第九話

「劉稷、恐れるに足らず」


 武曲の声が、中庭に朗と響いた。


「あなたは今、剣を納める鞘を捨てた。あなたの剣は鞘から抜かれることのみを知り、再び鞘に納められることを知らない。納められることを知らない剣は、血気に逸るだけの匹夫ひっぷの剣だ。我、武曲は非才の身なれど、どうして匹夫の剣を恐れようか」


 匹夫、とは卑しい男、もしくは道理に暗い男という意味の言葉である。あなたの剣は凶暴で卑しい、と武曲に詰られ、劉稷は顔を赤黒く歪ませた。劉稷の頭髪が逆立ち、劉稷の髷に被せられていた冠を僅かに持ち上げた。怒りに任せて地を蹴り、武曲に剣を振り下ろした。武曲は後ろに跳んで剣を躱した。続けて薙ぎ込まれた剣を地に伏せるようにして避け、斜めに振り下ろされた剣を更に後ろへ跳んで躱した。劉稷は武曲を追い、前へ踏み込みながら二度、三度と剣を振り回した。沈み込むように身を低くし、武曲の足許へ剣を薙ぎ込み、薙ぎ込みながら左手で地面の土を掴んだ。跳ぶように身を起こしながら、左手の土を武曲の顔へ投げつけた。武曲は咄嗟に左腕を上げて顔を庇い、投げつけられた土を袖で受けた。武曲の視界が己の袖で塞がれた。卑怯だぞ、と劉縯が叫ぶよりも早く、劉稷は剣を武曲の顔へ突き込んだ。


 劉稷の剣に斬り裂かれ、武曲の頭髪が数本、宙を流れて地面に落ちた。劉稷は目を見開いた。劉稷の剣は武曲ではなく、武曲の顔の僅かに横の空間を徹り、武曲の後ろの柱を深く貫いていた。劉稷は歯を軋らせ、剣身が柄の近くまで柱の中に入り込んだ剣を、力任せに引き抜こうとした。


 武曲の右の拳が、劉稷の胸に押し当てられた。


 肺が押し潰されるかのような強い衝撃を、劉稷は感じた。劉稷の手が剣から離れ、劉稷の巨躯が数歩、後方へよろめいた。がくん、と劉稷の右の膝が崩れた。倒れ伏そうとした自らの体を、劉稷は地に右手をついて支えた。口から血を吐くように、数度、激しく咳き込んだ。堂上で見ていた人々が、何が起きたのか、と騒めいた。樊重の食客の一人が、寸勁すんけい、と呟いた。寸勁とは極めて小さな動作から繰り出される体当たりで、強靭な足腰を具え、且つ全身の筋肉を緩急自在に動かせなければ、自身より大きな相手を倒すことは出来ない。劉稷に膝をつかせたことから推察するに、あの武曲という娘は剣を持たせても能く使うはず、と樊重の食客は樊重に説明した。


 劉玄、字は聖公が、酒杯を膳に叩きつけた。


「立て、劉稷!」


 劉玄は顔を赤くして吼えた。劉稷は立ち上がろうとして、また咳き込んだ。咳き込みながらも立ち上がろうとしたが、再び地に右膝をついた。早く立て、と劉玄は劉稷を叱咤した。早く立て、と杯が倒れるほどに膳を乱打した。やめろ、と劉縯が制止の声を発した。もし武曲の手に匕首あいくちが握られていたら、劉稷は死んでいた。そう劉縯は言い、劉稷の敗北を認めるよう劉玄に促した。劉玄は両の眼を血走らせ、自らの食客たちに命じた。


「あの女を斬れ!」


 剣を鞘から引き抜く音が、劉玄の周りで連続して鳴り響いた。待て、と劉縯は制止しながら自らも抜剣した。他の樊氏、陰氏の護衛役の食客たちも、危険を察知して佩剣に手をかけた。給仕の女たちが悲鳴を上げ、場が騒然となる中、劉玄の食客たちは剣を振り上げて駆け出した。


 来るな、と押し止めるように、劉稷の左手が劉玄の食客たちの方へ上げられた。


 劉玄の食客たちは足を止めた。何をしているか、と劉玄の拳が膳を叩いた。早く斬れ、と食客たちを急かした。食客たちは躊躇し、互いに顔を見合わせた。劉稷が左手を下ろした。


