第七章 にわか勇者、偽勇者になる
7-all
思わぬ寄り道を余儀なくされたゼノたち一行は、結局、さらに戻ってバルデルトの湖上の城に数日滞在することになった。
「兄上から申しつけられておる。我が家と思ってくつろぐがよい」
カーネフたちの魔法によって飛ばされたクレシュとユァンは、最初は別々だったが、ユァンの呪術によってじきに合流できたらしい。その後、クレシュが神殿の連絡網を使ってオリヴィオに連絡をとり、オリヴィオからさらにバルデルトに知らせが行ったというわけだ。ちなみにオリヴィオは、手の離せない案件の渦中で、しばらく顔を出せないという話だった。
〈不死の月〉アルテーシュと名乗った者については、だれも何も知らなかった。月の神リテルの名は、神話としては広く知られている。だが、魔王と太陽の女神の物語ではとくに活躍しないし、その配下も登場しない。もっとも、彼女の語った事情が事実なら、長い年月の間にその存在が忘れ去られていても不思議ではない。むしろ、白装束たちのような信奉者が現存していたことのほうが奇跡だ。
「復活させてしまって、よかったんだろうか」
「是非もない。トアルと神の命がかかっておったし、すんだことを悔いるより今日の飯じゃ」
あいかわらず、ユァンの見解は単純明快だ。
「それに、本当に神話時代の神を復活させたのなら、紐解く神の本領発揮というもの」
「ユァン、おまえはなんだかうれしそうだな」
「ん? そうか? 別になんとも」
とぼけて答える口の端があからさまに緩んでいる。ユァンにとっては、ゼノとの旅自体が物見遊山のようなものだから、多少の珍事はむしろ歓迎といったところなのだろう。
歓迎といえば、トアルは城の住人たちに大歓迎された。
「トアル様、珍しい果物はいかが?」
「トアル様、小舟で湖を一周しませんこと?」
「トアル様、城の中をご案内いたしますわ」
「トアル様、このお召し物をどうぞ」
等々、アリエラやミローデを筆頭に、バルデルトの配下の者が入れ代わり立ち代わり訪れてはちやほやする。
「坊や、この能無しの父親に愛想が尽きたら、バルデルト様の子供になればいいのよ」
口の悪いガレアはもとより、
「幼い者と接するのはずいぶん久しぶりだが、愛らしいものよのう」
と、バルデルトまで、恐ろしげな黒曜石の目を細める始末だ。
トアルがゼノのそばを離れたがらないので、必然的にゼノもそのすべてに居合わせることとなったが、だれからも空気のように扱われて、いっそすがすがしいほどだった。見方を変えれば、だれからも邪魔されることなく、休養を満喫できたともいえる。
クレシュとユァンは、最近の一連の出来事で火がついたのか、腕を磨くことに夢中になっていた。二人で訓練するだけでなく、城内で強そうな相手を見つけては、手合わせを頼んだり、技を教えてもらったりと忙しい。
そんなわけで、クレシュとゼノが二人きりになる機会はまったくなく、ゼノはあのときの口づけの真意を確かめることができないままだった。
──そういう方面には、あんまり興味なさそうだしなあ。
単なるその場の勢い、と考えるのが妥当かもしれない。
ゼノ自身、クレシュに対する自分の気持ちを量りかねていた。美人だし、頼りになるし、いっしょに過ごしてみれば性格も悪くない。仮に誘われるようなことがあれば、喜んで同衾する。ぜひしたい。
だが一方で、異性として意識しているかどうかとなると、なんとも曖昧だった。好き嫌いでいえば、確かに好きだと思う。とはいえそこには、憧れや崇拝に近い気持ちが多分に含まれており、恋愛感情とは少し違う気もする。
全般的に彼女のほうが優秀であり、年も離れているという引け目もあった。要するに、自分に自信がない。自信がないから、遊び半分で気軽に声をかけることもできない。いや、だとすればそれはつまり、声をかけたいのに我慢しているということではないのか? 本当は好きなのに、自分の気持ちから目をそらしている……?
などと物思いにふけっていたちょうどそのとき、廊下の向こうから全裸のクレシュが歩いてきて、ゼノは叫び声を上げそうになった。
思わずそらした視線を恐る恐る戻すと、たしかにクレシュがこちらに向かってきているが、衣服はしっかり身に着けている。その隣に鼬姿のユァンを見つけて、ゼノはかっと首まで赤くなった。
──バカ! ボケ! このくそイタチ!!!
