魔性の鏡と天の星
春奈恵
魔性の鏡と天の星
光も届かぬ地下に、その鏡はあった。
その部屋にたどり着くには、長い長い階段を下らなくてはならない。
闇の中、片手に燭台を、もう片手に金槌を持った女は、そうして今宵もその鏡の前に立った。
鏡は重厚な装飾のついた額に入った楕円形。年月を経たように鏡面は曇ってきちんとした像を映し出すこともできない。
金色の豊かな髪をしたその女は、豊満な胸元を強調するように、豪奢な宝石をあしらった首飾りをつけ、赤紫色の派手なドレスを纏っている。
そして、妖艶で華やかな美貌をその鏡に向ける。
色香を含んだ猫なで声で、何一つ映っていない鏡に呼びかけた。
「
壁に掛けられた鏡からは何の答えもない。
「もーちーろん、私よね?」
女は小さな金槌を挑戦的に鏡面に突きつける。
すると、鏡面の斜め下方から、金色の髪に覆われた小さな頭が、おずおずと現れた。
人で言えば十五、六歳くらいの青白い肌をしたその子供は、大きく艶やかな翡翠の瞳を相手に向けることもできないようで、おどおどと目線をそらした。
見た目で人と違うのは、奇妙な形の耳が頭の両側にくっついていることくらいだろうか。まるで蝶の薄羽のような青いひらひらとした大きな耳。身体はがりがりにやせこけていて、お世辞にも愛らしいとは言いかねる相貌だった。
「……す、すんませんです。王妃様。えらい遅うなって。朝から胃の調子が……」
「いいから、さっさと答えなさい。こっちは虫の居所が最悪なの。さもないと……」
女は凄絶な殺気を滲ませて、にっこりと笑いながら金槌を振り上げる。
「勘弁して下さい。今日も、王妃様が一番お美しくいらっしゃいますです」
怯えた声を上げて後ずさりするが、彼の居場所はその鏡の中しかないのだ。
それなのに逃げ惑う姿は滑稽に映ったのだろう。女は鏡の答えを、ふん、と一息で嘲笑すると、金槌を軽くちらつかせながら、鏡面に向かって語りかけた。
「素直にさっさとそう言えばいいのよ。全く。……そういえばね、私、最近礼拝堂に飾ってある硝子装飾が気に入っているのよ。何て言ったかしら、あれ。あのバラバラにした色硝子の細かい破片で模様を作るとかいう……。たしか鏡も硝子だったわよね? 砕けば材料くらいにはなるかしら」
女はにやりと笑う。
「いっぺん、粉々になってみる? ……あら? 気絶しちゃったの? だらしのない使い魔だこと」
鏡の中の頭が全く動かなくなっているのを見て、女は高笑いしながら去っていった。
カスターニャの王は亡くなった王妃に代わり、四年前に新たな王妃を迎えた。隣国ピトーネ王家の血を引く侯爵家令嬢であり、美貌で名高い新たな王妃は、たちまち国王を虜にした。
けれど、その王妃が呪いに長けた魔女だったのだ。それに気付いたときには、主立った重臣たちは彼女の呪いによって骨抜きにされていた。
もうどのくらい太陽を見てないんだろう。
……多分お先もまっくらなんやろけど。
たまに明るくなったと思ったら王妃の訪れだったりする。底意地の悪い質問や彼にとっては口に出したくもないおぞましいことを尋ねられる。
彼は自分の知ることを嘘偽りなく答えなくてはならない呪いを掛けられていた。
王妃は自分が周りを幾ら騙していても、手下の裏切りを許さないつもりなのだろう。
そして困ったことに、彼は周囲の会話を余すところなく聞き取る力を持つ「耳」の一族の出身だった。
こうして地下深くにいながら、彼は膨大な情報を感じ取り、吸収する。
彼が望むと望まないとに関わらず彼の中には今も情報が蓄積されている。
彼の頭の中には書庫があるようなもので、相手に問われれば、それらの中から必要なものを引き出すことができる。……たとえどんな恐ろしいことであっても。
そして、その情報があの野心家な王妃に渡って何に使われるのかは、彼にだって予想がつく。
人を思い通りに操る薬の調合やら、一番腕利きの殺し屋とか、そんな恐ろしいことをすべて知ることが出来る自分が、王妃の側にいてはいけないのはわかっている。
自分のせいで、たくさんの人が辛い思いをしている。
けれど、それが分かっていても、呪いをかけられた身で王妃に逆らうことは、精神的にも肉体的にも負荷がかかる行為だった。
そして、鏡の中に閉じこめられていては、逃げることも出来ない。
たった四年で彼はすっかり弱ってしまっていた。本来なら時のない鏡の中にいる自分は不老不死のはずなのに。
「このままやと、胃潰瘍かなんかになりそうや」
彼はぽつりと呟いた。今のこの身体に胃があるのかどうかは、言っている彼自身もよく分かっていない。
そんなとき、何かの物音が耳に入ってきた。
