野垂れ死ぬまで死ねない
山田あとり
第1話 シングルマザーの気持ち
今日も物干し竿におねしょシーツを干した。夜のおしっこが増えてよく漏れる。
他の洗濯物も洗濯バサミでぶら下げる。パンッというタオルの音が、少しだけ気持ちを持ち上げてくれる。
日に当たった娘の小さなパジャマズボンのゴムの所からホワホワと湯気が立ち始めた。
冬晴れだ。
やっと伝い歩きするようになった娘が私の脚にしがみついて立ち上がる。まだ喋らないけどアーアー言う。
「うん。今日はおんも、行くよ。公園にね」
行かなければいけない。約束だから。会いたくはないけど、用事はある。
でも行きたくない。あの人の顔を見ると、嫌な気持ちで胸がいっぱいになる。
替えのオムツ。汚物用の袋。お尻拭き。着替え一式。タオル。赤ちゃん用オヤツ。麦茶のストローマグ。調乳用のお湯を入れた水筒と計量済み小分けの粉ミルク。抱っこ紐。膝掛け。お気に入りのオモチャを一つ。
どこに行くにもそれが基本だ。
ベンチの脇に停めたベビーカーに荷物を置く。娘の両手を取って、あんよの練習。
乾いた風が吹いて砂ぼこりが立った。
冬の公園の埃っぽい匂い。ありがたくない匂い。
娘がギュッと顔をしかめた。目にほこりが入ったのだろう。抱き上げて、そっと目元を拭う。
まだ小さい、小さい娘。
細い肩と首。空豆のような形の頭。
お尻と背中をポンポンしながら抱きしめると、頭からポタージュかお粥のような匂いがした。
バン、と車のドアの音がして約束の相手がやってきた。
元夫。この子の父親。
今日は面会の日だ。いつもこうして公園で待ち合わせ、近くのファミレスに行く。
妊娠中に浮気して、出産直前に発覚して。そんな男が何を父親面するんだろう。
だけど養育費をここで手渡しするというのだから来ないわけにいかない。
子どもに会う権利は俺にもあるから、と言うけれど、育ててもいない娘に愛情なんてないでしょう。ただの嫌がらせじゃないかと思う。
だからこっちも、この人はただのATMだと思うようにした。
「ほら」
いきなり封筒を出す。今月の分か。
娘の背中の片手で受け取ると、代わりに娘を取られた。仕方なしに抱かせておいて、封筒の中を確認する。定額ある。
ちゃんと支払うって言うんだからマシですよ、と離婚協議で言われた。逃げちゃう男も多いんです、と。
なんなのそれ。じゃあ一緒に育てる男は聖人君子だ。マシなだけの男と結婚して離婚した私は、マシなだけの女。
「いつまでも小せえな。食わせてんのかよ」
「まだ離乳食」
「こいつパパとか言わねえ?」
「まだ喋らないから」
「なんだよ、つまんね」
そばにいない父親のことを呼ぶわけがないだろうに。
「今日はもう行く」
路駐している車を顎で指して言われた。娘をぶらん、と返してくる。私は奪い取るように娘を抱き直した。
よく見ると、助手席に女が乗って待っていた。浮気相手の現・妻だ。
私の首筋がぞわぞわと総毛立った。消し切れない嫌悪感。たぶん一生、消えない憎悪。
あんな女を連れて来て、よくも娘に触ってくれたな。
すぐに帰って、娘をお風呂に入れたくなった。
「あいつ妊娠してさ。辛いから健診に連れてけとか、めんどくせえの」
は。
私は能面のように固まったと思う。
元夫はそんな私を見てそそくさと逃げていった。
でもたぶん誤解してる。私が感じたのは嫉妬とか、そんな甘い気持ちじゃない。
汚らわしいとは思ったけど。
お風呂に入れたい、じゃなく入れなきゃになったけど。
養育費が減らされるかも。
それは死活問題だった。
車はさっさと走り去った。
乾いた砂ぼこりの匂いが鼻にツンとしたけど涙はこぼれない。
抱いた娘はフニフニ柔らかかった。
養育費は経済状況に左右される。
元々たいして稼いでいないあの人だ、育てる子が増えれば減額が認められるだろう。向こうの子に情がわけば、この娘を無視するかもしれない。
そうなったら弁護士を入れて給料の天引きにさせるか。でも向こうが転職したら一からやり直し。そんな手間かけられないし、お金も気力もない。
わずかに取った慰謝料と、養育費。ひとり親支援の手当て。ギリギリだ。
自分でどうにかしないといけないのはわかってる。どうやって生きていこう。どうすれば。
働こうにも預け先は。預けなきゃ就職活動もできないのに働いてなきゃ保育園には入れない。
ろくな学歴も職歴も職能もない0歳児を抱えた女が独りで何ができるだろう。
そんな人はたくさんいる。みんなちゃんと生きている。
そうは思うけど、私もそうしなきゃいけないのか。私にはできないと言っちゃ駄目なのか。私が甘ったれてるだけなのか。
もう嫌だ。
もう嫌だ。
甘ったれで何が悪い。悪いのか。私は悪者か。いつの間にか悪者なのか。
甘ったれの悪者なのだから、どこかで野垂れ死んでしまえればいいのに。
自分で死ぬのは怖いから、静かにひっそり野垂れ死にたい。
野垂れ死ぬまでは生きなきゃ駄目か。
ああでも。
この子は、誰か助けてやって。
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