第034話 『嚆矢濫觴』⑤

 この程度の工夫で、熊を倒せる可能性など限りなく零に近いことなどわかっている。


 だがまがりなりにも槍のカタチにさえなっていれば、ただ包丁や短刀を振り回すよりは攻撃範囲リーチは広がるし、目をはじめとした急所に届かせることもとりあえずは可能となる。

 なによりも柄を地面なり壁なりに突いて固定すれば、シロウの力など関係なく熊の力と自重を利用してその毛皮と肉を貫くこともできるかもしれない。


 それがどれほどの技量を必要とするかはこの際関係ない。


 今手元にあるものを可能な限り有効利用して、熊を倒せる可能性を零からコンマ1ずつでもいいから積み上げることしかシロウにはできないのだから。


 それにこのしょぼい槍モドキは、シロウにとって最低限の武装だ。


 シロウは孤児院を出た後村長の家へ向かい、そこで自分でも使えそうな武器があれば少々強引にでも借り受けるつもりでいる。

 薬や食糧でなければあっさり貸してくれる可能性もあるが、揉めた時にはこの程度の即席の槍であっても、いくらかは役に立つだろう。


 シロウが本気であることが、村長に伝わればそれでいい。


 あとは冒険者ごっこ遊びの際に使っていた木の盾モドキを、槍を持つ右手と逆の左手に持ち、襤褸だが大きめの外套を身に纏ってとりあえずの武装は完了である。


 いつものシロウであれば、こんな装備で熊をぶっ殺すと言い出す子供がいたら、なんの冗談かと真顔になるだろう。

 だが今は冗談でもなんでもない。

 最悪の場合、この装備でシロウは熊と命をかけて戦うことになるのだ。


 シロウは諦めて自暴自棄に死のうとしているつもりなどまったくない。

 それでも死ぬ可能性がある、というよりもほぼ死ぬとみた方が妥当だということも一方ではわかっている。


 だから時間がない、無駄にはできないことを知ってはいても、シェリルには逢っておきたい。

 最後に一目ではなく、不可能を可能に変えてでももう一度元気な姿で会うのだという意思をより強く固めるために。


「……シェリル」


 そんなに広くもない孤児院である。

 寝かされている場所までシロウはすぐに到着し、苦しそうな呼吸をしているシェリルに声をかける。


 大丈夫か、苦しくないか、してほしいことはなにかないか。

 どう答えられてもなにもしてやれない今の状況ではどれを問うことすらできず、名を呼ぶことしかできない。


 そのことに内心、忸怩たる想いを抱えるシロウである。


 だが表情にはけして出さない。

 自分の無力感を巻き散らかして、ただでさえ苦しいシェリルをこれ以上苦しめるつもりなどないのだ。


「シロウ、お兄ちゃん……」


 まだ8歳でしかないシェリルは、シロウのことを「お兄ちゃん」と呼んでいる。

 枕元に大好きなお兄ちゃんが来てくれたことに気付き、荒れた呼吸でありながら健気に微笑んで見せる。


 完全に病に侵されていて苦しそうではあるものの、まだ意志の力で無理ができる容体だということでもある。

 年老いた院長が今の状況になるまでの推移を鑑みても、若いシェリルが夜明けまでに深刻な状況に陥ることはないとみていいだろう。

 急変という血の気の引く言葉が頭に浮かぶシロウだが、それを恐れてここにいたところでなにひとつ好転することなどありはしない。


「ちょっと村長のところまで行ってくる。薬か精のつく食事を分けてもらえないか、無理を承知でお願いしてみるよ」


 いつもは貧しくても可能な限り綺麗にしているシェリル自慢の金髪が、汗と埃で汚れてしまっている。

 それには構わず、シェリルに触れることにちょっとおっかなびっくり気味にシロウはその髪をできるだけ優しく撫でる。


 その上で可能な限り普通の笑顔で、努めてなんでもないことのように孤児院をしばらく空けることを、苦しそうな呼吸ながらも嬉しそうにしているシェリルに告げた。


「やだ……ここに、いてよぅ……」


 即席の槍は部屋に持ち込んでなどいない。

 この季節の夜に外出するとなれば、襤褸とは言え外套マントを纏うことも不自然ではないはずだ。


 だがシロウとしてはできるだけいつもどおりに笑って見せたつもりのかおになにを感じたのか、無理をして浮かべていた笑顔が消えて大粒の涙がシェリルの綺麗な瞳に湧き上がる。