ネズミよりも大きな気配。そして、控えめな靴音。
王妃が戻ってきたのだろうか。胃の辺りにきゅっと痛みを感じながら、彼はこっそりと周囲を窺った。
燭台の明かりを片手に、誰かが鏡のある部屋に入ってきた。何かを探しているかのように、掛布を持ち上げたり、覗き込んでいる。
……人間は怖い。関わったらあかん。
彼は口の中でそう呟いて身を屈めた。そうすれば鏡の外からは何も見えないはずだ。王妃以外の人間と関わったことが知れたら、王妃はその相手に危害を及ぼすかもしれない。
「……あー。もうっ」
不意に呟きが聞こえてきた。不思議なことに、口調は落ち着いていて、こんな暗い場所で怯えている様子はない。
「……もしかして、これって新米イジメ? これだから女ばっかりの職場って嫌なんだよね……」
スペッキオはこっそりと声の主を窺った。
王妃と背丈はさほど変わらない、どうやら言葉遣いや身なりからして、あまり身分の高い相手ではなさそうだった。
質素なお仕着せの衣服とエプロン、黒髪を結って纏めた後ろ姿からすると、さほど屈強そうにも見えない。
ぶつぶつ呟きながら、その人物はあちこちを見回している。
スペッキオはどうやら乱暴そうな相手ではない、と安心した。
新米……新しい王妃付きの侍女だろうか。
「……青い小花模様の茶器なんか、どこにもないじゃない……」
どうやら捜し物のためにここまで来てしまったらしい。
とはいえ、こんな所に入り込んでいるのが王妃に知れたら、どれほどの目に遭わされるかと思うと、段々心配になってきた。
王妃は自分に逆らう相手には容赦がないのだ。
侍女はそれでも、捜し物を見つけるまで手ぶらで帰るわけには行かない、という様子だった。よほどきつく見つけてくるように命じられたのだろう。
「あのう……はようお帰りにならはったほうが……」
スペッキオは思わず声をかけてしまった。
本当は王妃以外の前に出ることを禁じられていたのだけれど、そんな場合ではない。
相手はびくりと足を止めた。誰かがいるとは思いもしなかったんだろう。
「……もしかして、ここって何か出るの?」
出るって……せいぜいここにいる生き物はネズミか蜘蛛などの虫くらいだ。
「……ここは王妃様の大事なものを置いてあるんです。入ったことが知れたら、お怒りを買います。どうか、お帰りになってください」
鏡の目の前に来ていた侍女はゆっくりと振り返った。
自分の姿を見られてしまう、という危機感が、その瞬間彼の頭から吹き飛んでしまった。
侍女は信じられないものを見る眼差しで、青玉のような瞳を見開いていた。
雪のような白い肌と整った鼻筋。ふっくらとした唇。
闇の中で浮かび上がるような美貌を目の当たりにして、彼は凍り付いたように動けなかった。
……なんて綺麗な娘さんやろ……。
「……鏡の中に……? 幽霊?」
怯えさせてしまっただろうか。
「あの……僕はその……怪しいもんやなくて……」
鏡の中にいること自体十分怪しいのだが、慌てて言い訳をしてしまう。
けれど、その侍女は好奇心いっぱいの表情で駆け寄ってきた。鏡を持ち上げて、裏側にからくりがないことを確かめると、スペッキオに問いかけてきた。
「うそ。ねえ。これどういう仕掛けになっているの? なんで鏡の中の絵が動くの? っていうより、こっちが映らないのってすでに鏡じゃないよね? からくり仕掛け? こんなの見たことない」
……ずいぶん胆の座ったお人らしい。
ふつう、人間のしかも若い娘というのは、人外のものを見たら怖れて逃げるものだろうに。
けれど、伝えたいことは言わなくてはと、懸命に相手に話しかけた。
「……せやから、ここは王妃様以外が入ったらあかんのです。はよう出てください」
相手はやっとその言葉から、彼が心配していることに気づいてくれたらしい。
「王妃様ならさっき、公爵家の夜会にお出かけよ。だから、大丈夫。心配してくれていたのね?」
言われてみれば、先刻、鏡の前に現れた王妃は派手なドレスを着ていた。
どうやら、夜会に出かける前に立ち寄ったらしい。それなら今夜はもう現れることはないだろう。
頭の中の情報と照らし合わせてから、スペッキオはほっと息をついた。
「もしかして、王妃様がお嫁入りの時に持ってきた魔法の鏡って、あなたのこと?」
「魔法の鏡? いいえ。僕はただの使い魔で……そんなたいそうなものじゃ……」
自分のことがそんな風に語られていることは知っていた。王妃に入れ知恵をする何もかもを見透かす強大な力を持つ魔法の鏡。
だから人々は王妃のうわさ話一つにしても、神経を使っているらしいことも。
「何にもできへん、ただの役立たずです……」
