第十二話

 その夜から半年が過ぎていた。かつて梟の声に怯えながら走り抜けた獣道を、劉縯は力強い足取りで歩いた。樹々の影の間から笛の音が聞こえてきた。劉縯は藪を掻き分けて進んだ。例の沼が見えてきた。白い頭巾の背中が沼の畔に立ち、卵形の陶笛を吹いていた。劉縯は静かに近づいた。何度も沼へ足を運ぶ内に、音楽は妖精の挨拶であることを、劉縯は自然と理解していた。小人の姿をした妖精たちが、その姿に応じた小さな楽器を、枝の上や草の間で鳴らし始めた。百年前、大漢帝国の孝武皇帝の前で奏でられた音楽が、劉縯を優しく包んだ。


 しばらくして、卵形の陶笛が白い頭巾から離れた。いつの間にか、小人たちが劉縯の足許まで酒器を運んできていた。小人たちが数人で運んでいた酒壺を、劉縯は両手で抱え上げた。いつも翁面が腰かけている石の前へ酒壺を運んだ。


「あんた、武曲という者を知っているか?」


 仮面を着け直して近づいてきた翁面へ、劉縯は杯を差し出した。翁面は杯を受け取り、いつもの場所に腰かけた。


「知らない名だな」


「そうなのか? あんたと少し似ている気がしたから――」


 劉縯は酒壺の蓋を取り、翁面の杯に杓子で酒を酌み入れた。


「――もしかしたら知り合いじゃないかと思ったんだが」


「似ている?」


「裾が長い、ぞろりとした衣を着ているのに、風のように速く動いて剣を躱していた。あんたもそうだが、そんな恰好で跳ねたり走ったりしたら、普通は衣に足を取られると思うんだがな」


「予の足の運びは、古の武人の技だ。古の武人は、今の文人が着るような、地を擦るような衣を着て戦いに臨んだ。自然、衣に足を取られないための体捌きが身についた。その武曲という者も、恐らくは古の武人の技を習得しているのだろう」


「なるほどな。古の技か」


「ところで――」


 翁面は白髭を掻き分けて杯に口をつけ、杯の中の酒を一口だけ飲んだ。


「――汝は、これから人を殺すのか?」


 これから釣りにでも行くのか、と問うような口調で、翁面は劉縯に問うた。劉縯はどきりとした。


「何だよ、いきなり」


「汝が来てから、急にけんの音が――」


 塤、とは卵形の陶笛の名称である。


「――殺伐とした響きを帯びた。恐らくは、汝に感応したのであろう。これから人を殺すつもりなのか?」


 翁面は劉縯へ顔を向けた。澄んだ眼差しを劉縯は感じた。嘘を見抜かれた時のことを思い出した。隠し通せそうにない、と観念し、肩を竦めて苦笑した。


「実は――」


「仔細は聞くまい。劉伯升は高祖の末裔だ。汝が誰を、何のために殺めようとしているのか。時勢を見れば大凡の見当はつく」


「すまない。あんたと会えるのは、今夜が最後になるかも知れない」


「予も、同じことを言おうとしていた」


「え?」


「この森の藻居たちが、近々、別の森へ移り棲むつもりでいる」


 孝武皇帝への直訴の逸話に示されているように、藻居は大漢帝国の森林破壊に苦しめられている。特に南陽郡は農地開発や製鉄業が盛んであり、太古の森が次々と切り開かれているため、これまで南陽郡の森に棲んでいた妖精類は、森と運命を共にするか、それとも森を離れるか、選択を迫られていた。


「それに合わせて、えんも――」


 沼の水に映る子供の影を、翁面は酒杯で指し示した。


「――この沼を離れるつもりでいる。延がいなくなれば、予が南陽へ立ち寄る理由は無くなる」


「それじゃ、どちらにしても、今夜でお別れか」


「そうだ。だから、予が汝に剣を教えるのは、これが最後だ」


 翁面は杯を置いた。立ち上がり、すらりと光剣を抜いた。


「よいか。剣を使う時は、斬ろうとしてはならない。このように、突いて刺せ」


 刺突と斬撃では、刺突の方が力を一点に集中させられるため、より深い傷を敵に負わせやすい。また、防具の隙間を狙いやすいため、甲冑を着た敵にも有効である。更に、斬るためには剣を振り回さねばならず、剣を振り回すには広い空間が必要であるが、突きは繰り出すために必要な空間が斬るためのそれより小さい。


 剣という武器の構造も重要である。直刀などの片刃の刀剣は、刃の逆側を厚くすることで刀身の強度を高められるが、剣は剣身の両側に刃があるため、剣身に厚みを持たせにくい。横から力を加えるような使い方をすれば、剣はすぐに折れ曲がり、使い物にならなくなる。


