪いと、厄介な大人たちの邪魔が入るからね」
幸いにも演劇部員は成績優秀とはいかなくても、そこそこ上手くやるタイプが多かった。それぞれに苦手な科目があったが、それを助けたのが作家志望の高山さんだった。中間試験では学年トップの成績だったらしい。先生に質問するよりも彼女に質問したほうが早いと演劇部員全員がそう思った。そして綾音たちは無事に試験を乗り越え、演劇の練習に打ち込んでいった。
公演日は夏休みに入ってすぐの日曜日だ。来場客数は定かではないが、事前販売のチケットは取り敢えず百枚は売れているらしい。綾音たちの他にも五組の演劇部が参加するらしい。
果てしなく遠くにある星々の煌めき。
美しくて儚い。
それはきっと、その星々はもう存在していないから。
それはきっと、その星々の最期の輝きだから。
綾音は大きく深呼吸して、背伸びをした。懐かしい記憶の欠片が空から降り注いでくるみたいに、一年前の日々を想い出す。
「本当に楽しかったよね」
そんな声が聞こえてきて、はっと振り返った。
「えっ、恭子?」
綾音は驚いて少し大きな声を上げる。目をこすり、頬をつねるが、恭子は口に人差し指を当てながら微笑んでいた。
「誰か来ちゃうよ」
「そんな事はどうでもいい。えっ、なんで」
綾音は一歩前に出た。
「あまり時間がないから」
「どういう意味?だいたい、こんな所に来たら」
その言葉を遮って、恭子は言った。
「ねぇ、覚えてる?最初の舞台」
ゆっくりと綾音と距離を取って、屋上の隅へと移動した。
「危ないよ」
綾音は声を掛けた。
「緊張でガチガチだったけど、幕が上がったら、私たち、もう振り切るしかなかったよね」
恭子は振り返った。懐かしい彼女の笑顔がそこにある。でも、何故かしら寂しそうな気がする。
舞台の幕が上がった。
何度も練習をしたのだから、いつも通りにすれば良いだけ。それでも、目の前に予想以上の観客がいると、緊張して足が震える。
最初の出番は綾音だった。
舞台の真ん中で椅子に座って、本を読むシーン。「マッチ売りの少女」に続きがあったとしたら、と物語を紡いでいくのである。
そこからの記憶は曖昧である。もちろん、録画した映像を後から見直したりもしたが、舞台で演じたという実感はなかった。
ただ、その舞台の上で物語の中に入っていった。そんな感覚に近い。
自分の出番が終われば、綾音は舞台袖に引っ込み、暗転している間にセットを動かす。
ここからはアイドル志望の畑中さんの独壇場。自分からアイドルになりたいという意識の高さが、彼女の場合は全てにおいてプラスに働いている。話し方や仕草、立ち振る舞い。どれも自然で可愛い。否、そう見せている。可愛さは作られるという意味を初めて理解した気がした。
魔女の相手役として登場するのは、主に恭子と川村君だ。二人一緒の場合もあれば、別々の場合もある。それに、高山さんと佐藤君、岸本君もちょいちょい出演する。舞台裏は大忙しで、最初は緊張していた部員たちも、緊張する時間がないほどに動き回る。
舞台で、川村君が一人で熱演しているときに、袖では次の準備をする。新設の演劇部に余力などはない。総力戦だ。
五十五分の演目。練習しているときは、正直なところ、長過ぎるのではないか、と思っていた。でも、いざ舞台が始まると、瞬く間に時間が過ぎていく。
スポットライトが舞台の中央に集められる一番の見せ場。魔女役の畑中さんと王女役の恭子。
魔女が跪き、最後のマッチを擦ろうとする。王女がそこで声高に歌うように話す。安物のドレスのはずなのに、それを感じさせないくらい恭子の演技は凄かった。今でも、それは覚えている。演じるのよりも、創作のほうが好きだと彼女は言っていたが、綾音は彼女が主役の作品を作りたいし、見たいと思った。
「あぁ、もう魔法が解けてしまう。あぁ、午前零時の鐘よ、もう少しだけ」
恭子の透き通った声が観客席を包み込んだ。