そう言うと、相手はにっこりと笑った。
「そんなことないじゃない。ここに入ったらしかられることを教えてくれた。親切な鏡さん。もののついでで教えてくれない? 青い花のついたティセットがどこにあるのか。なんでも、明日のお茶会はアレじゃないといけないらしいのに、誰も見つけられないのよ。それで新米が探してこいって押しつけられちゃって……」
「……それなら陶器を保管してある物置の、一番奥の戸棚にあるはずです」
たしか、王妃様が祖国から持ってきた大事なものだからと先代の厨房係がしまい込んだ。そのあと、厨房係の者たちは王妃の機嫌を損ねて、ほとんど入れ替わってしまっている。
見つからないのはそのせいらしい。
「……そこはまだ見てないわ。ありがとう、探してみるね」
侍女は鏡の表面を軽く撫でる仕草をした。
まるで頭を撫でられたような気分になって、スペッキオは頬が熱くなった。
「わたしは王妃様付きの侍女で、ステラ。今度は改めてお礼に来るわ。そうね、磨き粉を持ってきて磨いてあげる。掃除は得意なの」
「だめです。もうここには……」
来ないで欲しい。そう言いかけた彼に、ステラは人差し指を突きつけた。
「大丈夫。言ったでしょ? 王妃様付きだって。だから、王妃様がここに来られない時を狙って来るから。約束するわ」
ステラは手を振ると、またね、と言って去っていった。
燭台の明かりが部屋を出てしまうまで、スペッキオは黙って見送った。
たしかに。身の回りの世話をしているからには、王妃の動向を一番よく知っているのは侍女だろう。会話を聞き取ることでしか情報を知り得ない自分とは違う。
主の怒りを怖れない相手に、スペッキオは感動した。
なんて美しい人だろう。あんなに姿も心も美しい人を見たことがない。
……見た?
そこまで思い至ってから、スペッキオは自分の間違いに気づいて愕然とした。
「世界で一番美しい女は誰?」
彼は『耳』の一族。彼の知識はほとんど耳から入ったものだけなのだ。
……彼は今まで、人間を大勢見たことがなかった。まして女性の姿など、ほとんど見ていない。世界一ではなく、自分の見たことがある女性の中でしか答えることが出来ないはずだ。
「また王妃様にいじめられたの?」
「ステラ……」
小さな燭台を手に近づいてくる黒髪の小柄な人物を見つけて、スペッキオは慌てて鏡の中から手を振り回す。
「もう、来たらあかん。もし王妃様に見つかったら……」
先刻もたった今までここに王妃が来ていたのだ。もし、気まぐれでまた現れたら。
ステラは肩を竦めた。
「大丈夫よ。さっき仕立屋が来ていたから、王妃様はドレスの採寸やら生地選びで当分お部屋からお出にならないわ」
ステラはお仕着せの簡素な服を着て、片手に燭台もう一方に小瓶や古布の入った籠を抱えてきていた。燭台に照らされた表情は明るく、生気に満ちあふれている。
地下室に迷い込んできたあと、彼女は時折王妃の留守を狙ってここへ降りてきた。
スペッキオはもし、これが王妃に知られたらと気が気ではなかったが、彼女は全く動じる様子はない。
「……どうしたの? 今日は何聞かれたの?」
「世界で一番美しい女。最近、あればっかりや……」
問われる原因は分かっている。人々がこぞって美しいと褒めそやす女性が、この国には一人いる。
前王妃の忘れ形見の姫、ビアンカネーヴェ姫。今年十五になるはずだ。
今の王妃の輿入れと同時に、前王妃の実家であるアギラーニ伯爵家に下がって、人前には一切出てこないが、人々は彼女が前王妃譲りの美しい女性になっているにちがいないと噂している。
王妃の横暴が目立つにつれて、彼女のことが人々の噂に出ない日はない。王妃に言いなりの現国王よりも、彼女を新国王に迎えた方がいいのではないか、などと。
王妃はそれに苛立って、憂さ晴らしに鏡に問いかけにくるのだろう。
「今日もちゃんと答えられんかったから、えらい剣幕でしかられてしもうて……」
疲れ果てたようなスペッキオの言葉に、ステラは苦笑いする。鮮やかな青玉の瞳を細めながら。
「あらあら」
言いながら、籠から取りだした布で、スペッキオの鏡を磨いてくれる。
「世界一美しいなんて、女の夢よね。でも、お世辞でも適当に答えることはできなかったの?」
「僕は、口を開いたら、嘘もおべんちゃらも言えん。ここに閉じこめられたときに、そういう呪いがかかっとる」
彼はもともと西の果ての森で暢気に暮らしていた温厚な魔物の一族の一人だった。
人間が訪ねてくる事など滅多にない辺境だった。
彼にとって生涯最初で最大の不幸は、初めて出会った人間があの王妃だったことだろう。もっともその当時は、彼女もまだ王族の末席の姫でしかなかった。
