Octave ~心の音階~

トム

Prologue

0話

 遠くに潮騒が聞こえる……。


 季節が夏だったなら、とても心地よく聞いている事が出来ただろう。


 ふと息を吐くと肺から吐き出されたそれは、真っ白い煙となって、木枯らしが冷えた頬を突き刺しながら、一緒になって流れていった。首に巻き付けたカシミヤ製の臙脂色えんじいろをしたマフラーに顔をうずめ、交差点に灯る赤信号を睨みつける。このままでは子供が風邪を引いてしまいそうだ。そんな事を考えて、しっかり握った右手の先にいる、ダウンやマフラーでもこもこになった我が娘を見ると、彼女は被った毛糸の帽子を直しながら俺を見上げると、やっと生え揃った乳歯を見せつける様に笑いながら、楽しそうに話しかけてくる。


「しゃむいねパパ! 息が真っ白!」


 普通ならば凍えて震えてもおかしくはないだろうに、子供というのは元気なものだ。今にも雪が降りだしそうな空。まだ午前中だというのに鉛色をした曇天だ。現に俺達の横にいる妻は相当寒いのだろう。ダウンコートを来ているにも関わらず、足を忙しなく動かし、首は亀のように縮めて震えている。


「──やっぱり、この季節は海の近くって寒いわね。体の芯まで凍えるわ」

【そうだな。我儘言って済まないな。やっと見つけたんだ、だから──】

「あぁ、良いのよ。別に嫌ってわけじゃないから。ただ、もう一枚下になにか履いてくれば良かったなと思っただけ」


 そう言って彼女は俺に、はにかんで言った後、娘と一緒に「寒いねぇ」と言っておどけていた。ふと廻りが動く気配に気づき、目線を上げるとちょうど信号機が青に変わっていた。


「パパ! 手を上げて、横断歩道をわたりましょー!」




 ──彼女はそう言いながら俺の手を強く握り、目の前に見える寺に向かって歩き始めた。

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