第84話 見てはいけない何か(真)



失敗した。最初に思ったのはそれだった。スイと少年が眼鏡を外しても大丈夫だろうと安易に考えたのがいけなかったのか単純に似た存在が居ることを考えなかったのがいけなかったのか二人は歩き出してたったの五分足らずですぐに自分達の行動を後悔した。

背後に突如として出現したそれは二人の存在を完全に意識しているらしく此方をじっと見つめ監視している。今思えば先程倒したあれには脅威を、そう隠れる要因となった筈の脅威を一切感じていなかった。単に向き合う覚悟を決めたからだと思っていたが何のことはない。別の存在だったのだから関係ある筈がない。

二人の顔を冷や汗が垂れる。しかし今度は息を潜めた所で逃がして貰えはしないだろう。息が荒れる。まるで海の底に沈んで這い上がってきたばかりのように酸素を欲しがっている。


「……(まずい、まずい、まずい。どうすれば!)」


スイが思考を必死に巡らせるがそんなことは御構い無しに背後の存在はぬちゃっとした足音を立て近付く。一歩一歩しっかりと近付いていく。その存在に害意は未だ感じられない。恐らく脅威にすら感じていないのだ。食卓に並んだ餌に警戒する訳もない。そう考えたときスイの頭を激情が支配する。


(ふざけるな、魔物風情が私を餌に思うなど何様だ、脅威にすら感じていないなど舐めるな、馬鹿にするな、ふざけるな、ふざけるな、殺してやる、生を受けたことを後悔させてやる、私は父様の……!!)


その時スイの激情と共に少年、拓也もまた憤怒に身を染めていた。


(なに?どうして僕がこんな恐怖を、不安を感じないといけない?あの恐怖を、姉さんを一人にさせたくないと感じたあの時より怖がるなんてそんなことない、なのにどうしてこんな魔物に恐怖を感じないといけない?意味が分からない、理解できない、訳が分からない、姉さんを侮辱するようなこの力は存在しちゃいけない、消えろ、いや……消す、僕が、この手で殺して消滅させないといけない)


そして二人はその激情に、憤怒に身を委ねるように背後を振り向く。冷静であれば決してしないであろう行動を取ったことによって本来は二人の心は砕かれていただろう。しかし先程スイ達は防御魔法を唱えていたことによってその事態を奇跡的に防いだ。

それに驚いたのは背後に存在した凶獣。恐怖によって振り向いた存在は例外無く自らの能力によって発狂し自ら餌となりにきたのに何故防がれたかも分からず凶獣は吼える。それは自らの思い通りにならなかったことによる憤怒であり奇しくも三者はそれぞれの感情のままにぶつかることになったのであった。



振り向いた先に居たのは先程の魔物とは違いしっかりとした実体を持っていた。しかし深き道特有の異形ではある。全体的な姿は所謂リザードマンのような姿に近いだろうか。その姿は正しく生命の冒涜の顕現ではあったが。

猫のような形の目は飛び出し舌は蛇の頭と化している。腕は鋭く尖った針金のような白い体毛に覆われ足は間接が逆に付いているのかあり得ない方に曲がっているうえ微妙に液状にも見える。腹には肉食獣のような口が付いていてこちらからも蛇の舌が出ている。背中からは手ではなく人の足のようなものが生えている。更にその足は器用に指で槍のように鋭く削られた骨を持っている。


「気持ち悪い」


スイは一瞥すると吐き捨てるようにそう言い放つ。激情に従い振り向いたが少し冷静になったようで防御魔法を再度唱える。


「同感だよ。あれは気持ち悪いね」


少年はイグナールを握りいつでも攻撃できるように警戒する。凶獣もまた自らに向かい合う愚か者達を馬鹿にしながらも警戒する。そんなお互いに動かない状態をスイは気にもせず初めから全力を出す。


「死ね、獄炎ゲヘナ

「ギャッギャッ!!」


凶獣はその見え見えの攻撃を余裕を持って躱す。いや躱したはずだった。赤黒い炎は逃がさないと言わんばかりに追い縋る。それに驚きながらも凶獣は蛇の舌を地面に叩き付ける。すると地面が捲り上がり炎の進路を塞ぐ。追い縋る炎は地面を溶かしながらその壁を壊す。しかしその壁の向こうには凶獣が存在しなかった。


「ギャッギャッ!!」

「……っ!!」


空中から聞こえた声にスイは咄嗟に上を向く。しかしそこには存在しない。スイはまずいと判断し横に転がるように飛ぶ。一歩遅くスイの腹を白い体毛に覆われた腕が通りすぎる。


「ごぶっ!」

「くそっ!天炎フレア!」

「ギャッギャッギャッギャッ!!」


まるで嘲笑うかのように凶獣は一瞬にして背後に逃げる。白炎は誰も居ない地面を撫で焦がし消える。


「なんだこいつ普通に強いじゃないか」


拓也は少し冷や汗を流しながら凶獣を見る。あの一瞬の攻防で少女が腹を抉られ咄嗟に返した反撃も余裕を持って躱されてしまう。その驚異的なまでの身体能力に拓也は焦る。


「くたばれ、天雷ケラウノス


白光が辺りを白く染める。凶獣はその驚異的なまでの身体能力で呆気なく躱すと腹を抱えて笑う。どこまでも人を虚仮にする魔物である。ただ強いというだけでこれほどまでに厄介なものになるのか。