「聖公――」


 また劉稷の口から咳が噴き出た。劉稷は胸に手を当て、時間をかけて呼吸を整えた。


「聖公、おれに、恥を掻かせないでくれ」


 劉稷の手が地面を強く押した。劉稷の体が上がり、劉稷の右膝が地面から離れた。一尺も離れない内に体が前へ傾いた。倒れかけた劉縯の体を支えようと、武曲の手が劉縯の方へ伸びた。手を出すな、と劉稷は目で武曲を制した。


「おれは――」


 一人の食客として、舂陵の豪傑として、これ以上は恥を晒せない。その一念で劉稷は立ち上がり、武曲と正面から相対した。


「おれは、剣を鞘に納めることを知らず、柱に剣を納めた。おまえの言う通りだ。おれは人が恐れるに足る勇士ではない。この勝負は――」


「勝負は無効です」


「何?」


「わたしは――」


 自らの衣に、武曲は手をかけた。


「――女ではありません。男です」


 武曲は諸肌を脱いだ。劉稷は目を見開いた。樊重が鄧晨に説明を求めた。宴の出席者を警護するために、少女のような容姿の武曲を給仕の女たちの中に潜ませたことを、鄧晨は明かした。武曲は衣を戻した。


「わたしは男であることを隠し、勝負に臨みました。正々堂々と勝負に臨んだとは言えません。それゆえ、この勝負は無効です」


 その通りだ、と劉玄が喚いた。女の振りをして油断を誘うとは卑怯だ、こんな試合は認められない、と膳を叩いた。劉玄の周りにいた者たちが、劉玄に冷たい視線を向けた。劉玄は更に膳を叩き、何だ、おれに何か言いたいことがあるのか、と周りを威嚇したが、尚も冷たい視線を向けられ続けると、沈黙して下を向いた。


「あなたは、負けていません。怒髪、上を指す。あなたは匹夫ではなく、樊噲はんかいの如き勇士です」


 樊噲、とは高祖劉邦に仕えた猛将で、絶体絶命の窮地に立たされた高祖を救い出したことで知られている。敗れた試合を無効にされ、更に憤怒で髪を逆立てた様を樊噲に譬えられたことで、劉稷の面目は保たれた。そのことに安心したからか、劉稷の両脚から不意に力が失われた。劉稷の膝が再び地面に着いた。劉玄の食客たちが剣を納めて劉稷へ駆け寄り、劉稷の巨体を両脇から支えた。劉稷は別室へ運ばれた。残された武曲は劉稷を見送ると、堂上を顧みた。静かに歩を進めて堂上へ戻り、昆吾を預けた劉秀の横を通りすぎ、劉玄の席の前で足を止めた。下を見ていた劉玄の眼が武曲を見上げた。


「何だ。何のつもりだ」


「あなたは鄧公に対し、言うべきことがあるはずです」


「……何のことか、わからんな」


 劉玄は横を向いた。おい、劉玄、と劉縯が声を荒げた。鄧晨が劉縯の肩を掴んで押し止めながら、武曲、もうよい、と武曲を制止した。武曲は鄧晨の制止を聞き流した。


「聞かれよ、劉聖公。今、あなたとわたしは数歩を隔てるのみで、遮るものは何もない。わたしの頸血を、あなたに注いでみせようか」


 頸血を注いでみせようか、とは、おまえと刺し違えて死んでやるぞ、という意味の慣用句である。先程の非礼を鄧晨に詫びないのであれば殺す、と脅迫され、劉玄は蒼褪めた。助けを求めて周りを見回した。劉玄の周りにいた者たちは一様に、自業自得だ、というように顔を背けた。ぎりぎりと劉玄は歯を軋らせ、蒼い顔面に汗を滲ませた。


「そこまでだ」


 樊重の声が広間に響いた。樊太公、と劉縯が声を上げた。樊重が劉玄を庇おうとしていると思い、抗議した。樊重は劉縯の抗議を無視して立ち上がり、武曲へ近づいた。


 樊重の両の掌が、胸の前で重ね合わされた。


「先生」


 武曲のことを、先生、と樊重は敬称で呼んだ。


「あなたと、あなたの主人に対して礼を失したことを、まずは詫びたい」


 昆吾の売買を断られたことに腹を立て、暴言を吐く劉玄を故意に放置したことを、樊重は謝罪した。まずは武曲に、次いで鄧晨に、樊重は頭を下げた。武曲と鄧晨は樊重へ揖礼を返し、謝罪の受け入れと恐縮の意を示した。樊重は武曲の方へ体を向き直らせた。