特殊な力を見込まれて、その場で捕らえられ、一族から引き離されてしまった。
「……呪い? つまり嘘をつけないの?」
「もともと、僕らの一族はあんまり嘘が上手やないし……」
彼をこの鏡に封じ込めて、尋ねられたことに本当のことしか答えられない呪いをかけておきながら、王妃は、回答が気に入らないと怒鳴り散らした。
彼にとっては王妃は暴力で支配する主であり、鏡から出られない自分は檻の中の鳥にのようなものだ。鳥ならばいずれ寿命が来れば死ねるけれど、鏡に封じられた自分にはそれはできない。
「けど、今まで『王妃様です』って、即答してたの? それって変じゃない? 確かに王妃様はお綺麗だけど、世界一だとは断言できないわ」
ステラはあっさりと手厳しい事を言う。
「美しいって基準は人によって全部違うんじゃないかしら? 木漏れ日が綺麗だと言う人もいれば、野生の狼の瞳が綺麗だと言う人もいるわ。だから、世界一美しい人は、見る人の数だけいるんじゃないかしら?」
そう言われて、スペッキオはうつむいた。
「……本当は、世界で一番かどうかなんて、耳でしか世界を知らへん僕に答えられるわけがない。間違っていると自分で気づいてしもうたから、もうあの質問に答えられへん……」
以来、その真実を口にするの怖さに、王妃の質問に答えられなくなった。
自分が見たことのある女性の中で、などと言えば大変なことになる。
あの人ならこの国中の娘を殺して回りかねない。
「……けど、今更『他の女の人を見てまへんから、王妃様が一番美しいです』なんて言うたら、絶対ステンドグラスにされてしまうやろ」
「ステンドグラス……そんなこと言われたの?」
スペッキオが頷くと、ステラは形のいい眉を寄せた。
「人間で言えば、切り刻んでスープの具材にしてやるって感じ? ずいぶん酷い言われようだわ。まあ、この国であのお方に酷い目に遭わされていない人を捜すほうが大変かも知れないけど」
そう言ったステラの口調から、彼女もまた身近にそうした人がいるのかも知れない、とスペッキオは思った。
「……そうやね……その通りや……」
今や呪いでこの国を牛耳っている王妃は、我が物顔に振る舞っている。
自分を飾るために国費を浪費し、税をつり上げ、人々が困っているという。
反王妃派の者たちは王妃に骨抜きにされた王を見限って、ビアンカネーヴェ姫を担ぎ上げようという動きも見せている。最悪、叛乱が起きる可能性もある。
姫は監視され、軟禁に近い状態で伯爵邸に押し込められているという。人前に出ることも許されない。
それでも目障りな存在になれば、いずれ王妃は彼女を殺そうとするかもしれない。
……そんな酷いこと、させられへん。
地下室から出られない彼ができることは、口を噤んでその姫君の名を口走らないことだけだった。
「あなたが責任感じることはないのよ」
ステラがそう言ってくれても、鏡の精の心は曇ったままだった。
「けど。もし、僕の言葉のせいで王妃様が増長して、酷いことしとったんなら、僕のせいや。なのに、僕は王妃様が怖うて、狼狽えとるばっかりで……」
「あら、お世辞で増長するのは相手の勝手よ。あなたが気にすることないわ。それに王妃様に怯えているのはあなただけではないのよ」
すっかり鏡面を磨き終えて、ステラはにこりと微笑んだ。
「いいじゃないの。男前三割増しよ。できるなら何か食べるもの持ってきてあげたいけど、鏡の中じゃ食べられないわよね?」
鏡の中にいる限り、飲まず食わずでも死ぬことはない。やせ細っているのはひとえに環境のせいだ。
「ステラ……いつも、おおきに……」
優しい人間もいるのだと、彼は初めて知ったのだ。
「気にしないで、わたしはあなたのこと嫌いじゃない。もっと自信をお持ちなさいな」
ステラの言葉に、彼は胸の奥が温かくなる気がした。
自信……そんなものを手にすることができるだろうか。
「王妃様が嫁いできて四年、ずっと続いている使用人や官吏はいないのよ。貴族の取り巻きにしても、入れ替わりが激しいそうよ。王妃様は気まぐれで誰も信用なさっていらっしゃらないから。なのに、あなたはずっと王妃様の側にいて放り出されもせずにいるじゃない? それはすごいことなのよ」
「すごい……? そうやろか?」
そんなこと考えもしなかった。
確かに王妃は誰も信用していない。だからこそ、恐怖と呪いで人を支配する。
彼自身も呪いで縛られているからこそ、王妃は傍に置いているのだと思っていた。
「できることなら、あなたが自由になれるといいのだけど」
「自由?」
自由というのは何だろう、とスペッキオは思う。
仲間と住んでいた森に戻ることだろうか?
