おかえりニルヴァーナ
春鄙菊 - ハルヒナキク -
Before Page : Introduction
神様がどういうつもりかは知らないが、人間にとって悩みは尽きないようデザインされているらしい。
落ち目だった学業成績をやっとのことで向上させ、それなりの大学ならば充分射程圏内という位置にまでつけた。
イジリとイジメの境界線が曖昧な不良生徒Aの鼻っ柱を文字通りへし折り、ついでに右膝の皿を振り下ろした椅子の角で粉々にもした。
父親の不倫相手にきっちり実名の脅迫文も送りつけたし、家出を繰り返す妹にもとりあえずちゃんと向き合ってみた。不良生徒Aにまつわるゴタゴタが内申書にどう響くかは分からないが、それでもまあまあ上々ではなかろうか。
とにかくどう転んだにせよ、不登校をかましていた半年前からすれば、我ながらとんでもない躍進だよな――と、
それでも、うず高く山積した周囲の問題を片付けた先にあったのは、新たなる悩みの
嘆息と共に暮れゆく空を仰いだ奏は、降って湧いた不意の気付きに目を丸くした。思い返せば自分が躍進を遂げられた理由も、元はと言えば原因不明のあることに端を発しているのだった。
「いったいなんの因果だか」
救われた手で傷つけられる――そんな不条理があっていいものかと奏は奥歯を噛み締めたが、世の中なんて、もともとそんなことの繰り返しであったような気もした。
よく分からないものたちが奏の視界を埋めるようになったのは3ヶ月前。初めは薄々とした影が目の端にちらつくだけであり、引きこもり中のゲーム依存が原因で視力に異常を来したのかと不安にもなったが、結果、事態はそれよりも遥かに深刻だった。
日の出と共に街が色付き始めるのと同様、灰色の影は次第にその陰影を濃くし、そこに内包された異形の片鱗は徐々に露わになっていった。大小様々な影はその形状も千差万別であり、しかしそのどれもが人や動物とは似ても似つかぬ姿をしている。
奏はそれを『妖怪』と呼ぶことに決めたが、彼でなくともそれはまさしく、
数日間、固く閉ざした自室の窓から『妖怪』たちがはびこっていく様を眺めていた奏だったが、ほんの気まぐれと当時の自暴自棄からなんとなく、窓を開け放ってみることに決めた。自身の両目に映る『妖怪』たちが、実際に触れられる存在なのかが妙に気になったからだ。
幸い妖怪たちは全くの人畜無害らしく、眼下を往来する人間に危害を加えている様子は見られない。危険がないなら触れてみたい。触れることさえできれば、自分の精神に異常がないことの証明にもなる。窓を開けることがそれによって得られる安心感の代償であるならば安いものだと、その時の奏は事態を軽く捉えていた。
一思いに窓を開ける。舞い上がるレースカーテンと吹き込む冷気に乗せられて、それまで空をゆるゆると泳いでいた回遊魚のような『妖怪』が自室に迷い込んできた。優雅に揺れる七色の尾ひれにそっと触れようと試みるが、指先は虚しく空を掻き、なんの感触も得ることはできなかった。
やはり幻覚――。諦念を抱くとほぼ同時、奏は
これら異形の数々と比べれば、これまで自分を苦しめてきた様々のなんと小さきことだろうか。人の中で生きる為、人に悩んで人を避け、酷く下らない由なしごとに心を砕き多くの時間を費やしてきた。そんな自分が恨めしく、そんな自分がなによりも滑稽で、奏は込み上げてくる嘲笑にしばしその身を任せた。
病か奇跡か罰か酔狂か、突如
もとより自分独りの世界なのだ。好き勝手にすれば良い。初めから、そうすれば良かったのだ。
その翌日、奏は久方ぶりに登校し、生まれて初めて人間の膝を砕いた――。
「我ながらかなり生き急いでみたつもりだけど、悩みの一切を振り払うことはついぞ叶わず……っていう感じだなぁ」
去る半年を回顧しながら、奏は脱衣所の鏡と向き合っている。そこに映る見飽きた顔は憂いを
前置きをすれば、自ら髪を染めたことなど1度もない。にも関わらず今現在、奏の前髪は鮮やかな桃色に染め上げられていた。毛先から3センチ程、しかも前髪だけが、けばけばしい色に浸食されている。
昨夜はたしか2センチくらいであった。ゆえにこの染色現象は、1日1センチ間隔で地毛の黒を蝕んでいることになる。初めのうちは染粉で黒く染め直したり、染色部分を鋏でカットしてみたりと試行錯誤していた奏だったが、万策試してみた結論、この染色は止められない。いかなる策を講じようとも、次の日には毛先1センチが薄桃に色付いている。もはや詰みだ。
この染色現象と、『妖怪』が視えるようになったこととの間に、因果関係がないはずがない。ともすればこれはノロイかマジナイの類なのではなかろうか。
思いついた奏自身も、初めは馬鹿らしい発想だと思っていた。しかし、そう考えることで2つの謎は符合し、妙に辻褄があうことに気付いた。
『妖怪』が視えるようになったのは、自分が黄泉の国へ近付いているサインであり、前髪の染色が頭髪全域を蝕み尽くした時、自分は命を落とすのではなかろうか――そんな妄想が、今となっては確信に変わりつつある。
仮にこれらが、何者かによるノロイなのだとしたら、それを解く方法も必ずあるはずだ。誰かから見れば狂った考えかもしれないが、余命の使い方としては、指をくわえてただ死ぬのを待つよりも、解決方法を探す方がずっと建設的だ。
なによりここは自分の世界だ。誰かの視点などただの生ゴミでしかない。
自身に降りかかった災いを
世界は非情であるということ。
命は平等に軽いということ。
そして英雄は――うず高く積まれた無数の
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