「先生、あなたと劉稷の闘いを見て確信した。昆吾は我、樊重ではなく、先生が持たれるべきであると。先生、どうか、先生のために、酒を酌ませてはもらえまいか」


 自らの席の方へ、樊重は武曲を導いた。武曲に杯を持たせ、手ずから杓子で酒を酌む樊重を見て、劉縯が肩を竦めた。


「呆れたな。何て変わりようだ」


「いや――」


 鄧晨が感銘を受けたように息を漏らした。


「――実に見事なものだ」


「見事? あの掌の返しようが?」


「孔子曰く、過ちて改めざる、是を過ちと謂う」


 自らの過ちを認めず、改善を怠ること。それこそが最も大きな過ちである、という意味である。


「樊太公は自らの過ちを悟り、態度を改めた。これは古の聖人の教えに適う」


 加えて、大漢帝国には遜ることを礼とし、年長者を敬うことを善とする文化がある。樊重は武曲の言動を観察し、武曲が礼を重んじる人物であることを知ると、即座に態度を修正して武曲に遜り、自らの非を認めて謝罪した。年長者の樊重に遜られたら、礼を重んじる武曲としては拒絶することは出来ない。そこまで見越した上で、樊重は武曲に頭を下げたのであろう。


「さすがは樊太公。思慮深い人だ」


「単に小狡いだけだろう」


「おい、伯升。樊太公は一代で巨財を成し、士大夫となられた人だぞ。それを――」


「冗談だよ。怒らないでくれ」


 劉縯は手を上げて鄧晨を宥めながら、改めて樊重の方を見た。樊重からそれほど離れていない席では、面目を保つ機会を逸した劉玄が、怒りで顔を赤くしていた。震える手で杯を掴みながら、武曲に報復することを誓った。如何にして報復したものか、考えながら杯を乾そうとした時、武曲と話していた樊重が殊更に大きな声を出した。


「先生、何か困ったことがあれば、湖陽の樊氏を思い出されよ。この樊重が先生の力になろう」


 武曲に手を出せば湖陽樊氏が相手になるぞ、という意味の言葉を、樊重は劉玄に聞かせた。劉玄は顔を蒼くした。杯を置いて席を立ち、酔いすぎて気分が悪い、と言い残して場を離れた。それを見た劉縯が、ざまあみろ、と悪態をついた。こら、と鄧晨が劉縯の脇腹を肘で小突き、悪態を窘めた。二人の横を、昆吾を抱えた劉秀が通りすぎた。劉秀は武曲に声をかけ、預けられていた昆吾を返そうとしたが、それよりも早く樊氏の食客の一人が武曲に話しかけ、自分にも寸勁を喰らわせてほしい、と目を輝かせながら頼んだ。自分も後学のために喰らいたい、と言い出す者が相次いだ。武曲は快諾して中庭へ下り、腕自慢の男たちを次から次へと転がした。転がされた男の一人が、どうすればそれほどに強力な寸勁を使えるのか、武曲に訊ねた。武曲は答えた。


「一に地を強く蹴ること。二に腕の力を脱くことです。腕に力が入ると、地を蹴ることで得た勢いが殺がれてしまいます。体に無駄な力が入らないよう注意しながら、自らの重さを相手に投げるような感じで――」


 次の男の胸を、武曲は掌で軽く押した。軽く押したように周りの者の目には見えたが、押された者は吹き飛ぶように後方へ転倒した。胸を押さえて体を起こしながら、凄い、凄い、と嬉しそうに連呼する男を、劉秀は自分の席から眺めた。やがて武曲が男たちを転がし終え、曲芸師たちが見世物の準備を再開した。曲芸師の一人が、あんなものを見せられた後では気が重い、と剽げた。あちこちで笑い声が起こる中、劉秀の席の近くへ武曲が歩いてきた。劉秀は立ち上がり、武曲に揖礼した。


「先生」


 外祖父の樊重に倣い、劉秀は武曲を先生と呼んだ。


「預けられていた昆吾です」


 抱きしめていた昆吾を、劉秀は武曲へ差し出した。武曲は微笑した。


「ありがとうございます」


 武曲は昆吾へ手を伸ばした。武曲の指が劉秀の手に触れた。劉秀は動揺し、武曲の指から目を逸らした。昆吾が劉秀の手から離れた。


「酌みましょうか?」


 劉秀の膳の上の空の杯を、武曲は見た。劉秀は杯を両手で取り、お願いします、と武曲へ差し出した。劉秀の杯に酒が注がれた。劉秀は杯に口をつけ、眉を複雑に曲げながら一口だけ飲んだ。杯を口から離し、ほ、と息をついた。


