第五章 にわか勇者、虜になる

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「なんだ、こりゃ―――――っ!?」

 蜘蛛の巣穴を後にしてから三日目の朝、野営地で目を覚ましたゼノは、目の前の光景を見て叫び声を上げた。

 右にやわらかなクレシュ、左にふさふさのユァン。そこまではまあ、いつものこととして……自分の腹の上でうつぶせに寝ているのは、どう見ても──五歳ぐらいの子供。

 ──だ、だだだ、だれ……!?

「……んー……」

 ゼノの声で起きたのか、子供はもぞもぞと動きだして顔を上げた。

 まだ眠そうな目蓋の下から現れたのは、見覚えのある琥珀色の目だ。

「──ト……トアル?」

「んー、おとうさん」

 ──言葉までしゃべってるし!!

 ゼノが目を白黒させているうちに、ほかの二人も起きだして異変に気づいた。

「あれー、小さいおにーさんー」

「トアル、ソダッタ」

 二人の反応はそれだけだった。

 クレシュは朝食の準備にとりかかり、ユァンは用でも足すのか、林の方へ歩いていってしまう。

 ゼノはこわごわ起き上がり、トアルを膝の上に乗せた。子供はおとなしくされるままになり、信頼しきった目でこちらを見つめてくる。

 擬態というが、どこからどう見ても完全に人間の男児だ。頭部はもとより、やわらかな肌といい、手足の小さな爪といい、健康な子供そのもので、全身の釣り合いもちょうどいい。臍もあるし、排泄器官まで完璧だ。逆にこれが、竜の化けたものだというほうが信じがたい。

 はっと気づいて聞いてみる。

「おしっこ、するか?」

「うん」

 立ち上がって手を引くと、トアルは上手に歩いてついてきた。

「うんこは?」

「でる」

 林の中に入り、地面に穴を掘って跨がせてやると、トアルはまるでいつものことのように慣れた素振りで用を足した。排泄物も人間そっくりだ。

 ユァンの変身は幻術だと思って深く考えないようにしていたが、これはまったく勝手が違う。卵から孵ったばかりの仔竜が、仮親と認めた人間の赤ん坊に姿を変えたばかりか、三日目にいきなり五歳程度に成長し、言葉まで覚えている。もっとも、初めから乳を必要とせず、大人と同じ食事をとっていたので、あくまで実体は竜ということか。

 後始末を終えて野営地に戻ると、クレシュは鍋のスープをかきまぜ、先に戻っていたユァンは、久しぶりに見る老婆の姿で、椀に入れた怪しげなものをすりつぶしていた。

「なあ……これって」

 ゼノはだれにともなく言った。

「擬態の意味、あるのか? そりゃあ見た目はそっくりだけど、急に大きくなったり、三日で言葉も覚えたり……。人間離れしすぎ、っていうか、はっきり言って擬態失敗してるだろ?」

「阿呆。おぬしはあいかわらず短絡的じゃのう」

 ユァンが、椀の中身の出来栄えを確認しながら、じろりとゼノを一瞥した。

「わしらはすでに知っているのじゃから、わしらの前で何をしようが問題はなかろう。そんなことは、擬態竜の本能でお見通しじゃ。むしろこの子は、状況を判断して、わしらに協力してくれたのじゃと思うぞ」

「協力?」

「考えてもみよ。わしらは家を持たぬ旅暮らし。すべて任せきりの赤子の姿では、いざというときに単独行動もとれぬし、足手まといになる場面も多い。じゃからして、自分だけで逃げたり隠れたりできる最低限の能力を持ち、かつ、おぬしの庇護欲が減退せぬほどのかよわさも維持しているという、絶妙な身体年齢に修正したと、こういうわけじゃ」

「ええっ、そういうことなのか!?」

「まことに神は、救いようのない阿呆じゃのう。生まれたてのこの子のほうが、よほど賢いわ」

 ユァンはどっこいしょと立ち上がると、近づいてきてトアルに椀を差し出した。

「ほれ、おあがり。体が元気になるはずじゃ」

 中には、異臭を放つ泥のような粘液が入っている。

「そ、それは……?」

 ゼノがひきつった顔で聞くと、ユァンは事もなげに答えた。

「竜のための滋養強壮剤じゃよ。無理に姿を変えて、体力を消耗したはずじゃからの。火竜に効くから、擬態竜にも効くはずじゃ」

「ありがとう、ユァン」

 トアルは行儀よく椀を受け取ると、その得体のしれない代物をいかにもうまそうに飲み干した。

「ごちそうさま」

「よしよし、いい子じゃのう」

 ユァンは、目に入れても痛くないという様子でトアルの頭を撫でると、あいた椀を洗いに小川の方へ下りていった。

「みんなー、ごはんできたよー」

 トアルを焚火の前に座らせようとして、ゼノは彼が裸のままだということにようやく思い至った。寒いかどうかはともかく、体裁的には何か着せたほうがいいだろう。

 自分の荷物から替えの上着を引っ張り出して着せてみた。とりあえず、裾はぎりぎり引きずらないし、袖はまくればなんとかなる。靴は、クレシュが予備を一足持っていたので、それに詰め物をして間に合わせた。人里に出たときに、体に合ったものを調達しなければ。

