懸命に生きる
懸命に生きた人が、それにふさわしくない結果にあえぎながら、しかしそれでいて生き方を変えないところを見たい。
どうしてだろう。僕は人間の失敗が大好きだ。わかりやすい成功なんて、全部くだらないと思えてしまう。失敗する人間を見ていたい。失敗する人間を、成功する人間よりも美しいと僕は思わずにいられない。
観る人間というのは不思議なものだ。僕らは地獄を愛している。極楽なんてものよりも、大型クルーザーの上で高級シャンパンを飲んでいる金持ちなんかよりも、地獄のような日々を前向きに進もうとしている人間を愛している。
どうしてだろう。聖書は「神は貧しいものをこそ愛する」というようなことを言った。不思議なことに、僕らの魂もそのようにできている。僕らが、人より優れていたい、人より安心していたいと思わなくなった時から、僕らは人より優れた人間よりも、人より劣った人間を愛し、守ろうとするようになった。
ニーチェなんかはそれをルサンチマンだと言ったが、僕らのこれは、金持ちや成功者への憎しみや嫉妬に基づいているというよりも、自らより弱い人間や劣った人間への愛情と愛着、共感に基づいているように僕には思われる。
僕らの弱さゆえというよりも、むしろ僕らの「力」によって、僕らの「安心」によって、それがもたらされているような気がするのだ。
僕らは、より恵まれた人々が失敗して落ちぶれるところが見たいわけではないのだ。そういう映画や物語が、それほど多くなく、人気もないことを鑑みれば、僕らのルサンチマンは、それほど大きなものではないことがわかるはずだ。そもそも、誰かの不幸を望むのは悪趣味であり、くだらないことでもある。僕らは誰かの不幸を望んでいるのではなく、不幸のただなかにある人を見ていたいのだ。
人間は生きているだけで不幸な生き物だから、それを見ている僕らは、彼らを愛さずにいられないのだ。
そう。僕らは、僕ら自身をもっとも近い距離から見ている。自らの人生という名の映画の最前列席に座っているのは、他でもない僕ら自身なのだから。僕らが僕らを愛さずにいられないのは、僕ら自身の不幸が、他の誰の不幸よりもずっと確実でわかりやすいものだからなのだ。
見ていて気分のいい人間でありたい。観る存在である僕は、心のどこかで自らの不幸を望んでいる。願っている。それが自らの幸せであり、喜びであることを知っているから。あぁ、なんと奇妙な生き物か、人間というものは。
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