「もっとも、汝は体が大きい。その体を更に大きく見せるために、最初はこのように剣を大きく振り上げた方がよいだろう。大抵の者は、それで怯えて委縮する」


「出端で自分を強く見せて、相手の気持ちを挫くわけか」


 舂陵侯の別邸で行われた武曲と劉稷の試合を、劉縯は思い出した。あの時、劉稷は剣を頭上に振り上げ、自らの巨躯を実際以上に大きく見せることで、武曲を威圧しようとしていた。力量に差がありすぎたせいで、武曲には全く通用しなかったが、もし武曲ではなく自分が対峙していたら、劉稷の迫力に圧倒されて身を竦ませていたに違いない。


「それから――」


 翁面が光剣を鞘に収めた。


「――予備の剣を必ず用意しておけ。汝は多分、予の言いつけを守れない。剣を突き出さずに振り回し、折ってしまうだろう」


「そんなことはない。今のおれは、以前のおれとは違う。あんたに言われたことは、必ず守るさ」


「ならば、予備の剣を用意しろという言いつけも?」


「……当然、守るさ」


 自らの発言を逆手に取られ、劉縯は渋々という様子で約束した。


 沼の水に映る月の像が揺らめき、辺りに琴の音が響き始めた。小人たちが琴の音に合わせ、劉縯が知らない言葉で歌い始めた。翁面が歌の内容を解説した。昔、北の森に老いた狩人がいた。桑の樹の洞から産まれた子供が、老いた狩人を訪ねてくる。老いた狩人は桑の子に導かれ、悪い熊を退治するために旅立つ。


「その狩人は、熊を退治できたのか?」


 沼を囲んで歌う小人たちを眺めながら、劉縯は訊ねた。劉縯と同じものを眺めながら、翁面は答えた。


「さてな。歌は、そこまでは語らない」


 翁面の手が杓子を取り、劉縯の杯へ酒を酌み入れた。歌が佳境に入り、琴の曲調が重く低いものに変じた。深い雪道を踏みしめて進む狩人のように、小人たちは左右の足を踏み鳴らした。


「狩人の旅は困難に満ちている」


 翁面が杓子を置き、杯を手にした。


「空は雲に覆われて暗く、風は死者の腕よりも冷たく、踏み出す足は雪に埋まる。この旅路の果てに何があるのか。結末を神に問うことなく、老いた狩人は二度と戻れない道を行く。熊を狩ること。それが狩人の使命であるがゆえに」


「あいつらが――」


 劉縯は目を伏せた。


「藻居が旅立たなければいけないのは、使命ではなく、おれたちの――」


「時の流れだ。誰が悪いということではない」


「だが、おれたちが森を――」


「何も踏まずに、前へ進むことは出来ない。老いた狩人を雪を踏んで前へ進んだ。藻居も前へ進もうとしている」


 ずん、ずん、と小人たちは左右の足で地面を踏んでいた。地面を踏みながら、成湯せいとう、成湯、と老いた狩人の名を呼んだ。成湯が行く、成湯が行く、と繰り返した。桑の樹から産まれた子供に導かれ、悪い熊を退治するために成湯が行く。そう声を揃えて歌い上げた。


「何も踏まずに、前へ進むことは出来ない。それだけのことだ」


 翁面が杯を乾した。劉縯は翁面へ目を向けた。白髭を蓄えた老翁の面は、青銅の硬く冷たい面貌を見せるのみで、その奥に秘されているものを感じ取ることは出来ない。


「一つだけ――」


 劉縯は杓子に手を伸ばした。


「最後に一つだけ、いいか?」


 酒壺の中の酒を、劉縯は杓子で掬い上げた。翁面は手中の杯で酌を受けた。


「何だ?」


「顔を、見せてくれないか?」


 青銅の面の向こうにあるであろう翁面の眼を、劉縯は見つめた。翁面は不思議そうに首を傾げた。


「なぜだ?」


「あんたのことを何も知らないからだ。顔も、名も、男か女かさえも知らない」


「知らずとも、これまで障ることはなかった。知ったところで、これからどうなるわけでもあるまい」


「それは、そうかも知れないが、あんたは平気なのか?」


「何が?」


「おれが、あんたのことを何を知らないということがだ」


「平気だ」


「…………そうか、平気か」


 翁面に即答され、劉縯は俯いた。こんな気持ちでいるのは自分だけか、と酒を呷る劉縯を、翁面は何も言わずに眺めた。ふ、と溜め息とも微笑みとも判じがたい音が、翁面の口から漏れた。翁面は杯を置き、劉縯の左手を掴んだ。


破軍はぐん


 劉縯の掌に、翁面は人差し指で文字を書いた。


つわものどもを破る、と書いて、破軍」


 もう一度、翁面は劉縯の掌に文字を書いた。


「それが、予の名だ」


「破軍」


 劉縯は左の掌を見つめた。翁面が書いた見えない文字に、少しの間、目を凝らした。


「そうか。破軍というのか。あんたらしい、強そうな名だ」


「それから――」


 劉縯の掌を、翁面は斗篷状の外套の内側へ引き込んだ。幾重にも重ねられた絹の衣の奥に、薄いながらも男性では決してありえない柔らかさを、劉縯は感じた。

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