 朝食を終え、出発してじきに、ゼノはユァンの言っていた意味がわかった気がした。

 トアルは見かけよりずっとたくましく、間に合わせの靴にもかかわらず、クレシュとユァンの後を軽々とついていく。むしろ足手まといになっているのはゼノのほうだ。

 ──いや、これやっぱり、擬態失敗してるって。保護者より強いってどうなんだよ。

 心の中でぼやきながら、とはいえこれでよかったかもと思いなおす。足手まといの自分が赤ん坊を抱えて歩くことに比べれば、このほうがはるかに効率的だ。

 途中、山賊に襲われかけたのをきっかけに、いったん町で必要なものをそろえようということになった。街道に出て、買い物のできそうな大きな町を目指す。

 人の往来はそれなりにあったが、以前とは雰囲気が違うことにゼノは気づいた。全体的に活気がないというか、暗い表情をしている者が多い。商品ではなく、家財道具を積んだ荷車も目立つ。

 町に着いてそれとなく聞いてみると、山向こうで大規模な戦闘があり、避難民が流れてきているのだという。しかも、魔物に襲われたのではなく、人間同士の紛争らしい。

「いったい世の中どうなってしまうんですかねえ。あっちでもこっちでも魔物が暴れだしたと思ったら、こんどはこれですよ」

 ここまでそんなのが来たら、私は諦めて死ぬしかありませんねえ──と言い残して、その老いた住民は杖をつきながら去っていった。

 これが、オリヴィオの心配していた事態だろうか。自分の腰にしがみついているトアルの頭を撫でながら、ゼノは漠然と思った。魔物の襲撃も、人間同士の争いも、こんな旅を続けている自分には実感が湧かない。それでも、不穏な空気は感じる。

 初めて大勢の人間を見たトアルは、はしゃぐでもなく、怯えるでもなく、慎重に周囲を観察しているようだった。

「あら、おとなしくて、お利口さんねえ」

 褒められればにこっと笑い、そつなくふるまう。幼い竜の学習能力に、ゼノは舌を巻くばかりだ。

 ひととおり衣類を購入して店を出たそのとき、トアルがゼノの手をきつく握りしめてきた。

「こわいひと、みてる」

「怖い人?」

 慌てて周囲を見回したが、通りにそれらしい姿は見えない。

「まだいるか?」

「ううん、いなくなった」

 トアルの感知能力は、おそらく人間よりずっと鋭い。

 ゼノはトアルの手を引いて、前を行く護衛二人に急いで追いついた。

 ──トアルを狙っていたのか? それとも──。

 ゼノはふと、オリヴィオと会った晩のことを思い出した。路地裏まで自分をつけてきた怪しい影たち。まさかとは思うが、彼らがまだ尾行を続けていたとしたら……?

 ──だとしたら、いったい何のために?

 尾行そのものよりも、得体の知れなさにぞくりとした。


「ま、トアルは言うまでもなく、神だって価値がないわけではないからのう」

 町を離れて森へと向かいながら、おやじ姿のユァンが言った。

「肉はないが骨太じゃから、骨好きには好評だろうし、妙に魔物受けがいいから飼いたいという物好きもいるかもしれん。あ、そうそう、一瞬でみんなを脱がせる宴会芸も受けそうじゃのう」

「……ユァン……おまえのなかの俺の価値って……」

「冗談じゃ」

 ユァンは鼻息荒く言い切った。

「じつのところ、拙者は非常に腹を立てているのじゃ。我が神をつけまわすなど無礼千万。だがそれ以上に、すぐ近くにおりながら、不届き者の気配に気づけなかった拙者自身に、はらわたが煮えくり返っておる。ええい、なんと不甲斐ない! なんと口惜しい!」

 どうやら自己嫌悪のあまり八つ当たりしていたらしい。

「いや、まあ、しかたないよ。どっちが標的かはわからないけど、トアルはまともに視線を受けていたから気づいたんだろうし。ほら、擬態竜の防衛本能とかすごそうじゃないか」

「くうう……面目ない」

「あの、俺としては、こうして護衛についててもらえるだけで、すごくありがたいっていうか……ユァンとクレシュがいなかったら、俺いま絶対生きてないから!」

 言いながらゼノは、改めて、ユァンの真意が気になった。

「なあ、ユァン。前々から思ってたんだけどさ、なんで俺たちにここまでつきあってくれるんだ? 俺が本当の神じゃないってことは、承知の上なんだろう?」

「神は神じゃ」

 ユァンは大まじめな顔で言った。

「我が一族には言い伝えがあってのう。いつの日か、印ある神が現れ、世界を紐解くじゃろう、と。おぬしは間違いなく、印ある神にして紐解く神じゃ」

「紐解くって……直訳すぎなんじゃ……」

「世界を救うのでも、滅ぼすのでもない、ただ紐解くのみ。その神にお供できるとは、これほど胸躍ることがほかにあろうか!」

 ──ユァンよ、おまえもか。

 ゼノは、漏れそうになった笑いをなんとかこらえた。

 暇だから同行すると言っていたのは、本当に本音だったようだ。この先を見ないと後悔する。そんな炎の誘惑に勝てなかった夏の虫が、ここにも一人──いや、一匹?