「私には時間が無かったの」
恭子が囁くよう言う。
「えっ、どういう意味?なんで急にいなくなったの?」
綾音は少し大きな声で言った。
初舞台の評判は非常に良かった。坂口先生は涙を流すほど感動していた。恭子の提案で、夏休みの部活は自由参加にすることにした。そもそも、部員たちは、言い方は悪いが、寄せ集めなのである。綾音と恭子の情熱と同じだけの熱量を求めるのは酷だろう。それでも、初舞台でそれぞれに演劇の魔力に魅入られたようにも見受けられる。それ故の自由参加だ。
秋の高校演劇全国大会の地区予選には「マッチ売りの魔女」の演目にしようと考えていた。概ね良しだが、細かいことを調整して、作品の完成度を上げよう。夏休みはその為の時間に充てよう。部員たちにはそう伝えた。その一方で、綾音と恭子は毎日のように一緒に過ごし、演劇部の運営方針や新しい演目についての話など、青春ドラマのような熱血具合で語り合った。
純粋に楽しかった。綾音は今でもそう思う。二人なら、きっと上手くいく。根拠のない自信があった。
夏休みも終盤に差し掛かると、恭子が提案があると言った。自分の役を綾音にも演じてみて欲しい。彼女はそう言った。
どうしてだろう。そう思いながらも、綾音は言われるがままに練習した。恭子ほどの迫力はないけれど、自分の中では悪くない出来だと思う。
恭子は演技に関しては何も言わなかった。満足そうな笑顔を浮かべただけだった。絢音が執拗に演技の出来を尋ねても何も答えない。しかし、最後に彼女はこう返した。
「天使が空を飛んだ」
「えっ、何?」
そのやり取りが彼女と交わした最後の言葉だった。
星明かりだけでは、屋上の暗闇は拭えない。それなのに、恭子が立っている場所だけが妙に明るかった。
「ごめんね。何も言えなくて」
「謝らなくて良いから。私たち、全国大会に出たんだよ。最優秀作品賞、取ったんだよ」
「うん」
恭子は泣いていた。
夏休みが終わり九月になった。二学期が始まり、始業式を終えた。綾音は携帯電話をチェックしてたが、恭子から何の返信もなかった。
ここ三日、急に連絡が取れなくなったのだ。たまたま何処かに出掛けているのかもしれないと思ったが、学校を休むのは変だ。そう思いながら、先生の話を聞き流していた。今日は午前中で学校は終わりだ。今日の演劇部の活動は自由参加にしてある。恭子はどうしちゃったのだろう。不安が過るが、電話は未だに繋がらない。
部室に立ち寄る前に、ふと思い立って音楽室を訪れ、坂口先生にその話をしてみた。どうやら彼女は何かを知っているらしい。でも、はっきりとしたことは分からない。それが彼女の返答だった。
「えっ、学校を辞めたの?何故?」
綾音の頭の中で疑問符が踊った。
「それが詳しくは何も。私も、担任の先生も、誰も知らないみたい。急に引っ越すことになったらしいの。経済的な理由ってわけでも」
「お金持ちだったかどうかは分からないけれど、でも、そんなお金に困っている感じでも無かった」
綾音は言った。各々の家庭の経済事情は蓋を開けて見なければ分からないが、それでも、経済的に苦しい家庭の子とそうでない子の違いは明らかな場合が多い。
どんな理由にしろ、相澤恭子はそれ以降、学校に現れることはなかった。
彼女は突然いなくなったのだ。
「知ってるよ、一緒に、一緒に参加したかった」
恭子は泣いていた。演技ではない。
「でも、見に行ったんだよ。全国大会の舞台」
「えっ、嘘。なんで、声掛けてくれなかったの?そんな、もしかしたら、恭子が見にくるかもって、見に来てくれた学校の子たちにも言い回ったのに、どうして誰も気付かなかったの」
「こっそりね」
「どうだった?」
綾音はいろんな感情に押しつぶされながらも、シンプルに舞台の感想を尋ねてみたくなった。
「最高だった。私よりも、断然、上手」
「お世辞は嫌だな」