ステラは戸惑っている鏡に微笑みかける。
「何だか、他人事には思えないのよね」
意味深にそう言って、くるりと身を翻す。新入りの侍女だというが、その身のこなしは鮮やかで隙がない。おそらく育ちもいいのだろう。
「また来るわ。じゃあね」
ステラは手を振ると、燭台を手に取った。そろそろ仕事に戻らなくてはならないのだろう。
磨かれた鏡面のおかげか、少し心の曇りが取れた気がして、スペッキオはやっと笑みを浮かべることができた。
数日後の夜。王妃はかすかに酒の匂いを漂わせて、不機嫌も顕わに地下室に現れた。
今日はお城で盛大な舞踏会が行われていたはずだった。どうやらその舞踏会で何かがあったらしい。豪奢なドレス姿だったが、足取りは荒々しい。
「出てきなさい、スペッキオ。真実のみを告げる者」
スペッキオは恐る恐る顔を出した。
燭台を片手に立っている王妃は、醜悪な感情も顕わにこちらを睨んでいる。
「ビアンカネーヴェと私、どちらが美しいの?」
スペッキオは答えに窮した。
闇に目をふさがれた彼は、ビアンカネーヴェ姫の顔など知らない。だけど、ここでそんなことを言えば、今まで王妃を美しいと即答していた理由もばれてしまう。
けれど、彼は一度口を開けば嘘をつくことができない。だから、黙るしかなかった。
彼が困惑して黙り込むと、王妃は盛大に舌打ちした。
「どいつもこいつも、ビアンカネーヴェの事ばかり褒め称えて気に入らないったら。近隣国の大使も、ぜひ姫君とお会いしたい、などと」
どうやら、舞踏会で姫のことが話題になったことが気に入らないらしい。うろうろと歩きながら盛大にぼやいている。酒が入っているせいか、不満を一気にぶちまけるように。
もし、心の美しさが目に見えるならば、おそらくこの人よりも姫君の方が美しいだろう。
姫君はとても心根の優しい人物であるらしい。
姫に向けられているのは、手放しの賛辞と、王妃に疎まれていることへの同情。亡くなった前王妃に似て、とても気品に溢れた聡明な姫君だという。
「どうしてくれようかしら。うかつに大国に嫁がせれば、この国を攻めてくるに違いないし、国内に嫁がせても、目障りに違いないわ。とはいえ、修道院に閉じこめれば、私が疎んじているのが知れてしまう。……ならば、今のうちに殺してしまうのが一番いいかもしれないわ。……スペッキオ。この国で行方知れずになっても不思議ではない場所はないかしら?」
思わず、そんな酷いことは止めてくれ、と言おうと口を開いた彼は、全く別の言葉を口走っていた。
「……北の森がええと思います。数年前に貴族のご令嬢一行が狼の群れに襲われて殺されたことがありましたから」
王妃はにやりとした。スペッキオは自分の口を慌てて塞いだ。
……あかん。口を開けば嘘をつくことができん。
「いいことを聞いたわ。あの目障りな小娘には不慮の事故に遭ってもらおうかしら」
彼は高笑いしながら去っていく王妃に何も言えなかった。
僕は、世界一の卑怯もんかもしれへん。
自分は、王妃のやっていることが恐ろしいことだと知っていて、止めることもできず、その企みに必要な知識を与えてしまっている。
もし、ほんの少しでも鏡の外へ連絡を取ることが出来れば、ビアンカネーヴェ姫に逃げろと言えるのに。
鏡から出ることのできない身が、とても脆弱で無力で、彼は耐えられなかった。
誰か、この身をたたき割って粉々にしてくれんやろか。
どれほど時間が経ったのか、目の前にほんのりと灯りが見えて、スペッキオは顔を上げた。
「……どうしたの? また鏡が曇ってしまっているわ」
明るく微笑んでくれたけれど、彼はその顔を正視できなかった。
「ステラ……もう、ええんや。僕はもう、そんなにしてもらう資格あらへん」
「どうしたのよ。何があったの?」
ステラが心配げに問いかけた。
「別に何も……。それよりもう、夜遅いのに……」
ずっと地下にいるスペッキオには時間の感覚はないが、今は舞踏会が終わったばかりの深夜のはずだ。