「先生が無事に戻られて、安心しました」


「危ういところでしたが、樊太公が穏やかに収めてくださいました」


「あんなことは、もうしないでください」


「それは――」


 武曲は中庭の方へ顔を向けた。


「――約束できません。己を厚遇してくれた人に、命懸けで報いる。食客とは、そうあるべきですから」


 微風が中庭の梢を揺らした。曲芸師たちの準備が整い、中庭で曲芸が始められた。笛が鳴り、大きな甕が棒の上で回され、宙に張られた二本の縄の上を人が跳び交い、人の頭の上に置かれた花瓶の花を投げられた短剣が撃ち落とした。劉秀の周りで喝采が起き、数人が膳の上の器を箸で叩いた。


「あの――」


 手中の杯を、劉秀は少しだけ強く握りしめた。


「――先生は、とても強いんですね」


「そんなことはありません、とは、今は言うべきではありませんね」


 武曲は苦笑した。


「しかし、敢えて申し上げれば、わたしは自らを強いと感じたことはありません。わたしより強い者は、天下に数多います。例えば、わたしの妹は、虎や熊と白手で闘うことが出来ます」


「虎と、白手で?」


 劉秀は目を円くして武曲を見た。武曲は頷いて更に続けた。


「鉄の鉤を、手で棒のように引き伸ばすことも出来ます。七頭の雄牛を、逆向きに引いて走ることも出来ます。並みの男では百人集まろうとも、あの子に勝つことは出来ません」


「それは、何というか、凄いですね」


 さすがに冗談だろうと思い、劉秀は顔を微笑ませた。武曲は劉秀に微笑み返した。劉秀は頬を赤らめ、顔を下へ向けた。


「先生は、お生まれはどこなんですか?」


関中かんちゅうです」


 漢帝国の帝都が置かれている地域である。帝国の北西部に位置しており、防衛に適した地形であることから、古代連合王朝を始め、この地域を領有した国家の多くが首都を置いた。


「今は塩の害で土が荒れていますが、昔は黄金色の粟畠が一面に広がっていたと聞いています」


「黄金色の粟畠ですか」


 劉秀は息をついた。南陽郡、及び劉秀が叔父と共に三年を過ごした沛郡は稲作が主流であり、劉秀は粟畠を見たことがない。しかし、地平の彼方まで広がる黄金色の粟畠が、風に吹かれて海原のように波打つ様を、劉秀はそこにいるかのように想像できた。


 中庭で曲芸が終わり、矢を壺の中に投げ入れて得点を競う、という遊戯が始められた。参加した酔漢の一人が、壺がふらふら動いているので矢が入らない、と文句を言い、隣にいた別の参加者が、ふらふらしているのはあんたの体だろう、と言い返した。大笑いする参加者たちを横目に、樊重が食客に酒壺と杯を持たせて席を立ち、陰氏の次期当主である陰識の前にどかりと腰を下ろした。


「騒ぎを起こしてすまなんだ。ご存知の通り、おれは成り上がり者だから、士大夫の礼節というものが身についておらんのだ。どうか許してもらいたい」


 樊重は杓子で壺の中の酒を掬い、陰識へ突き出した。陰識は手許の杯で受けた。


「ご謙遜を。樊氏の祖は、周のせん王に仕えた名臣、仲山甫ちゅうざんほであると聞いております」


「何の。その系図は、おれの父が借金の形で手に入れたものでな。我が樊氏は先祖代々、血も涙も無い高利貸しよ」


 がははは、と樊重は哄笑した。自分は吝嗇けちな高利貸しでは終わらなかった、という強い自信に裏打ちされた樊重の豪気さに、若い陰識は圧倒された。


「ところで――」


 樊重が自らの杯を陰識の方へ突き出した。陰識は少し慌て気味に杓子を取り、樊重の杯に酒を注いだ。


「――偉卿の姪が――」


 陰氏の当主、陰陸の後妻で、陰識の継母に当たる女性である。


「――娘を産んだと聞いたが」


麗華れいかのことでしょうか?」


 自らの異腹の妹の名を、陰識は口にした。ほう、と樊重は息を漏らした。


「麗華。陰麗華。美しい名だ。その麗華という娘は、幾つになる?」


「三歳になります」


「三歳か。では、そろそろ嫁ぎ先の世話をしてやらねばならんな」


「……………………………………………………………………………………は?」


 一瞬、何を言われたのか理解できず、陰識は目を瞬かせた。近くの席で話を盗み聞きしていた鄧晨が、含んでいた酒を噴き出して咳き込んだ。樊重は気にせず後ろを振り返り、秀や、秀や、と外孫の劉秀を呼んだ。劉秀は武曲とぎこちなく談笑していたが、樊重の呼びかけに応じて立ち上がり、樊重の近くに膝をついた。


