二十九の星 -後漢光武帝戦記-
真崎 雅樹
第一章 大漢帝国滅亡
第一節 重瞳の人
第一話
父は
父の遺体は、庶民から見ればそれなりに立派な、しかし、皇帝の外戚としては慎ましすぎる墓に葬られた。父の墓前で、王莽は兄に言われた。
偉くなろう。それが父への、何よりの孝行になる。
父の死後の生活は、経済的には決して苦しくはなかった。王莽の兄は既に帝国政府に仕官しており、一家を餓えさせず、且つ子弟に高等教育を受けさせられるだけの収入を得ていた。しかし、贅沢は出来なかった。そして、諸侯に封じられた叔父たちは、その立場を利用して不当に財を蓄え、ある者は皇帝の宮殿を模した豪邸を造り、また別の者は帝都の城壁を無断で穿ち、そこから河川の水を引き入れて舟遊びに興じるなど、贅沢三昧の日々を送っていた。
父の墓は、あんなにも小さいのに、なぜ叔父たちの邸は、こんなにも大きいのか。叔父たちの邸の前を通るたびに、王莽は邸の門を見上げ、虚しい自問を繰り返した。
父の死から六年後、兄が死んだ。叔父たちに早く追いつこうと、父譲りの体で無理を重ねたことが命を縮めた。同年、叔父たちが爵位を
「子曰く、天地の性、人を
兄の死から五年後、未だ世に出られずにいた王莽に転機が訪れた。大漢帝国の
数日後、皇帝が大司馬の枕頭へ使者を遣わした。皇帝の使者は病が篤くなる一方の大司馬に対し、もし大司馬の身に万一のことがあれば、大司馬の弟たちの中から次の大司馬を選ぶつもりであるが、大司馬はそれで構わないか、という皇帝の問いを伝えた。大司馬は細い息を懸命に振り絞り、皇帝の問いに答えた。
あの愚弟どもを、大司馬にしてはならない。
王莽の伯父――大漢帝国の軍務長官という要職を十年以上も占め、その間、一門の不祥事の揉み消しに奔走させられた男は、己の弟たちが如何に強欲で驕慢であるかを使者に説明した。あの者たちを重用すれば国政が乱れる、と断言し、一門の傍流の男を自らの後任に推した。
翌日、王莽が再び伯父の邸を訪ねると、伯父の病床の周りから高貴な叔父たちの姿が消えていた。王莽は伯父と直に会うことが出来た。数年ぶりに見た伯父の面差しは、父のそれに似ているように見えた。その日、王莽は帰宅せず、伯父を看病した。伯父の額に汗が浮かべば素早く拭き取り、伯父の唇が乾けば水を含ませた布で湿らせた。薬湯を飲ませる時は自らが先に味見し、熱ければ扇いで冷まし、冷めていれば温め直した。次の日も、その次の日も、昼夜を問わず、伯父を看病した。
二十日と数日が過ぎ、伯父は死んだ。伯父の死後、王莽が喪に服していると、皇帝の使者が王莽の許を訪れ、王莽が皇帝の護衛官に任命されたことを伝えた。死んだ伯父の推薦であることを、王莽は皇帝の使者に教えられた。王莽は皇帝に仕える若き官員の一人となり、程なくして近衛軍の精鋭弓兵隊長に抜擢された。
王莽の立身は続いた。王莽が近衛軍の隊長に任命されてから数年後、当世の名士として声望を得ていた官僚たちが、王莽を諸侯に封じるよう皇帝に上奏した。曰く、王氏一門は皇太后の権威を恃んで勝手気儘に振る舞い、法律や道徳を蔑ろにして奢侈に耽る者が多いが、王莽は清貧を貫いて仁の道を実践している。王莽は人格高潔の士である、と名士らは称賛し、また王氏一門からも、王莽の叔父の一人である
王莽は世襲の爵位と領地を与えられた。官職も皇帝の諮問官へ栄転した。父の死から十七年が過ぎていた。王莽は父と兄の墓を諸侯の格式のそれに造り直し、諸侯としての
しかし、ようやく兄との約束を果たした王莽を、またしても不幸が襲った。これまで不本意ながらも王氏一門を重用し、その度重なる不正行為を見逃していた皇帝が崩御した。新たな皇帝の即位によって新たな外戚が登場し、王氏一門は瞬く間に権勢の座から追い落とされた。王莽も当初は現職に留まることが出来たが、帝室の席次や宗廟の制度を巡る政争に敗れ、職を辞すことを余儀なくされた。
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