妻の寝顔
重里
妻の寝顔
今日もまた喧嘩をした。
大抵は僕の小言から始まる。
子供が怯えるくらいの怒鳴り合い。怒鳴るのも大抵は僕だ。
お互い仕事が大変な時期。ストレスが溜まる。時間的な余裕がない。
相手が思い通りに動かない、動いてくれないことに、苛立ちの心を隠す余裕もない。
喧嘩の理由は本当に些細な事ばかり。
片付けがされていないだとか、タイミングが合わないだとか、ちょっと遅れただとか。
お付き合いをしていた頃ならば笑い話にでもなるような、どうでもいいことばかり。
妻を頭ごなしに怒鳴ったことを思い出し、ふと申し訳なさに駆られた僕は、疲れ果て、眠る彼女の顔を、いま見ている。
少し開けた襖の隙間から見える妻の横には、小学生になったばかりの娘がすぅすぅと寝息を立てていた。
娘を寝かしつけながら、妻も一緒に寝てしまったのだろう。風呂にもまだ入っていないようだった。
喧嘩の理由を思い出す。
僕が会社に行く準備をしている最中に、妻が洗面台を使っていた。
「俺が先に出るんだから、優先させてくれよ! そんなこともわからないのか!」
妻は整理が苦手だ。
玄関の靴が揃えられていないからと言って、小言を言った。
「ほんとお前ってこういうところ雑だよな。靴並べるくらいのこともできないの?」
仕事から帰ってビールを取り出した時。
ついでにレトルトのポテトサラダを手に取った。冷蔵庫の中にずっと置いてあることは知っていたが、案の定、賞味期限が切れていた。
「お前さぁ。在庫管理できない人なの? 腐ってるもん食わすのかよ」
昨日の朝も同じだ。
「今日は急に寒くなるって。上着持っていったほうがいいよ」
そう言って見送る妻に、
「そういうのさぁ。早く言ってくんないと! 今言われたって準備出来ないだろ」
こないだの土曜日は、掃除についてだ。
「見てみろ。この棚も、テレビの周りも! 家が埃だらけなんだよ。掃除の基本だろ!」
言い方。
それが悪いことはわかっていながらも、つい口から出てしまう僕に、妻は不服そうな顔つきでホコリ取りを手に取った。
目の前で眠る妻がもぞりと体を動かした。
寝相で乱れた髪が顔にかかっている。眉間には、いくつもしわが寄っていた。
彼女に優しい言葉を掛けてあげたことは、いつだっただろう。
パソコンに向かって調べ物をしている時、妻が話しかけてきたことがある。
妻はどこかよそよそしく、何かをお願いしに来ていることがすぐにわかった。
それが妙に僕の心を逆撫でた。
「なに」
苛立たし気に答えた。
僕のあからさまな態度に、妻はためらいがちに言う。
「お菓子セット、ネットで買っていいかな。美味しそうなの」
妻の差し出すスマホを見みると、確かにかなり割高感のある物だった。
だが僕にとってはそんな事はどうでもよかった。調べ物の邪魔をされたことのほうが、よほど気に触った。
「好きにすればいいだろ。君の金で買うんだ、なんでそんなこと僕に聞くんだ」
邪魔者扱いでもするように、つっけんどんに答えた。
それでも妻はぱぁっと笑顔になる。
「うん! ありがと! じゃ、買うね! 届いたら一緒に食べよ! 邪魔してごめんね!」
明るい声音を残して嬉しげに部屋から出ていく。
娘が好き嫌いをして、食事が進まない時もだ。
「料理、味が薄いんじゃないか? 子供向けじゃないだろ」
「そう? 塩分とりすぎないように、ちょうどいいと思うけど?」
「自分が薄味好きだからって、皆が好きなわけじゃないだろ。こいつのことも考えてやれよ」
次第に料理の味が変わっていった。
娘は、嫌いだった魚料理でさえ、嬉しそうに食べるようになった。
僕がどんなにつらく当たっても、きつい言葉をなげつけても、喧嘩をしても、しばらくすると彼女は必ず笑顔を見せてくれる。
その笑顔は、彼女の心が愛に満ちていることを教えてくれる。
僕の小言から発展した今日の喧嘩も、きっ明日には許してくれてしまうだろう。
眼の前の寝顔に、結婚前の彼女の面影が重なった。
僕は今、不安を感じている。
妻の優しさに、不安を感じている。
だからこうやって顔を見にきてしまったのだ。
僕は妻が自分の手足のように動くなにかと、勘違いしている。
一緒に生きるということの意味をはき違えている。
間違いを認めたくなくて、それっぽい理論を振りかざし、自分は正しいのだと思いこんでいる。
忙しく働き、家事、育児で疲れ果て眠る妻。
頑張り屋さんで、一生懸命で、根性があって、心が広くて、愛に溢れて。
ちょっとドジだけど愛嬌のある妻。
僕は今まで彼女に、何を与えてきたのだろう。
眠りに落ちている妻に、頭を垂れて今日こそ誓う。
明日からは君のことを少しでも理解できるようになるのだと。
何を苦しみ、何を悲しみ、何を喜び、何に感動するのか。
君の隣で知りたいと思う。
もし僕が、今日までの僕になろうとするならば、必ず思い出そう。
こうやって妻の顔を見ている自分のことを。
最愛の人であることを、忘れないように。
〜あとがき〜
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妻の寝顔 重里 @shigesato
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