「そうか……なら、いいんだ。すごい使命感とか、信仰心とか持ってたらどうしようって思っただけ。ちょっと……いや、だいぶほっとした」

「何を言う! 信仰心も使命感も十二分にあるぞ! 拙者は神の守護者なり!」

「じゃー、あたしは勇者の案内人―」

 クレシュが張り合うように口を挟む。

 二人の口から出ると、神や勇者という言葉が、単なる職業か何かのように聞こえてしまうから不思議だ。もっとも、そうでなかったら、ゼノもこれほど悠長に構えてはいられなかっただろう。

 ──職業っていうか、あだ名? うん、それだな。

 そう考えると、一気に気が楽になった。

 自分は神などではないし、勇者ですらない。泥棒のほかに才のない小悪党で、世界の命運よりも、自分の楽しみのために旅をしている。

 ──なんだか、都にいたころが夢みたいだ。

 もう日にちを数えることもやめてしまったが、旅を始めてからせいぜい一、二か月しかたっていないはずだ。その間に、これまでの人生の数十倍もの経験をした。いろいろな意味で人間離れした道案内人に、人外の護衛、おまけに人外の息子までできたが、この奇想天外な道行きにもすっかりなじんでしまった感がある。この旅が終わったら、はたして自分は元の生活に──いや、人間の暮らしに戻れるのだろうか。

 などとのんびり考えていたそのとき──。

 前を歩いていたトアルがびくりとして振り返ったのとほぼ同時に、ゼノは何かに体をつかまれ、強い力で宙に引き上げられていた。

「おとうさん!」

 みるみる遠くなる眼下に、巨大な黒い鳥が群れをなして三人に襲いかかっている様子が見える。

「ユァン、トアルを!」

 夢中で叫んでから、ゼノはようやく何が起こったのか理解した。

 鉤爪の生えた巨大な指で胴体をわしづかみにされ、空を飛んでいる。無理に体をねじって見上げると、視界の端に黒い羽毛が見えた。おそらく、三人を襲っているのと同じ鳥だ。

 ──もしかして、餌だと思われた……?

 いや、この大きさからすれば、勘違いではなくまさしく餌だ。

 ──ぎゃーっ、食われる――──っっ!!

 暴れようとしてはっと気づいた。地上ははるか遠く、立ち並ぶ木々が緑の絨毯のように広がっている。この高さから落ちれば間違いなく即死だ。切り札の呪文も使うわけにはいかない。

 ──終わった……。

 死を前にすると、一生分の思い出が一瞬で頭の中を駆け抜けるという。だがそんな現象は起こらず、ゼノが感じたのはものすごい風と寒さだけだった。

 鳥の飛翔につれて、強風が吹きつけ、体温を奪われる。息も苦しい。

 だが、温もりはあった。体をつかんでいる鳥の指だ。少しでも暖を取ろうと、ゼノは巨大な指に両手をこすりつけた。

「きゃああああ! 何をするの、このヘンタイ!!」

 頭上から悲鳴が降り注ぎ、鳥が均衡を崩してふらついた。体をつかんでいた指が開いて振り落とされそうになり、ゼノは慌ててしがみつく。

「いやーっ! やめて! いやあ────っ!」

 鳥がばたばたともがき、ゼノはますます強く取りすがった。恐慌をきたした鳥は完全に均衡を失い、きりもみ状態で落下を始める。

「きゃあああああああ!!」

「うわあああああ!!」

 落ちていく先に、巨大な湖が見えた。中央に島があり、きらびやかな城が建っている。

 巨鳥が頭から水に飛び込み、そのしぶきがゼノに押し寄せる。

 覚えているのはそこまでだった。


 甘やかな香り。やわらかい肌触り。

 ぼんやりと意識を取り戻したゼノは、心地よさに陶然となり、そのままふたたび眠りに戻ろうとした。

「勇者様」

 耳元で艶めいた声が聞こえ、こんどははっきり目を覚ます。

 見知らぬ美女の顔が、目の前にあった。

 虹彩まで黒々とした目に、長いまっすぐな漆黒の髪。透けるような白い肌とは対照的に、唇は血のように赤い。整いすぎた細面は、まるで作り物のように見える。

「あら、ようやくお目覚め?」

 別の声が響き、左側からもう一つの顔が割り込んできた。

 こちらはもっと人間味のある美女で、丸みを帯びた健康的な顔立ちに、榛色の目と桜色の唇。髪は同じく長いが、金色で豊かに波打っている。

 ──こ、これはいったい……?

 目が覚めるたびに状況が一変しているのはもはや日常茶飯事だが、さすがにこれは新しい展開だ。

 ──たしか、でかい鳥にさらわれて、水に落ちて……。

 そのあとの記憶がない。ということは、あのあとだれかに助けられたということか。

「えーと……ここは、どこ……かな……?」

 聞きたいことは山ほどあったが、口から出たのはそんな質問だった。

「ここは、我が君バルデルト様のお屋敷」

「バルデルト王子殿下の別荘ですわ」

 くすくす笑いながら、二人の美女は口々に答えた。

 ──おう……じ……?

「そ、それで……あんた……あなた、たちは……?」

「わたくしはミローデ」

 と、黒髪の美女。

「あたくしはアリエラよ」

 と、金髪の美女。

「お二人は……ここで何を……?」

「勇者様をおもてなしするようにと」

「たっぷりご奉仕させていただきますわ、勇者様」

「え……ちょっと待っ──うひゃあああ!」

 両側からなまめかしく素肌を撫で上げられ、ゼノは仰天して飛び起きた。そしてようやく自分の置かれた状況を把握した。

 五、六人並んで寝られそうな巨大な円形の天蓋付き寝台。左右に寄り添う二人の美女は一糸まとわぬ扇情的な姿で、ゼノ自身も裸だ。部屋はだだっ広く、豪奢な調度品で飾り立てられているが、手前と奥に扉があるだけで窓はない。

 問題は、ゼノの左足首に鉄環がはめられていることだった。長い鎖でどこかにつながれている。助けられたのではなく、どうやら囚われの身ということらしい。

 ──ううむ。

 枷はいつでもはずせるから置いておくとして、わからないことだらけだ。自分を勇者と認識して監禁しているようだが、バルデルト王子とやらは何者で、何が目的なのか。先ほどの巨鳥も王子の差し金だったのだろうか。もしや、これまでの怪しげな尾行者たちも?