クレシュの前では怒るのも気恥ずかしく、ぎりぎり歯ぎしりしているところへ、こちらの内心にまったく気づいていない様子のクレシュが、屈託のない笑顔を見せて手を振ってくる。
「おにーさん、どうしたのー? 顔赤いよー?」
「な、なんでもない!」
「カミ、キット、カゼ」
しゃあしゃあと言って通りすぎようとするユァンの尾を踏んでやろうと足を上げたが、その尾で足首を払われて危うく転びそうになった。
──きいぃ!
一人でじたばたしていると、近くでアリエラから菓子をもらっていたトアルが、駆け寄ってきてにこっと笑った。
「おとうさん、ユァンとなかよし」
「違う! 断じてこれは──」
仲がいいわけではない! と主張しようとしていた気持ちが、トアルの笑顔にあてられてみるみるしぼみ、ゼノは大きく溜め息をついた。
みんながトアルを甘やかすのもわかる。この純真さは凶器だ。
はたして本当に純真なのか、擬態竜の本能で純真なふりをしているのかはわからないが、いずれにしても結果は同じだ。トアルには勝てない。
「いや……あー……まあ……ユァンは、いいやつだよな……うん」
「うん、いいひと」
トアルは最初からユァンに懐いている。ユァンに邪心がないことの何よりの証拠だろう。
じつをいえば、今回の一件のあと、ユァンには改めてトアルのことを託してあった。今後、自分の身に何かあったら、トアルの安全を最優先してほしい。最悪の場合には、自分の代わりに育ててほしい、と。
クレシュも信用できないわけではないが、彼女には一族の役目がある。旅の途中でゼノが脱落すれば、いずれつぎの勇者を案内することになるだろう。ユァンなら、そんなしがらみもなく、あらゆる面で擬態竜の養い親にはうってつけだ。
「任せるがいい。もっとも、頼まれずとも、希少種を見捨てるようなことはせんよ」
ひっひっひと笑うユァンは好奇心丸出しだったが、もちろんそれ以上に愛情深い生き物であることは、いっしょに旅をしてよくわかっている。いつのまにかユァンは、ゼノにとって最も信頼できる相手になっていた。
──まあ、これを、仲がいいというのかもしれないけどさ。
後ろを振り返って挑発のしぐさをしてくるユァンに、殴りかかる身振りで対抗したゼノは、トアルの視線に気づいてはっと手を下ろした。
「う、うん、ユァンと俺は仲良しだ……よ?」
数日後、充分な休養をとった一行は、前回の宿場町を避け、大きく迂回する経路を選んで出発した。
カーネフの根回しのせいで、ゼノたちは顔を覚えられているだろうし、最終的にあの宿へ向かったと知っている者もいる。関係者どころか、殺戮の犯人だと思われている可能性が大きい。近づかないのがいちばんだ。
ちなみに、カーネフたちの遺体をそのままにしておくのも後味が悪く、別人に化けたユァンにこっそり通報してもらっていた。
「そろそろ町だよー」
先頭を歩いていたクレシュが、いつもの気の抜けた口調で言う。
「ここでしっかり休んで、買い物もしていくからねー」
しっかり休むということは、この先困難な道行きが待っているということだ。うんざりする一方で、少し期待してしまう自分もいる。もちろん、困難そのものが好きなわけではない。困難を越える過程での珍しい体験、そして越えた先に見える新しい景色や達成感──ほかでは味わえない刺激に、すっかり病みつきになっている。
今回は順調に宿が確保でき、一階の食堂兼酒場で夕食をとることにした。
トアルもいっしょに、四人で隅の方のテーブル席につく。少し高めの宿だけあって、献立も豊富だ。大皿料理をいくつか頼んで、銘々好きなものに手を伸ばす。
骨付き肉にかぶりついていたゼノは、ふいに飛び込んできた「勇者」という単語に、思わず耳をそばだてた。
「──この町に、勇者が逗留しているらしいぞ」
「勇者って?」
「魔王討伐のために旅をしているんだと。魔王城を探しているとかなんとか──」
クレシュとユァンも手をとめ、三人で顔を見合わせた。
自分たちのことではない──はずだ。この町には着いたばかりだし、勇者のことも鍵集めのことも、限られた者しか知らない。そんなことを喧伝する必要もないし、むしろ不都合というものだ。
「……俺以外にも、勇者がいるのか?」
「さー……〈連環の勇者〉は、一度に一人のはずだけどー」
「別の魔王と別の勇者とか?」
「聞いたことないねー」
「わしも知らんのう」
三人は首をかしげ、さらに聞き耳を立てた。
