6-5

 歩いても歩いても森は終わらず、朦朧としたままゼノは惰性で足を動かしつづけた。

 先ほどのにわか雨でずぶ濡れになった衣服や髪が乾きはじめても、まだ先が見えない。それでも、正しい方向へ進んでいると確信できるのは、トアルのおかげだ。

「どっちへ行ったら早く森から出られるか、わかるか?」

 出発前、試しに聞いてみると、トアルは迷うことなく指さした。

「あっち」

 かくして数時間、ゼノはトアルとともに黙々と歩いている。

 ──とりあえず、歩けるだけ進むとして。いろいろどうしたものか。

 荷物は、カーネフに捕まったときになくしてしまった。水も食料もないが、昨夜も今朝も充分食べているので、しばらくはもつだろう。馬車で運ばれている間に寝てしまったが、途中で起こされなかったことからしても、それほど長距離を移動したわけではないと考えられる。大丈夫、死ぬ前に森から出られるはずだ。

 ──クレシュもユァンも、いまごろ探しているだろうな。

 どこへ飛ばされたにしても、二人のことだ、平気な顔で戻ってくるに違いない。合流するには、最後にいっしょだった宿場町へ行くのが最善だと思われるが、問題は自分たちがそこにたどり着けるかどうか……。

 ──うーん、町の名前も覚えてないしなあ。

 などと、とりとめなく考えていると、どこからか鳥のはばたく音が聞こえてきた。

 飛んできた一羽の烏が、近くの木の枝にとまって口を開いた。

「やっと見つけたわ、このヘンタイ勇者」

 忘れようにも忘れられない、鳥女ガレアの声だ。

「うわ、おまえ!? どうしてここに!?」

「ありがたいと思いなさい! バルデルト様に言われて、わざわざ探しに来てやったのよ!」

 よもや、彼女の罵声をうれしく思う日が来るとは思わなかった。

「あんた、ひどく臭うわよ! 何日体洗ってないのよ! しかもこってり光の魔力にまみれて! どうりで見つからないはずだわ!」

 言われてゼノは衣服の胸元を嗅いでみた。確かに汗臭い。隣でトアルも、自分の体を懸命に嗅いでいる。

「と、とにかく……来てくれてありがとう。本当に助かった」

 素直に礼を言うと、烏は意表を突かれたように首をのけぞらせた。

「……ふ、ふん! 礼ならバルデルト様に言うことね!」

「探してくれてたってことは、俺の仲間たちもいっしょなのか?」

「仲間? ああ、あのアバズレとケダモノのことね。いっしょじゃないけど、そろそろ、最後に行った宿に着くころじゃない?」

 予想どおり、クレシュとユァンも、罠のはられていたあの宿を目指しているらしい。

「そうか、それならよかった。……えーと、迷惑ついでに、その宿まで道案内してもらえると、さらにありがたいんだけど──」

「まったく、あんた本当にそれでも勇者なの? 甲斐性がないにもほどがあるわ。──安心なさい、バルデルト様がじきじきに送ってくださるそうよ」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ゼノの足元の影が水面のように揺れ、そこからバルデルトの頭がぬうっと生えた。

「ぎゃあ!!」

「うおおお!!」

 二人は同時に悲鳴を上げた。

 ゼノは純粋に驚いただけだったが、バルデルトは苦しそうに顔を歪めている。

「な、なんだ、その光は……」

 バルデルトはずるずると全身を抜き出すと、よろめいて手近の木の幹にもたれかかった。

「そなた……余を殺すつもりか……」

「え……?」

「ヘンタイ勇者、その光の魔力をなんとかしなさい! バルデルト様のお体に障るわ!」

「なんとかって……えーと」

 先ほども言われたが、光の魔力とは? 思い当たることといえば、白装束たちに魔法をかけられたせいか、あるいはアルテーシュとやらの近くにいたせいか。いずれにしても、ゼノ自身は何も感じないし、どうしたらいいのかさっぱりわからない。