綾音は笑った。恭子を見ていると、もらい泣きしそうだ。堪えながら、必死に言葉を探す。
「大変だったんだよ、恭子がいなくなってから、部活をまとめるの」
恭子がいなくなり、部員たちは皆んな動揺したが、どうにもならないことに悩むほど青春という時間は長くない。
恭子の役は綾音が担当することになったが、人手不足は否めない。急遽、部員を募集をしたら、前回とは違い、すぐに人が集まった。取り敢えず、裏方に徹してもらうことになるけれど、という説明にも嫌な顔をしなかったので、綾音はお願いすることにした。坂口先生と国語の杉山先生にも助っ人として手伝ってもらうことになった。
恭子がいない喪失感は徐々に消え、綾音は作品に集中していった。
地区予選、本選と順調に進み、地方大会まで勝ち残った。学校でも徐々に、でも、確実に話題になり始めた。どうやら、新設の演劇部が凄いらしい。
綾音ら部員一同は、ただ必死に練習を繰り返し、修正し、また練習する。そして、地区大会でも最優秀作品賞を取り、全国大会への切符を取った。
あっという間だった。
余計なことを考える暇が本当になかった。
注目されればされるほど、部員たち全員、逃げ場が亡くなったのは事実。
それでも、誰も逃げ出さなかった。きっと、各々で不満はあったに違いない。綾音だって、上手くいかないことは多かった。
でも、その都度、恭子の言葉を思い出した。彼女の人間観察力は鋭かった。夏休みに、部員たちの個性について話した時の、彼女の解説は驚天明瞭だった。
その甲斐あって、演劇部は一致団結し、今年一番の舞台に進んだ。
一際、大きな輝きを放っている星がある。
今にも流れ落ちてしまいそうな。
今にも消えて無くなってしまいそうな。
そんな激しくて儚い輝き。
恭子が突然、言った。その表情にもう涙は無かった。
「最後シーンの芝居しようよ、ね?」
綾音は面食らったが頷いた。
ふと携帯電話を触ると、調子が悪くてなぜかしらフリーズしていて、正確な時間は分からないが、夜の校舎の屋上で芝居するのは意外と気持ちが良い。
「私が魔女役?できるかなぁ」
「綾音は王女役だよ」
恭子はすらすらと魔女役の台詞を発した。初めて見た。恭子が魔女役をしてるところ。完璧だ。そもそもこの脚本は魔女役が主役で台詞が多い。本当は彼女が演じたかったのかもしれない。
綾音もそれに合わせるように演じていく。
屋上に声が響いているが、もうどうでも良くなった。
星空が先ほどよりも明るく感じているのは気分の高揚のせいだろうか。
何度も演じた。
何度も繰り返した。
プロの役者ではない。
それでも、精一杯、演じる。
それだけだ。
あぁ、もう魔法が解けてしまう。
あぁ、午前零時の鐘よ。
もう少しだけ。
綾音が台詞を言い終えた瞬間、青白い光が一筋、夜空を駆け抜けた。
「綺麗」
無数の流れ星が瞬く間に通り過ぎ、消えていった。
「凄い、初めて見た、こんなの」
恭子のほうを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
屋上が急に暗くなった気がする。
一瞬、良からぬ想像をする。
先ほど恭子が立っていた屋上の端に駆け寄った。
少し身を乗り出し、屋上から下を覗き込む。
少しだけ明るい空間があった。
まるで蛍の光のような。
淡い緑色の光。
それが蝶々のように広がり、舞い上がっていく。
やがて、その光は消えてなくなった。
「天使が空を飛んだ」
綾音は思わずその言葉を発した。
静寂を破るように携帯電話の着信メロディが鳴った。慌ててスクリーンを確認すると母親からだった。
時刻は午前零時を少しだけ過ぎていた。
天使が空を飛んだ "The angel dived into the sky." 神楽健治 @kenji_van_kagura
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