「──有力な情報には謝礼とか」
「情報って、その……魔王城の?」
「たぶんな」
「そんなの、だれが知ってるんだよ」
「そういえば、どこかの宿に偉い人が泊まってるって、その勇者のことか」
「道具屋のばあさんが、祝福をもらって持病が治ったとか言ってたな」
「祝福って……その勇者は神官か何かなのかい?」
「知らねえよ。ばあさんからそう聞いただけだし──」
当人たちも詳しい話は知らないらしく、しばらく聞き続けてもそれ以上の情報は得られなかった。
「わしの出番じゃな」
ユァンがきらりと目を輝かせて言った。
「明日、偵察に行ってこよう」
翌朝、宿を出ると、ユァンは偵察へ、ほか三人は買い物へと、別行動をとった。
といっても、緊急時にはすぐ集合できるよう、対策はしてある。ユァンの呪術でトアルとユァンをつなぎ、相手のいる場所へ双方向に瞬間移動できるようにしたのだ。
「こんな方法があるなら、たいへんなところではユァンが先に行って、俺をひっぱってくれればよかったんじゃないのか?」
ゼノが不平まじりに聞くと、ユァンはすげなく答えた。
「何を言うか。これには多大な生命力を使うのじゃ。それに、神はもっと体を鍛えんといかん」
「ええー」
思わず抗議の声を上げたが、ごもっともなのでそれ以上言い返せない。それだけたいへんな秘術を使ってもらったとすれば、むしろ感謝しなければなるまい。
「さー、買い物行くよー」
ユァンが路地へと曲がって見えなくなると、クレシュが号令をかけた。
衣料品店に入り、綿入れや毛皮製の冬物衣料を人数分そろえる。油を塗って防水加工した外套や、毛皮の長靴とかんじき、歩行用の杖まで用意する。
「こんなに暖かいのに、冬物?」
外の日差しは強く、暑いぐらいだ。ゼノが率直な疑問を口にすると、クレシュはにやりとして言った。
「山を越えると、すごーく寒くなるんだよー」
「す、すごーく……?」
クレシュが強調するということは、そうとう寒いに違いない。考えてみれば、ここでこんな衣料が売られている時点で、この先必要になるということを意味している。雪山など経験したこともないゼノには、完全に未知の領域だ。
食料品店で保存食を購入し、外へ出たところへ、ユァンが戻ってきた。
「見つけたが、なんとも不可解じゃ」
ユァンは珍しく歯切れの悪い言い方をした。
「剣士と魔法使いと神官の三人連れじゃったが……似て非なる者というべきか……」
噂話をたどって彼らの逗留先を突き止めたユァンは、宿の食堂でこっそり観察してみたという。三人は、いかにも勇者一行らしく見えた。騎士のような物腰の若い男と、長い杖を持った壮年の男に、神官服を着た豊満な女。神官は、列をなした希望者に、〈祝福〉と称する癒しの魔法をかけていた。
周囲の話を総合すると、彼らは太陽の女神に選ばれて勇者となり、魔王を討伐するために旅をしているらしい。魔王城へ至るには、四つの鍵を集めなければならない。その一つがこの近くにあると聞き、ここまでやってきたということだった。
「どこかで聞いたような話だな……」
「だねー」
「鍵を探してるって、俺たちと同じ鍵?」
「さあー?」
クレシュは緊張感のない様子で言った。
「だとしても、二つはあたしたちが回収したしー、あとの二つも、だれかに取られたって話は聞いてないよー」
「同じものだったりしたら、少々面倒じゃな」
ユァンの意見はもう少し慎重だった。
「鉢合わせしないうちに、急いで回収したほうがいいかもしれん」
結局クレシュもそれに賛同し、準備が整いしだいすぐ出発することになった。
荷物をまとめ、まだ日が高いうちに町を出る。
街道をそれ、山道に入ると、いつもより重い荷物のせいでゼノはすぐに息が上がり、遅れをとりはじめた。本当に寒くなるのだろうかと疑いながら、汗だくになって歩いていくうち、いつのまにか景色が変わっていることに、ふと気づいた。
足元を邪魔していた下生えがなくなり、青々と茂っていた木々の葉が、赤や黄に変色している。心なしか気温も下がり、汗で濡れた肌着が冷たい。
思わずくしゃみをすると、それを合図にしたようにクレシュが言った。
「そろそろ、野宿できる場所を探そうかー。山越えの前に着替えも必要だしねー」
「寒っ! ……っていうか、痛っ!!」
吹きつける雪に顔を打たれ、ゼノは悲鳴を上げた。
山頂の手前から急激に気温が下がり、雪をかぶった峰を越えると、そこは別世界だった。
