第十九話
翟義が王邑を撃破した日、南陽郡で小さな事件が起きた。
その日の夕刻――劉縯が初めて人を殺した時と同じ時刻、劉縯の弟である劉仲は畠仕事を終えて帰宅した。脚に巻いた脚絆を解き、土で汚れた手足を洗っていると、ぺたぺたと小さな足音が近づいてきた。
「良い子にしていたか、伯姫」
劉仲は笑顔で振り返った。伯姫は西陽の中に佇んでいた。手も足も赤い色をしていた。その赤い手の指先から、ぽたりと暗い色の雫が落ちた。劉仲は妹を赤く染めているものが西陽ではないことに気づいた。
「どうしたんだ!? 怪我をしたのか!?」
劉仲は血相を変えて伯姫へ走り寄り、伯姫の手を取って傷の有無を調べた。伯姫は首を横に振り、劉仲の顔を見上げた。
「母上が、起きないの」
「…………え?」
「起こそうとしたけど、起きないの。兄さん、母上を起こして」
伯姫の後ろには、点々と赤い足跡が続いていた。劉仲は息を呑んだ。母上、と叫びながら、伯姫の足跡を辿って走った。
二日後、湖陽県から外祖父の樊重が駆けつけてきた。劉仲は先祖の祭壇に供えられていた遺書を樊重に渡した。何が起きたのか理解できていない伯姫を劉仲に任せ、樊重は中庭へ出た。高く澄んだ青空の下で封を切り、中庭と建物を繋ぐ階段に腰を下ろして遺書を広げた。
遺書の内容は、舂陵劉氏の先祖の霊、すなわち高祖劉邦の霊に対する謝罪と嘆願であった。劉氏に嫁いだ身でありながら劉氏の使命に背こうとしたことを謝罪し、自分の命と引き換えに劉縯を戦場から生還させるよう嘆願していた。
「この親不孝者め」
樊重は遺書を持った手を震わせた。
「娘の分際で、親より先に死ぬとは何事か。しかし、よくやった。おまえの節義を、必ずや高祖は嘉されるであろう。この父も、誉れに思う。この父も、誉れに思うぞ」
娘の遺書に、樊重は顔を伏せた。簡冊の札と札の隙間から、ぽたぽたと雨のようなものが樊重の膝の上に滴り落ちた。母を起こすよう兄に頼む伯姫と、母の死を妹に理解させようとする劉仲の声を、樊重は背後に聞いた。
「兄さん、早く母上を起こして」
「伯姫、母上は、もう目を覚まさないんだ。母上は、父上のところへ往かれたんだ」
「ちちうえって、何?」
居摂二年十月(西暦七年十一月)、劉縯と劉秀の母、樊嫺都は自らの喉を短剣で突いて自殺した。樊重は娘の遺書を密かに焼き捨て、娘の死を病死として処理した。
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