「さっき王妃様がお戻りになって、妙に上機嫌だったから嫌な予感がしたのよ。もしかして、あなたに何かしたんじゃないかって……」
心配してくれていたんだろうか。
しかたなく、彼は王妃とのやりとりを打ち明けた。
さすがに王妃が姫君を暗殺する気になったというのは、一介の侍女に過ぎないステラには手に余る話だろう。けれど、彼女は最後まで辛抱強く聞いてくれて、頷いた。
「……そう。それは大変な話だわ」
「どうしたらええんやろ。姫に、何があっても森に行かんように、伝える方法がないやろか……」
ステラは真剣な表情で考え込んでいた。
「姫君の後見をなさっている伯爵家になら伝手があるわ。聞いてもらえるかどうか分からないけど明日にでも暇をいただいて、お話してみるわね。それでいい?」
「……けど、ステラは大丈夫?……」
ステラまで危険な目に遭わせる訳には行かない。けれど、外に出られない彼にはステラしか頼る相手はいない。
まだ会ったこともないビアンカネーヴェ姫。それでも殺されていいはずがない。
「わたしは大丈夫よ。きっと上手くやってみせるから。心配は要らないわ」
ステラは微笑んで、地下室を出て行った。
けれど、それから彼女の訪れはぱったりと無くなってしまった。
誰かが泣いている、と思った。
スペッキオは耳を澄ませて周囲を窺った。光こそないが、彼はどれほど遠い言葉でも聞き取ることができる。
そして、知った。ビアンカネーヴェ姫が亡くなったと。
「間に合わんかった……」
それどころか、あれから十日近くは経っているはずなのに、ステラはこの部屋に来ていない。ステラはどこに行ったのだろう。
スペッキオは懸命にステラの気配を探ったけれど、ステラが事情で王宮を辞した、という侍女達の言葉しか聞き取れなかった。
辞めた? それとも、辞めさせられたんやろか。
必死に頭の中の情報をたぐっても、ステラという侍女の存在はあの夜から全くたどれなくなっていた。どこへ行ってしまったのか。
それとも、暗殺計画を知っていることが知られて、殺されてしまったのだろうか。
もしかしたら、ステラを危険なことに巻き込んだかも知れない、と思ってスペッキオはすっかり落ち込んでしまっていた。
「何てことをしてしもうたんや……ステラはただの侍女なのに。政の陰謀なんかに巻き込んで……」
自分のせいだ。
自分の存在が王妃を狂わせ、ステラまで危険にさらしてしまった。
ビアンカネーヴェも、自分がいなければ殺されなかったかも知れない。
光一つ届かない地下の闇の中で、彼は絶望に身を震わせた。
王妃が久しぶりに地下室を訪れたのは、そんな頃だった。
「スペッキオ。真実のみを告げる者。世界で一番美しい女は誰?」
彼はうつろなまなざしを王妃に向けた。そして、すらすらと答えた。
「王妃様にございます。あなた様の比類なき美貌は並ぶ者などございませぬ」
王妃は拍子抜けしたような顔をした。
スペッキオは内心軽い驚きに襲われていた。
自分はどこか壊れてしまっているのだろうか。明らかに嘘だと分かっていることを、平気で口にしてしまっている。
「……今日は素直なのね。あんまり最近聞き分けがないから、これを見せてやろうと持ってきたのよ。あの娘のようにこうなりたくはないでしょう?」
王妃は手にしていたものを、彼の前に差しだした。
赤黒い染みがついた女物の衣服の切れ端。引きちぎられたように裂けたレースと明るい紺色の生地。そして瓶に詰められた内臓のようなもの。
「ビアンカネーヴェは森で死んだわ。これで私の邪魔をするものはいなくなった」
王妃の高笑いを聞きながら、スペッキオはその布きれから目をそらせなかった。
一体何があったんや……。
無意識に答えを求めたスペッキオの、膨大な知識の中から真実が編み出されていく。
王妃は、考えにふけっている彼を、怯えて口がきけないと思ったらしい。得意げにその切れ端をちらつかせる。
「お利口にしていれば、このまま生かしてあげるわよ。どう?」
生かしてもらっている?