一面の白。分厚く雪の積もった山肌はもとより、横殴りの吹雪のせいで視界すべてが白い。そして寒い。わずかに露出した素肌は、冷たいを通り越して痛い。
もこもこに着ぶくれした四人は、悪天候のなか、杖にしがみつきながら這うように進んでいた。クレシュが先頭に立ち、ユァンがしんがりを務めて、みんながはぐれないよう気を配る。
はじめゼノは、トアルが寒さに弱いのではないかと心配したが、ユァンに鼻で笑われた。
「阿呆。竜は蜥蜴とは違うわ」
実際、トアルはだれよりも元気だった。強風や積雪にも負けず、しっかりした足取りで、ゼノにぴったり寄り添って歩いている。逆にゼノのほうが、初めての雪山で遭難しそうだった。
かんじきのおかげで深く沈むことはないが、べた足のような独特の歩き方に慣れず、思うように進めない。重労働に息が上がり、汗が噴き出してくる。その一方で、ぐずぐずしていると周囲の冷気が侵食してきて、体温を奪われる。毛皮の帽子と襟巻で頭部も保護しているが、眉や睫毛に雪が積もり、襟巻から鼻先が出ようものなら、たちまち冷たさにやられて感覚がなくなってしまう。
クレシュが振り返って何か言ったが、暴風のせいで聞き取れなかった。
前方を指さしてクレシュが足を速める。追いつこうとしたゼノは雪に足を取られて倒れ、後ろからユァンに引き起こされた。抱えられたまましばらく進むと、急に吹雪がとだえ、崖下の窪みのような場所にいることに気づいた。
「休憩ー」
洞穴とまではいかないが、小さくくりぬかれたようになっているため、吹雪の直撃は避けられる。
ゼノは倒れるように腰を下ろし、口を開けて喘いだ。
その足の間にトアルが入りこみ、両側からクレシュとユァンが密着してくる。厚着のためすぐには感じられなかったが、じょじょに互いの体温が伝わりはじめ、冷え切っていた手足の末端に感覚が戻ってきた。
「足の先が……しびれて、かゆい」
「凍傷になれば感じないよー。腐って落ちるかもしれないけどー」
我慢できずにぼやくと、クレシュに恐ろしいことを言われた。慌てて靴の上からこすってしまい、痛がゆい不快感に貫かれて悶絶しそうになった。
「しょーがないなー」
クレシュがからかうような目つきで言う。
「おにーさんが歩けなくなっても困るから、近道するかー」
「近道?」
「ちょっと冷や汗かくかもだけどー」
「え……」
──ひえええええ──────────!!!!!
しばらくのち、四人は、急勾配の長い縦穴を落ちるように滑りおりていた。
凍てついた壁面はつるつるで、何の抵抗もなく加速していく。細い穴の中をまたたくまに運ばれ、唐突に広い空間に吐き出された。
クレシュは猫のように一回転して、少し離れたところに着地した。ゼノは、いっしょに流れてきた大量の雪とともに落下し、その上にトアルがころんと転がる。ユァンは真下の二人をよけて身軽に降り立った。
「いてて……」
雪の山から体を起こしたゼノは、あたりの光景を見て口をぽかんと開けた。
断崖絶壁に囲まれた谷底のような窪地。その中央に、透き通った壮麗な建物がそびえたっている。壁も柱も屋根も、すべてが氷だ。
氷の城──いや、神殿?
「正面にはちゃんと道があるんだけどー、こっちは裏口ー」
クレシュが説明しながら、銘々に新しいかんじきを配った。いままでのかんじきより小型で、裏側に爪のような鋲がいくつか打ってある。
「床が全部氷だから、滑らないようにー」
クレシュは氷の扉に近づき、脇にある蕾のような装飾に触れた。
カチリと音がして、扉の中央の合わせ目が広がり、外側へ向かって静かに重々しく開きはじめた。
門ほども大きい扉の向こうには、鏡のようにきらめく氷の廊下が続いている。
クレシュを先頭に、一同はぞろぞろと足を踏み入れた。床は見た目どおりよく滑るが、爪つきのかんじきのおかげで、ゆっくり歩くぶんには問題なさそうだ。
かすかな音に振り返ると、入ってきた扉がひとりでに閉まるところだった。完全に閉まると同時に吹雪の音が消え、耳が圧迫されるような静寂に包まれる。入口から差し込んでいた外光も遮られ、あたりは一気に薄暗くなった。雪も風もなくなったが、中のほうがむしろ寒い。足元からしんしんと冷気が立ちのぼってくる。
クレシュが魔法の光を灯したので、ふたたび周囲が見渡せるようになった。
