理解できない
白くて長い廊下。どこまでも続いていくような、先の見えない道。
目をこする。夢かもしれない。でも、夢か現かなんてどうでもいいと思った。
右手側に木製の扉。左手の奥には壁と同じ真っ白な扉。ドアノブは真鍮製。
「ねぇ、セックスしよ?」
右手から声が聞こえてくる。男性の声か女性の声か判別できずに、私は首を捻った。自分の手を見て、体毛から、自分の体が男性であることを確認した。声の主が女性であればいいと思ったが、隣にいたのはカクカクした動きをする人を模した何か。私はぞっとしたが、そのヒトガタの向こうにある木製の扉が気になったので、その人形を手でどかして、ドアノブを掴んだ。
「どうするの?」
「えっちしよ」
「気持ちいいよ?」
人形は生気のない手で私の二の腕を掴んだ。ぞわぞわ、と嫌な感じが走ったが、乱暴なことはできない気がした。
「ごめん」
私はその人形の方を見ずにぼそっとそう謝って、扉を手前に引いた。光が漏れた。元いた廊下も光で満ちていたはずなのに、その向こうには、それより強い光が飛び交っているようだった。
「あ」
その間抜けな声が、私のものなのか、ヒトガタのものなのか、あるいはまた別の誰かのものなのかは、判断ができなかった。光が私の体中を駆け巡って、おそらくヒトガタの体にも駆け巡って、私は自分の意識が失われていくのを感じた。
「そうそう。前見た景色を私は覚えてる。それでね、昨日に見た景色は見たまんまだったの。楽して生きていきたいなんて馬鹿げた考えだと思わない?」
「ふむ。なるほど。それはつまり、どういうことかね?」
「根性なしだってこと」
「焼きが回ったか」
「イカよりもタコが好きだったってこと」
「回し者か」
「回った方が気持ちいいよ?」
「気持ちいい、か」
焚火を挟んで向かい合っている男女が、意味不明な言葉を交わしている。私の存在に、ふたりは同時に気が付いたようだった。
「見に行ってみるか」
「間違いなくそれは間違いない」
「見渡してみれば碧くて碧くてもう見えない」
「確かにそうかもしれない」
「ミルク」
鼻がつぶれていてその穴が逆ハの字になっている男性が、木の椀を差し出した。中には白いどろっとした何か。少なくとも、ミルクではない。
「ありがとう」
「ましになるといいな」
「それはないんじゃないかな」
ふたりは笑い始めた。自分が惨めに思えてきて、涙がミルクと呼ばれた何かにぽたりと落ちた。
「参ったな!」
「うん!」
目の前にいた男がいきなり私の腕を思い切り叩いた。白いスープが宙に舞う。椀は逆さになってかこん、とこ気味のいい音を立てて地に蓋をした。
「素晴らしい」
「素晴らしいね」
ふたりは拍手している。私はなんだか照れくさくなってきて、頭を掻く。
「頭おかしいぞ」
「そもそもあなたじゃない」
「見る目がないんだ」
「気持ち悪いね」
「どうしてそんな風に生きていけるんだ?」
「そもそもなんでまだ生きてるの?」
「嫌いなものばかり」
「嫌いなものばっかり」
またあははとふたりは笑いだす。
「もう一度行って来たら?」
「そうだな。それがいい」
女の方が俺の手を掴んで、強引に立ち上がらせる。俺はされるがままになって……俺?