 そこまで考えて、連れ三人のことも心配になった。クレシュやユァンがむざむざやられるとは思えないが、無事だとしても、このあとどうしたら合流できるのか見当もつかない。

「さあ、勇者様、楽になさって」

 金髪のアリエラが、しなだれかかってゼノを寝台に戻そうとした。黒髪のミローデも、横たわったまま長い手足を絡ませてくる。

 平時なら歓迎すべきこの事態も、いまのゼノにとっては不可解さと不安を増すばかりで、その気になるどころか逆効果だ。なんとか二人を振りほどいて寝台の端まで逃げたが、まだ手の内をさらすわけにもいかず、手詰まりになってしまう。

「あー、えー、お二人さん……もてなしはいいので、何がどうなっているのか教えていただけると──」

「そんなこと知らないわ。だって、あたくしも」

 にじり寄ってきたアリエラが、両手でゼノの頭をつかんで唇を押しつけてきた。

「勇者様を骨抜きにしろと、そう言われただけなんですもの」

 ──これはどうも、本格的にまずそう……。

 目的が何であれ、相手に悪意があるのはこれで確実になった。しかも色仕掛けで篭絡しようなど、力ずくよりたちが悪い。

「待った! たんま! それはやめよう!」

 慌てて押しのけたが、二人がかりでふたたび押し倒されてしまう。

「まあひどい。あたくしって、そんなに魅力がないかしら」

 ゼノの上に馬乗りになったアリエラが、胸をそらして美しい肢体を見せつけてきた。

 豊かな胸、くびれた腰。起伏に富んだ肉感的な体は、たしかに魅力的だ。だが、クレシュの神々しいまでに野性的な裸体に比べると、若干見劣りがする。

 その気持ちが顔にでも出たか、アリエラの表情が急に曇った。

「どうやら、あたくしは勇者様のお好みに合わないようね。いいわ、それならこうよ」

 彼女の榛色の目が妖しく光った。

 その瞬間、ゼノはふわりと酩酊感に包まれたが、はっと我に返った。

 ──なんだ? いまの……。

「さあ、愛しい人、こっちに来て」

 いままでとは違う、ひときわ蠱惑的な声で囁かれ、ゼノはぞっとして無意識に体を引いた。

「──え?」

 なぜかアリエラが驚きの表情を浮かべた。

「どういうこと? あたくしの力が……効いてない?」

「力って??」

「淫魔の魅了よ。老若男女、どんな人間も虜にするはずなのに……はっ、もしかして、あなた、人間じゃないの!?」

「いや、人間だと思うけど……」

 淫魔──つまり、姿は人間でも魔物か。ということは、もう一人も……。

「あなたが無理なら、わたくしが」

 案の定、アリエラを押しのけたミローデが、ゼノの上に覆いかぶさってかっと赤い口を開いた。蛇の牙に似た鋭い牙が、ゼノの首筋に勢いよく突き立てられる。痛みはほとんどなく、一瞬だけめまいがした。

「──うっ?」

 またしても、顔を歪めたのはミローデのほうだった。

「まずっ! 何よ、この味気ない血は!?」

 うまいと言われても困るのだが、まずいと言われると、それはそれで傷ついた気持ちになるのだから、人の心はおかしなものだ。

 ともあれ、二人の美女は戦意を喪失したらしく、ゼノが押し返してもそれ以上迫ってこようとはしなかった。

 噛まれた場所に手をやると、指先に血がついた。

 ──ひっ。

 それを見て、ゼノはふっと気が遠くなった。


「──たしの足を撫でまわすようなヘンタイなのよ。それなのに、二人もいて、どうして落とせないわけ?」

「だって、修行僧なみにお堅いんですもの。魅了も効かないし──」

「あまりにもまずくて、わたくしのほうが萎えてしまったわ──」

 かまびすしい声に意識を取り戻すと、室内にもう一人増えていた。

 新たな一人は、先の二人よりもっと魔物らしく見えた。顔立ちは整った女のものだが、目に白目部分がなく、黄色い虹彩と大きな黒い瞳孔が猛禽類を彷彿とさせる。頭髪の代わりに黒い羽毛が生えており、裸の体の肩口や背中、腰のあたりも羽毛で覆われている。