広い廊下の両側には、同じ大きさの扉が等間隔に並んでいる。どの扉にも浮き彫りのような装飾が施されているが、模様はそれぞれ異なる。胸の前に剣を捧げ持つ男、大きな杯を両手で抱える女、弓を構える女、跪いて祈りを捧げる男、三日月の下で眠る男女──何かの物語を描いているようだが、驚くべきはその精巧さだ。人の手で氷をここまで細かく彫り込めるものだろうか。しかも、透き通った素材にもかかわらず、図案がしっかり見て取れる。
「ここって……だれか住んでるのか?」
無意識に声を潜めて聞くと、クレシュはふつうの声で答えた。
「住んでるというか……いるにはいるよー」
クレシュは足をとめ、扉の一つに手をあてた。
扉がゆっくり内側に向かって開く。
恐る恐る中を覗きこんだゼノは、すぐ目の前にだれかが立っていることに気づいて、ぎくりとした。
「うわっ! ……え? あれ?」
人だと思ったものは、等身大の氷の彫像だった。長い髪と長衣の裾を床にひきずった、端整な顔立ちの女。睫毛の一本一本まで判別できるほどに精緻で、まるで、生きた人間がそのまま氷と化したように見える。
「この人はねー、たぶん生きてるー」
クレシュは、彼女にしては珍しく、氷像に向かって丁寧にお辞儀をした。
「来るたびに、場所も姿勢も違うからねー。だれも見てないところではふつうに動いてるか、目に見えないほどゆーっくり動いてるか、どっちかだと思うー」
「お、お邪魔してま……す」
ゼノは慌てて姿勢を正し、ぎこちなく挨拶した。
なるほど、これが生き物なら、人間業とは思えない造形にも納得できる。改めて見回せば、室内には氷でできた寝台や椅子などの家具があり、生活の気配が感じられないこともない。
「ほかの部屋にもいるよー。だれとも話したことはないけどー」
クレシュは、隣の扉も開けて見せた。
こちらの部屋には、椅子に座って竪琴を抱える氷の男がいた。同様に整った顔で、長い髪を垂らし、長衣をまとっている。闇の王子バルデルトを彷彿とさせる姿だ。もっとも、この氷の人々に比べれば、バルデルトのほうがずっと人間らしい。
扉を閉め、ふたたび廊下を奥へ進むと、やがて明るい円形の広間にたどり着いた。
どうやらそこが建物の中心らしく、いま歩いてきたのと同じような廊下が八方に伸びている。広間の天井は高く、吹き抜けのようになっていて、上から幻想的な虹色の光が差し込んでいる。
その光に照らし出された床には、下へと向かう氷の螺旋階段があった。
「鍵は、この下だよー」
内部を熟知しているらしいクレシュは、自分の家のように慣れた様子で階段を下りはじめる。
ゼノはおっかなびっくり、きらびやかな手すりにつかまって、そっと足を下ろした。なんとか歩けそうだが、一度でも滑ったら一巻の終わりだ。下は深く、階段の先は暗がりに溶けこんでいて、どこまで続いているのかわからない。
階段の段差が大きいので、トアルはユァンに運んでもらうことにした。
虹色の光に満ちた地上から、黒い奈落の底へ。一足ごとに周囲が暗くなるが、氷の壁や手すりはわずかな光をとらえ、瞬くように輝いている。空気はますます冷え、手袋ごしに手すりを握りしめても、繊細な装飾が溶ける兆候はまったくない。
だがしばらく進むと、こんどは下の方に光が見えた。螺旋階段の終着点に扉のない出入口があり、そこから青白い光が滲むように漏れ出ている。
階段を下りきって新たな部屋を覗きこんだゼノは、思わず息を呑んだ。
上階よりもさらに大きな円形の広間の中央に、巨大な球体──大人が数人がかりでも抱えられないほど大きい氷の球体が浮かび、その周囲を、跪いた氷の戦士たちが外側を向いて取り囲んでいる。
光源はその球体だった。全体がぼうっと輝き、大広間を淡い青色に染めている。
「あの玉の中ー」
言われて目をこらしたが、遠くてよく見えない。
近づこうと足を踏み出したそのとき、上の方で物音がした。
規則正しく、何かを打ちつけるような、こすれるような──階段を下りる足音だ。一人ではない。かすかに話し声も聞こえてくる。
「──なの?」
「────かな」
「──ゆっくり──けて」
四人は無言で顔を見合わせた。ゼノは慌ててあたりを見回したが、ほかに通路もなければ、隠れるような場所もない。だれからともなく出入口から離れ、壁際に身を寄せる。トアルはゼノの後ろにはりついた。
足音と声がしだいにはっきりしてくる。
「──うに──この下に鍵が──」
「──お告げは──った──」