「俺はいったい何者なんだ」
「前を向いて同じことを言って」
言われたとおりに「俺はいったい何者なんだ」と言った。
「言ってないって」
「どういうことだ?」
「マキシミーズ。モリソアーズ。聞こえない言葉。知らない無味意味」
「俺にもわかるように話してくれよ」
「話されているのは嫌いな言葉。パシオールの箱庭。君の嫌いなパイズカ並木にかかる。そあ。ここは我慢ならない」
女は振り返って俺の手を離した。いつの間にか俺は……私は、この女に引かれて歩いていたようだった。
「まま。みりあるそー。切り付けないで。かかみのおろちの底にあるから」
「前を見るのをやめるんだ」
後ろから低音の、さっきの男の声が聞こえてきて、振り返る。
「参るな!」
「見えない!」
前と後ろから意味の分からない叫び声が飛び交って、俺は混乱してその場でしゃがみこんで頭を抱える。
「見えない理由はそんなに難しくない」
「前にも言ったよな。申し訳ないって」
「切り付けられた前に見た景色に」
「そうやってまた見えないものを見ようとしている」
「見えないのにね」
「未来にもない」
「見えたこともない」
「君にまたさようならしなくちゃね」
「ういに。嫌いならな」
「切り合うならそこにあるもので満足しなくちゃ」
「間違いないな」
またふたりは私を挟んで大笑い。彼らの世界に私は存在しないのだろうか。それとも私は彼らのおもちゃなのだろうか。
「前にふとした景色に君がいた。前を向いて歩くとそこにあるのは嫌いな景色。見える? 見えないだろうね。声にならないそれは汚くて醜くて前へ進めない。未来があるのは未来を知らない人だけ」
女がしゃがみこんできて、俺を覗き込んだ。その顔はカラスのようで、とがったくちばしと、鋭い目つきが特徴的だった。肌は青黒くて艶があった。
「ミリアに行きな。前を向いた先にあるのは壊れた石門。嫌いになったらもう一度」
答えられない俺に、男も話しかけてくる。
「見込んだ先の向こうの道。もう見えない世界」
こいつらは、普通にただ話しているだけだ。そして俺をからかっているのではなくて、俺に何か謎を解かせようとしている気がした。
「ミリア? 前を向く? どういうことなんだ? 私が間違えてきた人生の話か?」
女は首を振った。これは不正解みたいだ。
「見返りを求めているのか? 差し出せるものはない」
女は呆れたように反対側にいる男の方に目配せした。これも不正解。
「見上げたのは空の星。前を見ても何もない。嫌いな人間ばかりでうんざりだ!」
俺はうんざりしてそう叫んだ。
「いないんだよ、そんなの!」
女が叫んだ。
「見えないじゃないか!」
男も叫んだ。
「嫌いなんだ!」
女は続ける。
「見ることが!」
見えない見えない見えない見えない。見えてはいけないし、見てはいけない。見ることはできないし、見ないこともできない。なぜ見る必要がある? なんで見たことがある? 見なくてはいけなかったのか? それとも見えてはいけないのに見てしまったのか? 見ることは何なのか。見て何になるというのか。見ることによって変わってしまうものがあるのか。見ることは見えないこととどう違うのだろうか? 見てほしかったのか? 見てほしくなかったのか? 見える。未来。見える。ミラ。ミリ。ミア。見……
「見えないんでしょ?」
女は優しく語り掛ける。私は答える。同じように、優しく。
「見えない」
「うん。見えないのね。私も」
「私も見えない」
見えないことの意味は分からない。でもぼくら三人は誰も見えていない。見えない。だから見えない。
「見えなくてもいいんだよね?」
「見えない方がいい」
「見えてはいけないんだ」
「見るほうがよかったのかな?」
「そんなことはない」
「ありえない」
「見えない」
「見えない方がいい」
「見えてはいけないものもある」
「見えないものが見えてしまったから」
「見ることなんて見えることでしかない」
「見えていないのに見えていることにした」
「見えていないから見えていないことにできなかった」
「そうでしょう?」
「そうだね」
「そうじゃなかった!」
「そうかもしれない」
「そうだね」
三人の言葉が飛び交った。誰が何を言ったのかなんてわからなくなった。
目が覚めて、そこにあるのはまた真っ白な廊下。
「ねぇ、セックスしよ?」
「しない」
「ねぇ、どうして? 気持ちいいよ?」
「気持ち悪いよ」
「なんで? なんでそんなことを言うの?」
「言わない。言えない。君が嫌い。嫌いなものは嫌い。君が嫌いなんだ。君は生きていない。君は生きている。どうでもいい。君が何なのかなんてどうでもいい。君に何があるかも知らない。知りえない。知りたくない」
「私はずっとあなたのそばにいるよ」
「いない。いないよ。いるはずじゃない。いてはならない。君が嫌いだ。君みたいなやつとは関わりたくない。君は君のままでいてはいけない。君はもう嫌いなボクの嫌いな存在。君はどこからともなくやってきてボクの中に住み着いた気味の悪い存在。希望のない存在。嫌いなんだ。君はいなくなってしまえばいい」
「いらないの?」
「いらないよ」
「そう」
そのヒトガタは背を向けて歩いていこうとした。でもそこには壁があった。壁にごつんとぶつかって、崩れ落ちた。そこに残ったのはガラクタの山。もう意志も言葉もないそれを、僕は踏んずけた。
「もう終わりだね」
返事は返ってこない。それに安心した。
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