 聞き覚えのある声から察するに、ゼノをさらったあの巨鳥だ。鳥が本来の姿なのか、いまが本来の姿なのかはわからないが、いずれにしても鳥の魔物というわけだ。

「あら、気がついたわね、ヘンタイ」

 鳥女はゼノをじろりと睨んで言った。

「ヘンタイのうえに軟弱だなんて、とんだ勇者だこと」

「ヘンタイって……」

「あたしの足をあれだけ触りまくっておいて、いまさら否定?」

「いや……否定も何も、あれは、寒かったから温まろうと思って……」

「温まろうと? 温まるだけのために、あんな触り方をするっていうの? このドヘンタイ!」

「あんな触り方って、どんなだよ? 食われると思ったし、寒くてそれどころじゃ──」

「食う? 食うですって? あんたみたいな鶏ガラ男の、どこに食う肉があるっていうのよ? そんなに飢えちゃいないわよ!」

「いや、そういう話じゃ──」

 言いかけてゼノは口を閉じた。

 これは何を言っても無駄だ。こちらの話を聞くつもりがない。

 ──もう、帰りたい……。

「あっ、そういえば!」

 大事なことを聞くのを忘れていた。

「俺の連れはどうなった? あの黒い鳥たちは、あんたのお仲間なんだろう?」

 鳥女はさらに不機嫌な顔になった。

「知らないわよ! 本当は全員まとめて連れてくる手筈だったのに、まだ来てないわ!」

「それは──」

 やはりというべきか、これはむしろ鳥たちの心配をしたほうがよさそうだ。考えてみれば、足を触られたぐらいで動揺して墜落するような魔物が、クレシュやユァンに太刀打ちできるはずもない。

 ──まさか、殺したりは……してないよな?

 あのときのユァンは少々気が立っていたので、ありえない話ではない。とはいえ、三人の中でもっとも経験豊富で賢いのもユァンだ。ゼノの行方の手がかりをみずから断ってしまうようなことはしないだろう。

 とにもかくにも、初めての情報らしい情報だった。三人と合流できる希望が見えて、少し気持ちが落ち着いた。

 ──ここでおとなしく待っていたほうがいいか。

 へたに逃げ出して、行き違いになっても困る。会話の成り立たない魔物たちといっしょにいるのはつらいが、しばらくの辛抱だ。

 しぶしぶ覚悟を決めたそのとき、部屋の奥の扉が開いた。

「何を騒いでおる」

 重々しい声が響き、闇が入ってきた。

 闇──いや、男の姿をした魔物だ。

 床にひきずるほど長い、まっすぐな漆黒の髪。ほとんど黒に見える黒褐色の肌。額に着けられた宝冠も、まとった長衣も黒ずくめだが、よく見ると黒い宝石や黒糸の刺繍で贅沢に飾られている。

 完璧に左右対称の整った顔は、一歩進むごとに、少年のようにも老人のようにも見えた。だが、もっとも異質なのは、その目だった。一見ふつうの人の目だが、黒目部分には虹彩も瞳孔もない。均一に輝く無機質な黒。たとえるなら、黒曜石の瞳だ。

 表情の読めないその目をまっすぐ向けられて、ゼノはぞくりとした。

 恐ろしい。

 存在そのものの禍々しさに、体がすくんで動けなくなる。

「我が君」

「バルデルト様」

「王子殿下」

 女たちが口々に声を上げ、脇に退いて平伏した。

「どういうことだ」

 男の魔物──バルデルト王子は、彼女らに向かって言った。

「勇者殿のもてなしができておらぬようだが」

「恐れながら、バルデルト様」

 鳥女が頭を下げたまま言った。

「このような不埒者を、なぜもてなしてやる必要があるのでしょうか」

「拷問では、真の協力は得られぬからだ」

 さらりと怖いことを言う。

「協力?」

「さよう。余はこの者の心からの協力を必要としておる」

 ──心からの、協力って……?

 ゼノは唾を飲みこもうとして、口の中がからからに乾いていることに気づいた。協力といえば聞こえはいいが、とんでもないことを要求される予感しかしない。

「おもてなししようとはしたのですが、あたくしたちはお好みに合わなかったようですの」

 アリエラが事情を説明した。

「魅了も効果がなく……」

「わたくしも、血を吸ってしもべにしようとしたのですが、人の血とは思えない味で……」

 ミローデも口を添えた。

「ふむ」

 バルデルトはゼノに顔を向け、黒曜石の目でじっと覗きこむような仕草をした。

「ほう、これは……二人の手に負える相手ではなかったようだ」

「こんな鶏ガラでも、勇者は勇者ということですか?」

 鳥女が顔を上げ、納得できない様子で問いかけた。

「いや、この者は魔力が欠落しておる。だから幻惑の力が通用しないのだ」

「どういうことでしょう?」

「他者を操る魔力は、相手の魔力に干渉することによって、その精神に働きかける仕組みだ。相手に魔力がなければ、干渉のしようがない。血がまずいのも、魔力が含まれていないせいだろう」