「よい……余がなんとかする」

 バルデルトが呻き、ゼノの体を払うように長い袖を一閃させた。

「まあ! さすがですわ、バルデルト様」

 烏のガレアが感銘したように称賛したが、ゼノにはやはり、何がどうなったのかわからなかった。

「ともかく、これで連れていける」

 調子を取り戻した闇の王子が、両手を伸ばしてゼノとトアルの肩に触れた。

 その瞬間、三人の足場が柔らかく溶け、底なし沼のように沈みはじめる。

「ぎゃあああ! 待って! 何を──」

 泥のような闇に飲み込まれ、ゼノは最後まで言うことができなかった。

 ──まずい……息が、できな……。

 だが、窒息の恐怖にもがいたつぎの瞬間には、別の影から飛び出して床の上に倒れていた。

「……はあ……はあ……び、びっくりした……」

 顔を上げると、バルデルトとトアルが平然と立っている。

 ゼノは恥ずかしくなってそそくさと立ち上がり、周囲に目をやった。見覚えがあると思ったのも当然、カーネフの一味に取り囲まれていた、あの部屋だ。

 ──直行かよ。

 オリヴィオといい、アルテーシュといい、バルデルトといい……こうも簡単に移動させられると、自分の足で旅をする必要があるのかどうか、疑問に思えてくる。とくにオリヴィオの場合、鍵が取り出せないだけなら、自分を連れて各地をまわってくれればすむのではないだろうか。それとも、〈勇者〉は自分の足で歩かなければならない決まりでもあるとか……?

 浮かんだ小さな疑念をこねくりまわしていると、頭上でかすかな物音がした。

 ──カーネフ? いや、クレシュたち?

 トアルを見たが、警戒している様子はない。

 ──じゃあ、敵はいないな。

 安心して階段を上りはじめると、トアルとバルデルトもついてきた。

 細長い廊下の片側に、等間隔に扉が並んでいるが、突き当たりの扉だけ中途半端に開いている。

 ──あそこか。

 そこまで歩いて扉に手をかけたとたん、中からものすごい勢いで抱きつかれ、唇を重ねられた。

 と思ったら、もっとすごい勢いで突き飛ばされ、気づいたときには大の字に倒れていた。

「おにーさん、くさーい」

 鼻をつまみながら言ったクレシュの言葉が、胸のど真ん中に突き刺さる。

 ──ひどい……。

 心折れながら、ゼノははっと気づいて自分の唇に手をやった。

 ──いまのって……? え……?

 無事を喜んで、つい衝動的に行動しただけなのか。それとももう少し、違う意味がこめられていたのだろうか。

 だが、それについて深く考えるより先に、ゼノの鼻は不穏な異臭を捉えていた。

 錆びた鉄のような──生臭い匂い。

 それに混じって、排泄物のような悪臭もする。

 体を起こして部屋の中を見たゼノは、文字どおり絶句した。

 室内は血の海だった。

 気を失わなかったのは、ひとえに、そんな余裕もないほど衝撃が大きかったためだ。

 ある者は椅子に座ったまま、ある者はテーブルに突っ伏し、ある者は床に倒れ──全部で十人ほどの男たちが、一様に首を掻き切られて絶命している。

「わしらではないぞ」

 奥にいたおやじ姿のユァンが、憮然として言った。

「着いたときには、すでにこうなっておった」

 ユァンが、テーブルに伏せていた男の髪をつかんで持ち上げる。

「……っ!」

 ゼノは吐きそうになって手で口を押さえた。

 カーネフだった。

 濁った目を見開き、血まみれの顔に呆けたような表情を浮かべている。きっと、あっという間の出来事で、自分が死ぬこともわかっていなかったのだろう。

 テーブルの上には、金貨の入った袋が手つかずのまま置かれている。

 ──いったいだれが? 何のために?

 すぐに、白装束の不気味な姿が脳裏に浮かんだ。

 取り引きのあとで、口封じのためにやったのだろうか。それともまさか、自分たちの神を救った者への礼として、その敵を排除したということは──。

 ゼノはぶるっと身震いした。

 ──まさかな……いや、まさか……。

 もちろん自分だって、カーネフへの報復を考えなかったわけではない。だが、こんな結末は──。

 口封じでも警告でもなんでもいい。どうか、自分に対する報酬以外の理由であってほしい。

 カーネフの死に顔から目をそらせないまま、ゼノはそれだけを強く願った。


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