「消え失せろ、暴禍メイルシュトローム


少女の手から全てを切り刻む暴風が吹き荒れるが凶獣は何と身体に魔力を纏わせ耐えてしまう。その身にはほんの少しの切り傷しか出来ていない。耐久力が異常に高い上に纏わせた魔力もかなりのものなのだろう。


「呑まれろ、封流ハイドラ


荒れ狂う水が地面に出現して凶獣の身を呑もうとするがその身体から膨大な魔力を噴出させ無理矢理事象の上書きをする。


「潰れろ、深淵アビス


地面が割れそこから無茶苦茶な数の岩塊が飛び出して凶獣を襲う。凶獣は全て腕や背中から生えている足で弾き飛ばしていた。

確かに強いのだろう。その見てはいけないという特性以外にも身体能力が尋常ではない。帝都に出現した凶獣等とは比べるべくもない。傷一つ負うことなく圧勝することだろう。知性こそ無いようだが長く生きた末に微かに得たのかその笑みは何処までも嗜虐的な笑みに彩られていた。


「…………強いね」


スイが呟いた言葉の意味を理解はしていないだろうがニュアンスは理解したのかにやっと嗤う。しかしスイはその笑みを侮蔑の色が濃い瞳で見つめ返す。馬鹿にされたと感じたのか凶獣は足を踏み鳴らし牙をガチガチ噛み合わせる。

少年は闇雲に突撃しても勝てないと悟っているのか凶獣から目を離さずに見ている。しかしその必要はない。既に仕込みは終えたのたから。


「少年、あいつの動き止められる?」

「少年……まあ良いや。厳しいけど多分」

「ケルベロス、ヒーク、少年を手伝って」


少年の返答を聞くとスイは自らの胸の内から三つ首の犬ケルベロスと小さな梟、ヒークを出現させる。


「これで何とかいける?」

「確定はさせられないけどやってみるよ」

「五秒止められたらそれで良い」

「ならいけそうかな」


少年はイグナールを強く握り直す。スイは身体の内で自らの魔力をかき集めていく。凶獣は未だ笑みのままで何もしてこない。自らの優位性を理解したのかはたまた悪足掻きだと考えて抵抗する意味を感じていないのかどちらにせよ格下と見ているのは間違いなかった。


「……そのむかつく顔を消してやる」


スイが集めている魔力に全く気付いた様子がないため魔力を感知するのは苦手なのだろう。そのくせ自身はかなりの魔力を保有しているなど何の冗談だろうか。

少年がイグナールに魔力を纏わせ突撃する。ケルベロスも同様に右から回る形で突撃する。ヒークは上空から不可視の風の刃を放つが音などで把握しているのか凶獣は難なく避ける。


「凍てつかせよ!イグナール!」


少年がイグナールを振り抜く。途端に極寒の世界が構築されるが凶獣は忌々しそうに唸ると腹の口から炎を吹き出し消し飛ばしてしまう。適当に吐き出されたかに見えるその火ですらかなりの高温であるということが良く分かる。しかしイグナールは更に極寒の世界を構築し続ける。腹の口から炎を吹き出している最中は動けないのか苛立たしげだ。そこにケルベロスも炎を吹き出し更にその場に釘付けにする。ヒークは闇を操っているのか黒い手のようなものが凶獣の身体を縛り付ける。


「ん、終われ、混沌」


スイは自らの素因を起動させる。それは全てを消し去るものだ。しかしそれを発動させた瞬間凶獣の視線がスイに向かう。避けようというのか藻掻く凶獣は炎に身を晒しながらも目をひっきりなしに動かす。それに対しスイは侮蔑の視線を向けながら本命を発動させる。


シディル


力ある言葉で呟かれたのは五属性を合わせて放つというだけの簡単なようで無茶苦茶な魔法だ。それをスイは制御で操り難なくこなしてみせる。

その極大魔法とでも呼ぶべきそれに凶獣が焦った表情で腹の口からの炎を止め攻撃を受けながらもそこからの離脱を試みる。その瞬間少年は下がりケルベロス達もスイの身体へと戻る。

凶獣は離脱に成功したと思った瞬間、その身に激痛が走ったことに気付く。訝しげに首を傾げるとそれを期に人知れず生まれた凶獣はこの世を去った。

スイがしたことは簡単なものだ。先程まで放っていた魔法を基点に地面に極大の魔方陣を描いただけだ。放たれたそれは地面から生まれ凶獣の身を消滅させたのだ。普通に描いただけだと気付かれる可能性が高いため魔法で攻撃しながら残留した五属性の魔力で地面に焼き付けるように魔法陣を描いたのだ。つまるところ最初からまともに戦う気など無かった。


「……っ」


倒したことに気付いた瞬間スイの身体から力が抜ける。膨大な魔力の使用に短時間とはいえ使った混沌の素因、何より抉られた腹の傷でギリギリだったのだ。そのままスイは気を失うように倒れ込みその身体が支えられる。支えたのは勿論拓也だ。


「全く無茶するなぁ、途中での念話のお陰で何をするか分かっていたとはいえ普通僕に後を任せる?」


呟いた言葉は気を失っているスイには届かない。拓也は少しは信頼されているのかなと考えてほんの少し笑みを浮かべていることを自覚して恥ずかしげに顔を逸らした。

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