 いつものシェリルはもちろんのこと、病に倒れてからでもこんな風に分かりやすく、我儘にも聞こえることを言うなどはいっさいなかった。

 だが今は大粒の涙を寝ているが故に横に流しながら、縋るようにして力なくシロウの裾を掴んで、行くなと懇願している。

 病で力の入らない手が震えているのは、それだけが原因ではないだろう。


 シロウの様子に取り返しのつかないなにかを感じて、恐れているのだ。

 今も自分を襲い続けている病の苦しさよりも、このままでは死んでしまうかもしれないという恐怖よりも、もしかしたら自分のせいでシロウを失ってしまうことをこそ。


 シロウがそうであるように、シェリルもいつも優しいお兄ちゃんシロウの重荷や枷になどなりたくはないのだ。


 自分が自身やほかの子たちの看病をできるくらいもっとしっかりしていれば、病が伝染うつる可能性の高いこの部屋に来ることすら拒みたいほどに。


「そんなに心配するなよ。ダメだったらすぐ戻ってくるさ。そうしたらその後は、ずっとシェリルの側にいるから」

 

 そう言ってもう一度髪をなで、立ち上がる。

 自分の裾を弱々しく掴んでいるシェリルの手を取り、毛布の中へと丁寧に戻す。


「や、だぁ」


 ぼろぼろと涙をこぼしながら、毛布が捲れ肌が見えてしまうことも厭わず細い手を伸ばし、シロウを行かせまいとするシェリル。

 まるでここで行かせてしまえば、それが今生の別れになってしまうことを確信しているかのように。


「……行ってくる」


 弱々しく伸ばされたシェリルの懇願の手を躱し、シロウは踵を返す。

 そして言葉少なに、だが絶対に今からしようとしていることを止めないのだと、その背中とともにシェリルに告げる。


 もしもシェリルに立ち上がるだけの、抱き縋るだけの体力が残されていたのなら、躊躇うことなくそうしていただろう。

 だが細い腕を伸ばすことすら困難な今のシェリルには、それすら叶わない。


「うー、うぅう」


 言葉にならない嗚咽を漏らしながら、毛布に包まることしかできない。


 シロウはもう決めてしまっている。

 今のシェリルができる、最大限のお願いも振り払われてしまった。


 正直なところ、シェリルにはシロウが今からなにをしようとしているかなどわからない。

 ただの8歳の女の子でしかないシェリルには当然のことだろう。


 だけどシロウが孤児院のみんなのために、少しだけ自惚れることを許されるなら自分シェリルのために、命懸けでなにかをやろうとしてくれているのだということだけはわかる。

 恋とかまだよくわかってはいないけれど、物心ついた頃から絶対の自分の味方だと信じてきたシロウのことだから、わかってしまう。


 だったらシェリルも、今自分にできることをするだけだ。


 これっぽっちもシロウの役にたててなくて嫌になるけれど、暖かくして、安静にして、シロウがやろうと決めたなにかをしている時に自分を心配しなくていいようにすることくらいしかできない。

 

 だから。


「待ってる、から。が……ばって」


 涙でボロボロの顔でも、そういって無理にでも笑って見せる。

 だから絶対に帰ってきてね、と。


 シェリルのその声は聞こえているが、シロウはもう振り返らない。

 だけどシェリルが勇気を振り絞ったその言葉が聞こえたこと示すように、右手を上げてさも気楽そうに左右に振る。


 シロウがただでさえ足りない時間を使ってまで、わざわざシェリルに逢いに来た目的は十分以上に果たされた。


 好きな女に頑張ってと言われて、頑張らない男などいない。

 惚れた女に待っていると言われて、帰ってこない男などいない。

 そんなのは男ではない。


 正しいとか正しくないとかそういうのは知らん。


 無理を承知で、それでも命を賭けるしかない状況において、もしかしたら一番大切なのは意志を奮い立たせる勢い、気分のようなものなのかもしれない。


 そういう意味ではシロウは充分に奮い立たせてもらった。

 あとは成すべきを成すだけだ。


 なにを成すのかではない、なんのためにそれを成すのかこそが軸なのだ。

 結果こそがすべてという、現実の厳しさを十分に理解した上であっても。

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