反実証主義・大衆化と粗雑化
何も科学的世界観だけが、科学的世界観における平和を実現するたったひとつの世界観であるわけではない。
たとえ矛盾していたとしても、衝突しなければ共存可能であり、あらゆる実証的な誤謬は、すべて価値のある「生命の工夫」であると言える。
現代において必要とされる「創造性」とは、出口を探すことである。何からの出口? 科学からの出口である。
科学的になってしまった私たちは、いわゆる科学と似非科学の区別がつくにしてもつかないにしても、科学とされているもの以外は、科学より尊重すべきでないものとして見る。そして自分たちの存在は科学と深く結びついており、科学なしで自分たちを説明することを放棄するようになっている。
私たちは私たち自身を神秘的でかけがえのない存在だと思いたいあまり、それ自体を示すような科学的根拠がないにもかかわらず、それがすでに科学に拠って証明された、科学によって支持されている考えであると思い込む始末である。はっきりいって、人道主義は、科学に立脚しているわけではなく、むしろ現代では科学が人道主義に立脚している。人道主義なくして科学が進むことが可能かどうかは、実証主義的に判断することはできない。人道的でない狂気的な科学的実験が実際にあったとしても、それもまた社会という人道主義、道徳の塊たる組織の中で行われている以上、それが当の時代にあってはやはり人道主義に許容されていた可能性を否定できない。
実証主義的でないことは役に立たないのだろうか? いや、そもそも人間の人生は一度きりで、そこに再現性はほとんどない。そこに再現性を見出そうとすると、そこに再現性を生み出そうという創造的な試みが必要で、その結果として、受験への「対策」なんかがひとつのシステムとして成立するのだ。
本来人間の人生に再現性など一切ないにもかかわらず「時代が変われば」なんて言い方をして、まるで時代が変わらなければ人生の「普通のルート」が変わらないようなものの見方がひとつの常識となっている。その「普通のルート」は、再現性、科学性を求める人間の熱意によって創造されたものであり、もっといえばその再現性を求める欲求は、近代化する以前から人間の社会にはあったのだと言わざるを得ない。
人間が他の人間と繋がる生き物であり、記憶する生き物であり、継承する生き物である以上、先祖代々の何らかの成功、よい暮らし、体験に対して憧れと目標意識を持ち、それを再現せんと欲するのは、社会的人間の本能であり、それらと科学的方法が結びついた結果、このような固くて奇妙な、閉鎖的な「再現性の世界」が実現されたのである。
私たちは、子供のころいつもこう問われてきた。
「将来の夢は何?」
それは暗に「あなたは何を再現するの?」と言われていることでもある。
それに対して、私たちのうちのいくらかは、こう答えたくなる。
「ぼくはぼく自身にしかなりたくない」
それもまた、人間の本能たる創造性であり、あらゆる再現性の雛型を自ら作り出したいという欲求でもある。
あるいは、何らかのことがらを再現したいにもかかわらず、社会的制約のせいで、それとはまた別のものを再現するように迫られている場合もある。
フィクションは再現性のもっともたるものであると同時に、あらゆるフィクションはその再現性の雛型を求められる。現代のフィクションではより顕著だが、そこに描かれるものは新しくなくてはならないと同時に、それを読む人にとっては、なじみ深いものでなくてはならない。それが一種の認識として周知され「○○みたいな」という共通認識のもととなることが、そのフィクションの役割として成立するのである。
たとえば「水戸黄門みたいな」「ドラえもんみたいな」というような話である。
現代ではもはや「自分らしくありたい」ということすら、ひとつの雛型として描かれる始末である。アナと雪の女王なんかは、その分かりやすい例である。
「誰かに愛されたい」という欲求に関しては、普遍的なものらしく、あらゆる地域、世代でそのような作品が語り継がれている。
正しい意味での実証主義、科学主義に基づくならば、再現性の有無は、条件をそろえられるかということと、条件をそろえた場合同じ結果が得られるかどうかというところにある。
しかしこの考え方が民衆のレベルに浸透する場合、その条件をそろえるというところは、きわめてあいまいで、年齢や性別くらいのところで十分とされることが非常に多くなる。
「この年齢で、これこれした子供は、こういう風になる」というような言説が広まる背景には、科学的手法、思考の大衆化がその原因にあると思う。何度も繰り返しになるが、大衆化していく思考や方法は、それにともなって粗雑化していくものである。
この矛盾は極めて奇妙である。本来再現性や実証性というものは、その厳密さによってその価値が決まるものである。それが粗雑になって浸透するということはどういうことか。それは矛盾ではないのか。矛盾しないのである。大衆にとってどうあるかではなく、そもそも再現性や実証性というものの本来の目的、価値はいったいなんであるかというところに目を向ければ、それは明らかになる。有用性である。これは科学の本質にも言えることである。現代の科学者たちは「真理の探究」という理念を失ってはいないものの、しかしウェイトとして、それよりも「どのような役に立つか」というところの方をより大きなものとして見ている。「どのように発展していけるか」という言い方をしてもいい。それは、自分たちの研究や理論を世界全体に位置づけ、別の地点に結びつける試みともいえる。それがどの程度、他によい影響を与えられるか、ということが、科学のひとつの目的として、真理の探究自体よりも、大きなものとして共有されているのである。
だからこそ、これが粗雑化したとしても、科学の持つ本質といったものは、崩壊しないのである。民衆に浸透する科学的思考、方法は極めて粗雑で、もはや科学と呼べるものではないのだが、それでも科学の持つ基本性質である「一般化」「正しさ」「再現性」に対する尊重、感情や主観性を排除しようとする傾向(ひとつ指摘しておかなければならない点だが、感情や主観の排除という点での粗雑化で起こることは、それを徹底できないということであり、感情や主観を排除するうえでもっとも難しいことは、自らのそれを律することであり、逆にもっとも簡単なことは、他者の、それも異なる意見を持つ他者のそれを指摘することである。現代で非建設的な批判が目立つ理由はそこにあるのではないかと私は疑っている)は、相も変わらずその猛威を振るっていると言える。
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