スペッキオはその言葉に初めて王妃の顔をまっすぐに見据えた。
「鏡の中に入れられてこのかた、……生きてるなんて思うたことはありません……」
その言葉に、王妃が眉を寄せた。
「なんですって? 本気で言ってるの?」
自分は嘘をつくことができないのだ。それが分かっているのに、その真意を疑うのか。
……本当に誰も信じられんお人なんや……。
スペッキオは胸の痛みに顔を歪めた。
彼自身は、自分が口にしたことの重さに、ずっと苦しんできたのに。
もう、限界だと思った。真実の重みを何とも思わぬ者にこれ以上仕えることはできない。
「……王妃様。……ビアンカネーヴェ姫は生きてはります」
王妃が使った殺し屋は伯爵家に買収されて、王妃を裏切った。
その布きれについたしみは、獣の血を振りかけたもの。瓶の中身も、獣の内臓だ。
ビアンカネーヴェは彼女を支持する貴族たちとともに王位継承権を主張して、王宮に向かってきている。
王妃が術をかけて国王を意のままに操っていたことが知れるのも、時間の問題だろう。
もう、王妃の悪行もおしまいだ。
「……生きて、こちらに向かっておいでです」
「なんですって? そんなことあるはずがないでしょう? そんなでたらめで私を惑わそうなんて……」
王妃は明らかに動揺していた。鏡が嘘をつけないように呪いをかけたのは彼女自身だ。
「僕は嘘は言えまへん。そういう術をかけたのは、王妃様ですやろ?」
きっとビアンカネーヴェ姫とその周辺は、王妃が実力行使でくるのを待ちかまえていたのだろう。だからこそ、王妃の計画を逆手にとって、それを動かぬ証拠として、行動を起こしたのだ。
「どうすればいいの。応えなさい。あなたにならわかるんでしょう?」
スペッキオは一瞬の戸惑いのあと、ゆっくりと首を横に振った。
「……もう、どうにもできまへん」
彼の『耳』にはもう、地下室へ向かってくる足音が聞こえていた。
……彼らは王妃の暗殺計画に荷担した者の存在を許しはしないだろう。
「ですから、僕も王妃様と一緒に罰を受けます」
鏡の言葉に、王妃は意外そうに眉根を寄せた。
その瞬間、地下室の中に光が溢れた。
「王后陛下。失礼ながら、御身を拘束させていただく」
しっかりとした男の声が、室内に響いた。
大勢の兵士たちが駆け込んできて、王妃を取り囲む。片手にたいまつを持っているので、急に室内は明るく、温かくなった。
兵士達の中から落ち着いた物腰の男が歩み出る。がっしりとした身体に鎖帷子を纏い、年格好は四十歳代くらい。黒い髪と鋭い青瞳。
「アギラーニ伯爵……? なんですか? この騒ぎは」
王妃は怒りも顕わに兵士たちの先頭に立った男を睨み付けた。
「先ほど、国王陛下は退位をお申し出になった。そして、今までの民に対する非道の罪であなた様を投獄せよとご命令を下された。怪しげな魔法で国を乱し、政をほしいままにしてきた罪をどうかお認めいただきたい」
彼の目配せとともに、兵士たちは王妃が身につけている装飾品から、呪いに関わるものを取り上げて拘束した。
「何を言うの。ビアンカネーヴェ亡き今、陛下が退位なされば、国が乱れるではありませぬか。そなた達こそ国を乱す逆賊ではありませんか」
「かのお方は、近く女王として御即位あそばすことになりましょう」
「何を言うの……あの娘は」
「無論、生きておいでです」
武人らしい物腰の男はそう告げる。王妃は一瞬鏡に振り向くと、男に告げた。
「ならば好きなようにすればいいでしょう。けれど、私とてピトーネ王国の王女。無礼を働けば祖国が黙っておりません」
「それも承知しております。しかし、あなたのなさったことが帳消しにできるとは思えませぬが」
王妃は口惜しげに黙り込み、不意に鏡に歩み寄った。
素早く鏡面に指先で文字を描き、何かを呟いた。あの強気な王妃の声がわずかに震えているのに気づいたのは、長年仕えてきた鏡の中の魔物だけだっただろう。
「王妃様……」
呪文が終わると同時に、スペッキオは背中から押し出されるように、鏡から追い出された。封じ込めを解かれたのだと気づいて床にへたり込んだまま、ぼんやりと王妃の顔を見上げた。
王妃の表情は不遜を取り繕っていたが、どこか諦めたような安堵したような色が窺えた。
「……お前のような使えない魔物など、もう要らないわ。どこなりと好きにお行きなさい」
そう素早く告げる。
王妃は周囲の兵たちに厳しい口調で命じた。
「さっさと連れて行ったらどうなのです? 牢獄なり、修道院なり」
男が静かに命じて、兵士たちが王妃を取り囲み、促すように部屋の外へ歩き出した。
王妃は気づいたのだろう。もう王宮に戻ってくることはできないと。
そうすれば、鏡の呪いを解くことはできない。
助けてくれたのだ。最後の最後に。
「王妃様。僕は……」