「では、この者……無敵ということ……?」

「いや……そうだな、鈍感というほうが近いだろう」

「なるほど」

 鳥女はしたり顔でうなずいた。

「二人の力不足というわけではなく、この者が下等すぎたということなのですね」

「言葉が過ぎるぞ、ガレア」

 バルデルトは無表情にたしなめた。

「これでも勇者として選ばれた者だ。何かしらのとりえはあるのだろう」

 ひどい言われようだが、いっそ下等な役立たずとして放り出してもらいたい。いますぐこの男の前から逃げ出したい。

 だが当然そんなことが許されるはずもなく、許されたとしてもできそうになかった。腰が抜けたようになって、息をするのも忘れそうな有様だ。

「ところでガレア、ほかの者の到着はまだか」

「はい、申し訳ございません。すぐに確認してまいります」

 鳥女──ガレアが一礼して部屋を出ていくと、バルデルトは残った二人に向かって言った。

「場所を変えるとしよう。勇者殿に着るものを。そして外の東屋へ」


 八角形の白い瀟洒な東屋は、大きな湖のほとりにあった。

 正確には、湖に囲まれた島の端だ。ゼノがガレアとともに落下する途中、ちらりと見えた湖上の城──あれがこの、バルデルト王子の別荘だったらしい。

 湖面には薄く靄がかかり、対岸の森を幻想的に浮かび上がらせている。

「美しいだろう」

 柱の一本に手をかけ、湖の方を向いて佇みながら、バルデルトが口を開いた。

「余は、ここからの眺めが好きなのだ」

 どう反応していいかわからず、ゼノは黙っていた。

 バルデルトのものと同様の黒い長衣を着せられ、東屋の中の縁台に心もとなく腰を下ろしている。緊張のあまり、ここまでどうやって来たのかも覚えていない。足の鉄環ははずされているが、最初からそんなものは必要なかった。どんな恐ろしいものが潜んでいるかもわからないこの湖を、泳いで渡るどころか、水辺に近づく勇気さえない。地底湖の怪魚を思い出しただけで体が震える。

 ──ああ、でも、本当の勇者なら、違うんだろうな。

 たとえばクレシュなら、迷わず水に飛び込むか、あるいはこの場で戦うことを選ぶかもしれない。だが自分には無理だ。鍵を取り出すことしか能がないのに、勇者として拉致されるとは想定外、荷が重すぎる。これからどんな「協力」を求められるにしても、自分に対応できる内容とは思えない。一刻も早く助けが来ることを、切に願う。

「この眺めだけではない。世界は美しいもので満ちている。いや、醜いものや、恐ろしいもの、残酷なもの……そういったすべてを含めて、世界は美しい」

 バルデルトは背を向けたまま言った。

「魔王と太陽の女神の言い伝えを、もちろん勇者なら知っておろうな?」

 ゼノの返事を待たずに続ける。

「あれは、捻じ曲げられた偽りの物語。我らの間では、このように伝えられておる。かつてこの世界を滅ぼそうとしたのは神々であり、魔王はそれに抵抗したのだと。太陽の女神は、魔王の恋人であり、同盟者でもあった。戦いは引き分けに終わったが、魔王は斃れた。女神は嘆き悲しみ、魔王を復活させるために〈連環の儀式〉を始めたという。ところが狡猾な神々は、彼らにとっての裏切り者である太陽の女神を英雄にすりかえ、女神が魔王を打ち破ったという都合のいい神話を作り上げた。そして〈連環の儀式〉も、我々の手から奪い、復活でなく封印の手段に改変したというわけだ」

 なるほど、筋は通っている。

 蛇に睨まれた蛙のように固まったまま、ゼノは頭の片隅で冷静に考えた。

 魔王を封印するための旅なのに、鍵を守っているのが魔物だったり、その魔物たちが友好的だったりと、最初からなんとなく違和感はあった。大神官たちの語った神話に比べれば、いまの話のほうがもっともらしく聞こえる。

 とはいえ、これもまた神話だ。はるか昔の、実際にあったかどうかも定かでない物語の真相など、いったいだれにわかるというのか。

「さて、協力というのはほかでもない」

 バルデルトはゼノに向き直って本題に入った。

「これまでに集めた鍵を渡し、勇者の資格を譲ってもらいたい」

 ──来たよ。したくてもできない相談。

 ゼノは心の中で嘆息した。

 できるものならさっさと協力して解放してもらいたいところだが、ない袖は振れぬ。拷問されようが殺されようが、無理なものは無理だ。

「鍵は……持ってません」

 腹を括って──半分開き直って言った。

「仲間に預けたし、その仲間も、ほかの人に渡したかもしれません。鍵がいまどこにあるか、俺は知りません」

「ふむ」

「そもそも俺は勇者じゃなくて、勇者の代わりに鍵を集めているだけです。勇者の資格を譲れと言われても、そんなことできるのかどうか……」

「だが、胸に勇者の印があるではないか」

「これって、何か効果があるんですか? 通行証みたいなものかと」

「効果はある」

 バルデルトは心外そうに言った。

「現に、その印はいま、余を拒絶しておる」

 ゼノは、胸元をはだけて〈連環の祝福〉を覗いてみた。とくに変わりはない。痛むとか、光っているとかいうこともなく、ただの痣のようにそこにあるだけだ。

 だがバルデルトは、まぶしそうに顔をそむけた。

「それをさらすでない。目にしみる」

 胸元を掻き合わせて隠すと、バルデルトはほっとしたように息をついた。

 ゼノに感じられないのは、魔力がなくて鈍感だからか、あるいは、仮にも勇者としてこの印を受けたからだろうか。相手がこの闇の化身でなければ、からかわれているのかと思ったぐらい、本当に何も感じない。

「その……譲るって言われても、やり方もわからないんですが……それ以前に、あなたを拒絶しているものをあなたに譲っても、大丈夫なんでしょうか……?」

「むう……」

 なんともいえない沈黙が下りた。

 やがてバルデルトがふたたび口を開いた。

「そなたは、変わっておるな。魔力もなく、戦えるようにも見えないが、ずいぶん落ち着いておる」

「それは──もう、諦めているから? かも」

 他人事のようにゼノは答えた。実際、緊張の連続で気疲れが頂点に達し、すべての感覚が遠のいてぼんやりしている。自分にできることは何もないし、何かをする気力もない。煮るなり焼くなり好きにしてくれという投げやりな気持ちだ。いっそこのまま眠ってしまえたら──。

「ゼノ!」

 ふいに知った声で名前を呼ばれて、はっと覚醒した。

 目の前の空間が揺らぎ、金色の髪と青い目をした男が現れた。

「オリヴィオ!?」

「あっ、兄上!?」

 ゼノは声を上げたが、同時に発せられたバルデルトの声に、一瞬思考がとまった。

 ──あに……うえ……??