聞き耳を立てていたユァンが、合点がいったというように緊張を解いた。
「この声は、あいつらじゃ」
小声で言う。
「勇者一行」
「っ──」
声を上げそうになったゼノの口を押さえて、ユァンが続ける。
「残念ながら、目的は同じだったようじゃな。しかたがない、しばらく様子を見るとしよう」
やがて足音は間近に迫り、毛皮の靴とかんじきで重装備した足が階段を下りてきた。膝が現れ、腰が現れ、肩が現れる。無事に最後まで下りきった三人の人間は、先ほどのゼノと同じように、広間の中を見て目をみはった。
帽子と襟巻で顔はほとんど隠れているが、事前にユァンから聞いていた情報で、おおよその察しはつく。大剣を背負った長身の男が剣士、杖を持っている男が魔法使い、着ぶくれしてもなお起伏に富んだ体つきの女が神官だろう。
「これは──」
球体に気を取られていた剣士が、ようやくゼノたちに気づいてはっと身構えた。
「何者だ!?」
「……え、えーと……俺たちは旅人だけど」
ゼノは泥棒の習性ですらすらと嘘をついた。
「雪道で穴に落ちて、気づいたらここに……あんたたちは?」
こういうとき、トアルがいるのも強みだ。子連れだと相手の警戒が甘くなる。ゼノとトアルは血のつながった親子にしか見えないので、人さらいに間違われることもない。
「我々は勇者だ」
案の定、疑う様子もなく剣士は答えた。
「ここは一般人のいるべきところではない。早急に立ち去りたまえ」
「は、はあ……でも、帰り道がわからなくて」
「むう」
剣士は黙りこみ、ためらうように階段の方に目をやってから、連れの二人とひそひそ相談した。
「しかたがない」
やがてゼノたちに向かって言った。
「用がすんだら外まで送ってやる。危険だから、なるべく隅の方に避難していたまえ」
階段を上ったとしても、広間からつながる八本の廊下のどれを選べば外へ出られるのか、口で説明するのは難しい。道案内のためにこの階段を上り下りする面倒を秤にかけて、妥協したというところだろう。
ゼノたちが言われたとおりにすると、勇者一行は氷像の間を通って氷の球体に近づき、中を透かし見た。
「見えるか?」
「うーん、なんとも」
「暗くてよく見えないわね」
「ともかく、この中にあるのは間違いない」
剣士が、指の背で球面を叩きながら言う。
「どうやって出す?」
「氷だからな、溶かせばいいと思うが」
魔法使いの言葉に、神官が異議を唱える。
「でも、これだけ大きな氷を溶かしたら、水浸しになって、部屋まで溶けたりしない?」
「部分的に溶かせばいいのでは? 中心まで細い穴をあければ」
「それでいこう。頼む」
剣士と神官が後ろに下がり、魔法使いが前に出て杖を掲げた。
空中に炎の玉が生まれ、静かに進んで氷の球体に接触する。炎が少し大きくなり、氷を舐めるようにちろちろと揺らめいた。
球面に変化はない。
「もう少し強く」
剣士の声に、魔法使いが杖を握る手に力をこめる。
炎がひとまわり大きくなったが、やはり変化はない。
「あー」
最初に異変に気づいたのは、クレシュだった。
「氷の人たちがー」
見ると、球体を囲んでいる氷の戦士たちの体から、白い靄が立ちのぼっている。湯気──蒸気だ。戦士たちの表面を覆っていた霜が溶け、水滴ができはじめている。
クレシュの声にも気づかず、勇者三人は球体を溶かすことに集中していた。
炎が強くなるほど、球体の代わりに氷像が溶けていく。表面が濡れて透明になり、髪の筋や衣類の襞がなくなって、少しずつ輪郭が崩れだす。
ゼノは心配になった。氷の人々が生きているのなら、溶ければ死ぬのではないか? クレシュを見ると、彼女も迷うような表情を浮かべている。
「くそ、効果なしか」
剣士が舌打ちし、球体を拳で叩いた。
そのとたん、ばしゃりと音を立てて氷像がいっせいに溶け落ち、勇者たちははっと振り返った。
床に広がった水たまりが、球体に吸い寄せられるように中心に向かって移動した。勇者たちが慌てて飛びのくと、水は球体のすぐ近くで盛り上がり、みるみる人の形をとりはじめ、こんどは立ち姿の戦士たちとなって凍りついた。
「おおー」
「なんと!」
クレシュとユァンが感嘆のつぶやきを漏らし、ゼノはほっとして肩の力を抜いた。
だが勇者たちはそれどころではなかった。
「な、なんだこれは!」
剣士は背中の大剣を抜いて構え、魔法使いは杖を盾のようにかざし、神官は祈るように両手を組んだ。