「何でしょうか、樊太公」


「秀や、歳は幾つかね?」


「十三になりますが」


「そうか。いつまでも子供のように感じていたが、もう十三になるか。嫁を迎え、所帯を持つにはよい頃合だな」


「……………………………………………………………………………………え?」


 一瞬、何を言われたのか理解できず、劉秀は目を瞬かせた。少し離れた席で話を盗み聞きしていた劉縯が、含んでいた酒を噴き出して咳き込んだ。樊重は気にせず陰識へ向き直り、劉秀を紹介した。


「この劉秀は舂陵侯の族子で、農事に励む真面目な男だ。曽祖父は太守たいしゅ、祖父は都尉とい、父と叔父は県令、母は樊氏の女、姉は鄧晨の妻。早くに父を亡くし、今は叔父に養われているが、これほど血縁に恵まれているのだ。いつの日か必ず頭角を現し、南陽で重きを成すことは間違いない。新野の陰氏が大切な娘を託すに、これ以上の者はいないと思うが、如何か?」


「あの、それは、その――」


「そもそも!」


 狼狽する陰識へ、ずい、と樊重は顔を近づけた。


「此度の郷挙里選で樊氏と陰氏が揉めたのは、我らの縁が些か遠いために互いの動向を知らずにいたからだ。この劉秀に陰氏の女を嫁がせれば、我らの縁はこれまでよりも近くなり、此度のような間違いは起きなくなる」


 そうであろう、と樊重は陰氏の食客たちに同意を求めた。若い陰識を補佐するために出席していたはずの食客たちは、百戦錬磨の樊重に圧され、仰せの通りです、と頷いた。陰識は孤立無援に追い込まれたが、しかし、と懸命に抗弁を試みた。


「しかし、麗華は、妹は、まだ三歳です」


「劉秀は十三歳だ。十三歳と三歳。実に似合いの夫婦だ。秀も、そう思うだろう?」


「え? あ、その――」


 急に話を振られ、劉秀は慌てた。


「――ええと、そう、そうですね。十三歳と三歳。韻を踏んでいて、よいのではないかと思います」


「よいわけあるか!」


 ようやく呼吸を整えた劉縯が、ばん、と掌で膳を叩いた。眦を決して席を立ち、ずかずかと樊重に近づいた。


「樊太公、秀は劉氏の男です。樊氏の男ではない。勝手に婚姻を決められては困る」


「弟の嫁が陰氏の女では不満か?」


「それは、そういうことではなくて、秀が誰を娶るかは、あんたが決めることでは――」


「秀は、どう思うかね?」


 樊重は劉秀へ目を向けた。


「己の嫁が陰氏の女では不満かね?」


「そんなことは。むしろ、僕なんかには勿体ないと――」


「そんなことはない。秀は高祖の末裔だ。舂陵侯の族子で、二千石の家の子だ。些かも見劣りするものではない」


 そうであろう、と樊重は陰氏の食客たちに同意を求めた。仰せの通りです、と陰氏の食客たちは同意した。


「だから、余計なことは気にせず、己の思うところを言いなさい」


「僕は――」


 劉秀は俯いた。


「僕は、その――」


 口を開きかけては閉じることを、劉秀は数度、繰り返した。顔を上げ、弱々しく微笑んだ。


「――その、皆さまのためになるのであれば、異存はありません」


「よし、決まりだ。若い二人に幸あれ」


 樊重は酒杯を掲げた。話を勝手に進められ、陰識はいよいよ狼狽した。


「お待ちください。そのようなことを急に言われましても、父に何の相談もせず、決めることは出来ません」


「それは当然のことだ。偉卿」


 こちらへ来い、と樊重は鄧晨を呼んだ。鄧晨は冷汗が噴き出た顔で席を立ち、樊重の近くに膝をついた。樊重は鄧晨の手を両手で握りしめた。


「この話をまとめるのは、おまえに任せる。樊氏と陰氏のために、また、おれの外孫であり、おまえの妻の弟でもある秀のために、よろしく頼む」


 承諾するまで帰さない、とばかりに樊重は手に力を込めた。鄧晨は泣きそうになりながら、承りました、と答えた。

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