鏡から出されたスペッキオは、声を限りに叫んだ。
「僕にとって一番お美しいのは、ずうっと王妃様だけですから」
だから、どうか。もう罪を認めて償ってほしい。
王妃は冷淡な一瞥を彼に向けると、そのまま部屋を出て行った。
兵士たちが王妃を連れて出ていくと、地下室に静寂が戻ってきた。
後に残ったのは甲冑をつけた小柄な兵士と、年配の武官だけだった。
アギラーニ伯爵と呼ばれていた。その男はたしか、ビアンカネーヴェ姫の後見で、叔父にあたる人だったはずだ。
男は立ち上がることも出来ずにいたスペッキオに歩み寄ってきた。
「……鏡の精……スペッキオと仰ったか? 王妃に取り入り甘言で誑かした魔性の鏡と言われているが、その通りですかな?」
スペッキオはその言葉に困惑した。
魔性の鏡。
やはり、そう思われていたのだ。けれど、呪いをかけられていたとはいえ、王妃を諫めも止めもできずに増長させたのは事実だった。王妃が罪に問われるなら自分も裁かれるのが道理だ。
「……はい。どのような罰も覚悟しとります」
そう言うと、背後にいた兵士の一人が小さく吹き出した。
「父上。申し上げたとおりでしょう? スペッキオは魔性の鏡などではありません」
透き通ったその声に、スペッキオは目を丸くした。
「……ステラ?」
兵士は甲冑を脱ぎ、顔を晒した。小さく微笑んで、それから一礼する。
「アギラーニ伯爵家の長男、ステファーノにございます。此度は主君の危機を助けてくださりましてお礼を申し上げます」
「長……男?」
男の子だったのか。まだ声変わりも迎えていない華奢な少年の姿に、スペッキオは納得した。彼は侍女として王妃の身辺を探っていたのだと説明してくれた。
「……そんなら、僕が王妃様に何を言うたか知ってはるやろ。僕も王妃様と一緒に罰してください」
アギラーニ伯爵とその息子は唖然とした顔でこちらをみた。
「せっかく鏡から出られたのに、また牢獄に入るつもりなのかい?」
「……僕は……王妃様に何にもできんかった……」
「もう、気にしなくていいんだ。君は……もう自由なんだよ」
ステラこと、ステファーノはそう言って微笑んだ。
「……きっと、君まで罪に問われるのがいやだから、突き放したんじゃないかな? もう、君はどこに行っても構わないのだと」
スペッキオは頷くしかなかった。
そして、自由というのは、なんというあやふやで、居心地が悪いものなのだろう、と思った。
何をすればいいのか、何一つ思い浮かばなかったから。
「……何をすればええんやろ……」
「思いつかないのなら、とりあえず僕と一緒にビアンカネーヴェ姫にお仕えするかい? 君の知識で助言してくれると助かるよ」
ビアンカネーヴェ姫はいずれ、即位して女王になる。若く後ろ盾の少ない彼女には、補佐してくれる存在は多ければ多いほどいい、と彼は言う。
スペッキオは素早く考えを巡らせた。
おそらく王妃は隣国の王家の血筋だから、殺されることはない。どこかに幽閉されるか本国に帰されるか。だったら自分はこの国に残って何か償いをしたい。
この国を混乱させた王妃に代わって、新しい女王のために何か手助けができるなら。
「……ご迷惑でないんなら、そうさせてもらいます」
そう答えたスペッキオに、ステファーノは歩み寄ってきて、ひょいと抱え上げた。
「じゃあ、とりあえずこの真っ暗な部屋から出ようか……って、うわ、軽っ」
鏡に封じられていた彼は、華奢なステファーノにも持ち上げられるほど軽い。
「それじゃ、ひとまず決めなくてはならないことがあるね」
「え?」
「君に新しい名前と、住み処を。……
ステファーノは微笑んだ。
名前。それを聞いて、胸の奥に小さく灯りが点った気がした。彼は、初めて、自分には名前がなかったのだと気づいたのだ。
ステファーノは抱え上げた鏡の精に、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「……
「ステラ……それは、僕の大恩人とおんなじ名前です」
そう答えると、相手は照れくさそうに声を上げて笑った。
それから彼は王宮の塔のてっぺんにある、一番眺めのいい部屋に移された。明るい陽光が差し込んできて、毎日のように鳥が窓辺に遊びに来る。そして、彼を脅したりする輩は入ってこられない場所。
時折訪れる女王とその従弟を心待ちにしながら、彼は穏やかに日々を送っていった。
女王に助言を与える『塔の知者』と、かつて『魔性の鏡』と呼ばれていたものが同じ存在であることを知るものは少ない。
そうしてカスターニャの国は、静かに平和を取り戻していったのだった。
FIN.
魔性の鏡と天の星 春奈恵 @megumiharuna
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