いちはやく自分を取り戻した剣士が、正面の氷の戦士に向かって大剣を振り下ろす。
戦士はあっけなく粉々に砕けた。
ところが、床に散らばった欠片はたちどころに集まり、こんどは短剣を振りかざした姿勢で復活する。
剣士は横に薙ぎ払った。両隣も巻き添えにして、三人の戦士が砕け散る。また同じことが起こり、氷像に戻ったときには、一人は短剣を突き出し、一人は長剣をかまえ、一人は弓を引き絞っていた。
ふたたび薙ぎ払うと、復活した瞬間、弓の戦士の手元から氷の矢が放たれる。
「危ない!」
神官がとっさに両手を掲げ、剣士の前に光の壁をつくって防御した。
矢は弾かれたが、球体に当たって逸れ、別の戦士を貫いて砕く。砕かれた戦士は斧を振り上げて復活した。その斧がすぐ目の前に現れたため、驚いてよけようとした魔法使いが足を滑らせ、杖でさらに別の戦士を叩き壊してしまう。
そこからはもう混乱の極みだった。
だれかが何かするたびに別の戦士が攻撃態勢に入り、陣形が複雑になるにつれ巻き込みも増えて、破壊から復活までの回転がより速く、範囲がみるみる拡大していく。あっというまにすべての戦士が参加し、勇者たちは球体に近づくことはおろか、離れることも困難になってしまった。
「これは愉快」
ユァンが楽しそうにこっそりつぶやき、ゼノに顔を寄せて囁いた。
「あの愚か者たちにめくらましの術をかけてやる。そのすきに近づいて、取ってくるがいい」
「え? でも、触ったら俺も襲われるんじゃ?」
「見たところあれは、攻撃に対する防衛反応じゃ。神の力は攻撃ではないから、大丈夫じゃろう……たぶん」
「たぶん……?」
不安な物言いにゼノがためらうと、クレシュも口添えした。
「おにーさんには〈祝福〉があるからねー。敵とは判断されないはずだよー……たぶん」
「やっぱりたぶんなのかよ!」
結局、決心がついたのはトアルのおかげだった。それまでつかんでいたゼノの服を、トアルが送り出すようにそっと離した。危険を感じていないということだ。
「わかった。ユァン、やってくれ」
球体までの道筋を頭の中で試行錯誤しながら言うと、ユァンはにんまりうなずき、勇者たちに向かってふっと息を吹きつけるようなしぐさをした。
とたんに勇者たちの挙動がおかしくなった。
何もない空間を攻撃したり、焦って身を伏せたり、かってに転倒したりと、てんでばらばらな行動をとりはじめる。三人の視線がそろって向こうを向き、完全にこちらが死角になると、ユァンが合図した。
「いまじゃ」
ゼノはそろそろと移動を開始した。
勇者たちが見えない敵と戦っているので、氷の戦士たちは壊されることもなく、思い思いの姿勢でかたまったまま微動だにしない。なるべく広いところを探し、戦士と戦士の間に体を滑りこませる。衣服がこすれてひやひやしたが、戦士たちに傷がつくことはなく、無事に通過することができた。
凍った球面に手を触れてみても、戦士たちに変化はない。
──これをヒラいたら、どうなるんだ? いきなり水になったりして? 砕けるとか? ヒラいたとたんに襲われたらどうしよう? ……まあ、やるしかないか。
『ヒラケ』
意を決して唱えると、手の下の球面がぷるんと震えた。
凍っていたのが溶けた──のだろうか。表面の霜が消えて限りなく透明になったが、球体そのものの形は崩れなかった。押すとわずかに弾力がある。たとえるなら煮凝りのようだ。巨大な球状の透明な煮凝りが、泰然自若として宙に浮かんでいる。
当惑して振り返ると、クレシュが球体を指さして口をぱくぱくさせていた。
視線を戻す。球体の中心に黒っぽいものが見える。
──あれが鍵か。
球面をもう少し強く押してみた。押し返してくる力が消え、ずぶりと手が球体の内部に沈む。すばやく周囲に視線を走らせたが、氷の戦士たちが反応する様子はない。さらに押すと、肩口まで簡単に呑みこまれた。球体が大きいので、中心にはまだ届かない。
──うへえ、しかたない。
ゼノは大きく深呼吸し、息をとめて前進した。煮凝りの中に頭から潜り、目をつむったまま手探りすると、硬いものが指先に触れた。それをつかむや、球体から飛び出して大急ぎで息をする。
ふたたび慎重に戦士たちの間を抜け、仲間のもとに戻ってから、手を開いて中を見た。
鋭く半円を描いた──黒い鉤爪。
不思議なことに、腕も頭も濡れてはいなかった。球体の内部に潜ったのではなく、ものすごく伸縮性に富んだ表面を、中心まで押しこんだだけだったのかもしれない。