「ゼノ。君がどうしてここにいるんだ? クレシュはどこに?」

「いや、それがその──」

「兄上。兄上は、勇者殿とお知り合いなのですか?」

「彼は僕の友人だ。それよりも、これはいったい──」

 オリヴィオはゼノとバルデルトの顔を見比べ、やがて合点がいったというように溜め息をついた。

「あなたはまだ諦めていなかったのか、バルデルト。現時点で、魔物が勇者になれる方法はないよ。無駄なことはよしなさい」

「しかし、〈連環の儀式〉は、もとは我らのもの」

「そうだったとしても、いまは違う。〈連環の祝福〉がなくては、鍵を扱うことはできないし、あなたの体は〈祝福〉に耐えられない」

「……あの──」

「ですが、兄上。かつて可能だったものなら、必ずや方法があるはず」

「そうかもしれないけど、目の前の現実も見て。ゼノは、当代の鍵を集められる、おそらく唯一の存在なんだ。あなたはその邪魔を──」

「あのう……オリヴィオ? ちょっといいかな……?」

「ん? なんだい、ゼノ?」

 オリヴィオは表情を緩めてゼノを見た。

「おまえと、その王子様は……兄弟?」

「いや、もちろん違うよ」

 あっさり否定された。

「僕は、彼の父親──闇の王と知り合いでね。僕のことをおじ様とかおじ上とか呼ぶから、せめて兄にしてくれと頼んだんだ」

「いや……あれは命令だった」

 バルデルトがぼそりとつぶやく。

 オリヴィオを前にして、バルデルトはひとまわり小さくなったように見えた。周囲を闇に染める禍々しさも薄れ、悪さを見とがめられた子供のような、なんとも情けない表情を浮かべている。二人の力関係は火を見るより明らかだ。

「それで、ゼノ。このお馬鹿な王子に、何かされたかい?」

「いや。ここに連れてこられた以外は、何も」

「そうか。何もしていなくてよかったよ、バルデルト」

 オリヴィオにじろりと睨まれ、バルデルトは怯えたように身をすくませた。

 厳密には淫魔たちをけしかけられたりもしたが、実害はなかったのであえて言わないでおく。二人の関係がこじれる原因にはなりたくなかったし、いまのバルデルトを見ていると、なんだか気の毒ですらある。先ほどまであれほど恐ろしく感じられたのが嘘のようだ。

 ──というより、おまえは本当にナニモノなんだ、オリヴィオ。

 顔の広さもさることながら、魔物の王子を委縮させるとは、つくづく底が知れない。

「ゼノは、僕の依頼で鍵を集めてくれているんだ。金輪際、邪魔はしないように」

「……はい、わかりました」

 オリヴィオに釘を刺されて、バルデルトはおとなしく引き下がった。

「さて、僕はあなたに話があって来たんだが……その前に、ゼノを送らないといけないね」

 そうオリヴィオが言った矢先、上空から騒々しい物音が聞こえてきた。

 風を切るはばたきと悲鳴、そして怒声。

「おや」

 オリヴィオが天を仰ぎ、バルデルトとゼノもそれに倣う。

 二つの黒い塊が、螺旋を描きながらよろよろと舞い降りて、東屋の近くに着地した。

 両足を縛られた二羽の黒い巨鳥が地面に倒れこみ、その陰から二つの人影が躍り出る。

 クレシュと、おやじ姿のユァンだ。ユァンの腰には、トアルがしっかりしがみついている。

「おのれ! 我が神をかどわかしおって!」

 ユァンは吠えて威嚇したが、クレシュは物も言わずバルデルトめがけて突進した。

「うわあ、待った!」

 ゼノはとっさにバルデルトの前に出た。出てから後悔した。クレシュの鋭い剣先が目の前に迫る。

 ──斬られる!

 思わず目をつぶったが、しばらくたっても衝撃は来なかった。恐る恐る目を開けると、首筋に触れるか触れないかのところで剣がとまっており、殺気に満ちたクレシュの顔が間近にあった。

 冷たく研ぎ澄まされた美貌。無表情な顔の中で、二つの灰色の瞳だけが、怒りの炎を燃やしている。

 生死を分かつ状況にもかかわらず、ゼノはその美しさに見とれてしまった。

 と、クレシュの全身を覆っていた殺気がすっと消え、魅力的な唇から脱力するような声が漏れた。

「危ないよー、おにーさん」

 ゼノはへなへなとその場に膝をついた。

「……た、戦わなくていい……話はついたから……戻ろう」

 せっかく帰れる段になったのに、ここで戦闘が始まったらまた面倒なことになる。クレシュに剣を収めさせ、頭から湯気を出しているユァンをなだめていると、トアルが駆け寄って抱きついてきた。