クレシュが鉤爪を懐にしまいこむのを見届けてから、ユァンが肩をすくめて言った。
「そろそろ阿呆どもを助けてやるか」
勇者三人は、見えない敵とまだ戦いつづけている。
「おおい、あんたら!」
ユァンが声をかけると、めくらましの術が解けたらしく、夢から覚めたようにあたりを見回した。
「その氷の像を引きつけながら、なるべく隅の方へ逃げるんじゃ。遠くへ引き離してしまえば、玉に近づけるんじゃないかね?」
「なるほど! かたじけない!」
剣士はすぐに意図を理解し、大剣を振り回して届くかぎりの戦士たちを薙ぎ倒した。復活する前に急いで離れ、復活してきた戦士たちをまた倒す。それをくりかえして数人を壁際まで誘導すると、残りの戦士たちも同様にして集めはじめる。
魔法使いと神官は、広範囲の魔法が邪魔になるとわかったらしく、隅に寄って見学に徹した。そのおかげもあり、まもなく氷の戦士たちは一か所にまとまって動かなくなった。
「はあ、はあ……助かりました。旅のお方」
戦士たちの包囲から脱出してきた剣士が、肩で息をしながらユァンに礼を言った。
「お互い様じゃ。こっちはあとで道を教えてもらえると助かるのでな。ささ、早く用をすませてくだされ」
促されて中央に集まった勇者一行は、球体の様子が一変していることに気づいて息を呑んだ。
「これは……!?」
「どういうわけ? 守っていた像が離れたから?」
実際にはゼノがヒラいたからだが、四人そろって素知らぬ顔を決めこんだ。
「わからないが……ともかく、これで鍵が取れる」
剣士はためらうことなく球体に手を突き入れた。そのまま中をかきまわすように探ったが、当然のことながら手ごたえはない。
「外から見えるか?」
「いや」
「何も見えない」
凍っていたときと違い、いまの球体はほとんど透明だ。中に入れた剣士の腕の動きは、指先まではっきり見える。
「もしかして……」
「ない!?」
「ええっ!?」
剣士は頭から球体に突っ込み、中でやみくもに両手を振り回した。魔法使いと神官もそれに続き、三人は球体の中でひとしきり奇妙な踊りを披露したあと、諦めて外に出て床に座りこんだ。
「やられた……!」
「また先を越されたのか!」
「もう、またぁ!?」
悔しがる彼らの言葉が気になって、ゼノはつい口を挟んだ。
「あのう……また、って?」
剣士がはっと我に返り、醜態をごまかすように咳払いした。
「わ、我々は、太陽の女神からじきじきに任命された、正統な勇者なのだよ。魔王討伐のため、魔王城の四つの鍵を集めているのだが……勇者を騙る偽者がいて、我々の先回りをしているらしい」
「勇者の偽者?」
「うむ。最初は、鼬の魔物の村だった」
「ほほう、そんな魔物が?」
鼬と聞いて、ユァンが首を突っ込んできた。
「まさしく。服を着て二本足で歩く、大きな鼬どもだった」
「そいつらと戦ったのか?」
「戦おうとしたが、ものすごく強くて……恥ずかしながらまったく歯が立たなかった。そのうえ、鍵はもう勇者が持っていったと言われて……相手にもされず放り出されたしだい」
「それはそれは、災難じゃったのう」
ユァンがしらじらしく相槌を打ったが、剣士は気づくはずもなく話を続けた。
「つぎは大蜘蛛の住む洞窟だったが、そこでもまた、鍵は勇者が持っていったと言われた。食われそうになったので、命からがら逃げ出して……三番目のここでもまた……! くそっ、こんな調子では、とうてい魔王討伐など……!」
──うん、無理だろうなあ。
ゼノは胸の内で同意した。
素人目に見ても、この三人が魔王に太刀打ちできるとは思えない。だがそんなことより、この微妙にずれた話は、いったい何なのか。
「女神に任命されて勇者になったって言ってたよねー」
それまで黙っていたクレシュが、我慢しきれなくなったように口を開いた。
「鍵の場所も、女神が教えてくれたのー?」
「そうだ」
剣士はうなずいた。
「夢のお告げで、女神が指示を出してくださる。我々は、それに従って旅をしているのだ」
「そうかー。すごいねー」
それ以上言葉が続かず、話は尻すぼみに終わった。
「さて、もうここにいても意味がない。出口まで案内しよう」
剣士が吹っ切るように両膝を叩き、そう言って立ち上がった。
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