「おとうさん」

「トアル。怪我はないか」

「うん」

 小さなやわらかい体を抱きしめ、自分のほうが安心する。

「おやおや、ずいぶんかわいい新顔だね」

 オリヴィオの声に、トアルは顔だけ向けて挨拶した。

「はじめまして」

「はじめまして、小さな人。……ゼノ、すばらしい縁があったようだね」

 トアルの正体を見透かしたような物言いに、ゼノはまたもや舌を巻いた。オリヴィオに隠し事はできそうにない。

「詳しい話はそのうちな。とりあえず、俺たちをこの島から出してくれるか?」

「お安いご用だ。でも、そのまま行くのはお勧めしないかな」

 言われてはっと気づいた。与えられた長衣は、豪華だが裾をひきずるやっかいな代物で、似合わないことをさしひいても、野外を歩くにはまったく不向きだ。

「あの……」

 顔を向けると、バルデルトは心得顔でうなずき、優雅に両手を一閃させた。その手の中に、ゼノの衣類と荷物が現れる。

 受け取ったゼノは、それらを確認して意外な気持ちになった。

 湖に落ちてびしょ濡れになったはずの荷物はすっかり乾き、着ていたものは洗濯さえされているようだ。恐るべき闇の王子は、本当に協力を求めるだけで、用がすめば無事に解放してくれるつもりだったのかもしれない。

 木陰でそそくさと着替え、仲間たちに合流すると、オリヴィオがにっこり微笑んで杖の先で地面を打った。

「いってらっしゃい、気をつけて」

 あたりがまばゆい光に包まれ、ふたたび視界が戻ったときには、ゼノたち四人は湖の対岸の草地に立っていた。

「やれやれ。いったい何だったのじゃ」

 ユァンが、全員の気持を代弁するようにぼやいた。


 元の進路に戻るため、最寄りの宿場町で一泊していくことになった。

 道々ゼノは、鳥女にさらわれてからの出来事や、闇の王子から聞いた話を伝えた。

「魔王と女神が恋仲とは、その王子とやらも、たいがい夢想家よのう」

「ユァンの一族には、そういう言い伝えはないのか?」

「ない。そもそも、太陽の女神の神話も、人族のうわさ話で耳にした程度じゃからのう」

「えっ、そうなのか? じゃあ、鍵を守っていたのはなんで?」

「印ある神に渡すためじゃ」

「……えーと、じゃあ、ユァンの一族にとって、神ってどんな存在?」

「〈異能の来訪者〉」

 ユァンはおごそかな口調で言った。

「無理に人族の言葉にすれば、そんな感じかのう」

「来訪者……」

 なるほど。それなら、ユァンがゼノのことを神と呼ぶのも納得できる。

「ってことは、天地を創造したり、人の運命を左右したり……そういうのとは違うんだ」

「そういう神もいるかもしれんが、そんなものと意思疎通できるとも思えん。つまり、いないも同然じゃ」

 理解できずに戸惑っていると、いつもの憐れむような目を向けられた。

「一方的にこちらを操るような存在に、個人のちっぽけな祈りが通じると思うか? そんなもの、ただそこにいるだけじゃ。天変地異と少しも変わらん」

「な、なるほど……」

 理解できたとはいえないが、言いたいことはなんとなくわかったような気がする。

「〈異能の来訪者〉は、我々の理の外にあるが、まれに訪れて何かしらの影響をもたらす。いってみれば、空気の入れ替えのようなものじゃな」

 ──つまり俺の存在は、まさしくユァンの気分転換ってことか。

 そこだけはものすごく納得できた。

「クレシュは? 勇者の道案内をしてるってことは、神殿側の神話を信じてる口か?」

 ゼノが話を振ると、クレシュはつまらなそうな顔で答えた。

「んー、あたしは興味ないなー。道案内は、一族の仕事だからしてるだけだしー。封印が失敗したらどうなるとか、実際のところはよくわかんないよねー。もしかしたらさー……結果とか関係なくて、この旅をくりかえすこと自体が目的なのかも……って、思うことはあるかなー」

 何も考えていないようでいて、クレシュはときどき奥の深い発言をする。

「旅をくりかえすことが目的──」

 口に出してみて、あながち間違いではないのかもしれないと、ゼノは唸った。オリヴィオは魔力増大の危険性について語っていたが、バルデルトとの会話を聞いた感じでは、以前から二種類の神話を知っていたと思われる。彼は、神話では語られていない何かに気づき、そのために動いているのではないだろうか。

「…………」

 考えているうちに眠くなってきた。

「疲れた……ふかふかの布団で、ぐっすり眠りたい」

「そうだねー。今日はちょっと奮発して、いい部屋とろうかー」

 ところが、町に着いてみると、あいている宿がなかった。

「申し訳ございません。あいにく満室でございまして」

「いや、今日はもういっぱいなんですよー」

「すみませんねえ。次回はぜひ」

 とくに賑わっているようにも見えないが、小さな町なので、間が悪いとこういうこともあるのだろう。諦めて野宿にするかと考え始めたころ、とある宿で別の宿を紹介してくれた。

「甥っ子が始めたばかりの宿があるんです。まだ改装中の部分もあるので、万全とはいきませんが、部屋ならあいていると思いますよ」

 教えてもらった宿を訪ねると、路地裏に面した目立たない立地で、いかにも客の入りが少なそうだ。これなら部屋もあるだろうと、期待して玄関に足を踏み入れたとたん、ゼノ以外の三人に緊張が走った。

 背後で扉が音を立てて閉まり、クレシュとユァンが光の柱に包まれたかと思うと、声を上げる間もなく消えた。

 気配もなく現れた男たちが、ゼノとトアルを取り囲み、退路をふさぐ。

「やあ、ゼノ」

 栗色の髪と口ひげの男が、いつぞやのように階段からこちらを見下ろしていた。

「カーネフ!?」

 故買屋のカーネフだった。カーネフはにやりと笑って言った。

「動くなよ。妙なまねをすれば、子供が怪我をするぞ」

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