第34話 アイロンがけ
「ハンナさんたち、長く潜ってるな」
あれから1週間が過ぎ、でもハンナさんたちが戻ってこない。「たぶん10日くらいで一挙に攻める」って言ってたから、本格的に攻略をしている。だから、問題は起きていないと思うんだけど、夜は一人なので少しだけ寂しい。ゴボスさんもケージさんもまたお仕事で数日いない。
そんなことをつぶやいたら、「レッドがしばらく一緒に居てくれるって」とロウくんがレッドをボディーガードにしてくれた。
「まあ、今は君に守られてあげますか」
ぷにぷにとレッドが喜んでいる、ような気がする。
アルバートさんの服やシルクハットは2日で仕上がったので、このダンジョンで回収されていた衣類をクリーニングし続けていた。
1週間経ってから、アルバートさんが受け取りにやってきた。
黒い衣装なので傍目からはなかなか気づかれないけど、アルバートさんはご満悦のようだ。初めての衣類は受け取ってもらう時が一番緊張するのはいまだに慣れないことだ。
「そういえば、アルバートさんって何のお仕事をされてる方なんですか?」
「うん? 僕に興味あるの? そうだなあ、チカちゃんと同じかな」
「綺麗にする仕事ですか?」
「そうそう、綺麗にするお仕事だよ。特殊なスキルでね。僕も末裔なのさ」
アルバートさんも地球からやってきた人の子孫のようだ。特殊なスキルということは空間系のスキルなのかな。
「それじゃあ、ありがとうね」
握手をするそぶりを見せたので私も右手を出して握り返した。一瞬だけアルバートさんが力を入れたように見えたけど、別に手が痛いわけでもない。変な仕草をする人だなあ。
「またご利用ください」
そう言うとアルバートさんはどこか満足げに去って行った。まだここに滞在するんだろうか。ダンジョンの掃除屋みたいなものがあったりするのかな。
「あ、まだ仕事を始めるって決めてないのにまた来てくださいって言っちゃった。まあ、アルバートさんの衣類ならもう大丈夫だからいっか」
――コンコンッ
「ん、アルバートさんかな?」
入り口の鍵を開けると、鍛冶屋の男性が立っていた。まだ挨拶はできていないけど、横顔と格好で判断できた。
「いらっしゃいませ、何かご用でしょうか?」
「忙しい時にすまない。ちょっと相談に乗ってほしいんだが」
「?」
とりあえず悪意はなさそうなので店内に案内した。
鍛冶屋のミラーハさんは、40才くらいの人かな。
ご先祖が地球から来た人ではなくて、普通にこの世界の人のようだ。ただ、空間系スキルはあって、鍛冶屋を営んでいる。
空間系スキルを持っている人のすべてが地球から来た人と縁があるわけではないようだ。まあ、私がそういう先祖がいるという風に見ている人は多いかもしれない。
「それで、ご相談というのは何でしょうか?」
「俺は剣や防具以外にも布を扱ってるんだが、皺の処理の仕方がいまいちよくわかってないんだ。たいていは上手くいくんだがな」
「皺ですか。ちょっとわからないところもあるので、ミラーハさんのお店に行かせてもらっていいですか?」
鍛冶屋に向かって歩きながら話をした。ミラーハさんは端的に言えば、綺麗なアイロンがけをしたいということのようだ。ラーメン屋でラオウさんから私のことを聞いたらしい。
「さあ、ここが俺の工房だ」
今は落ち着いているのか、冒険者の人たちが武具や防具を持ってきていないようだ。ただ、徹夜明けなのか、ミラーハさんの表情が非常にくたびれていて、顔にアイロンがけをしたいくらいだ。仕事中毒なのかな。お弟子さんたちも床に寝ていたりする。
「
「なんだ、知っていたのか? だったら話が早い」
クリーニングの歴史を学んでいた時に、アイロンの歴史について祖父が語ってくれたことがあった。
たとえば、奈良県では5世紀頃の古墳から青銅製の火熨斗が発見された。
火熨斗は
焼きごても今のアイロンの形に似て、直接温めてそれを布に当てていた。
この世界には電気アイロンはないようなので、一般的に皺を伸ばす場合にはこういうものを使っているようだ。ただ、温度の調整が難しいだろうなとは感じていた。
古着とか今使っている衣服にアイロンを当てる人は少ないけど、ミラーハさんのような職人さんは新品の衣類を売りに出すわけで、できる限り皺の目立たなく、折り目にはきっちりしたものを納品したいそうだ。
「だがな、どうもこれだけは昔から苦手でな」
「ああ、わかります。私も最初は不慣れでした。今でもまだまだだなと感じますけど」
一人で過ごしていた時に祖父がアイロンを当てていた動画を何度も見返していた。こればっかりは本当に経験の差が激しいなと思う。何度か祖父以外の人がアイロンを当てている動画を見たり、研修で実演を見たけれど、この域に達するにはまだまだ先が長いなと思ったものだ。
「えっと、つい先日もこのスライムのレッドにも教えたんですけど、布の素材によりますが、適度な水分と適切な温度と、そして重さや圧力が大切ですね。このどれがかけても良くないというか、3つのバランスと布の性質とを考えながら私はいつもアイロンがけをしています。これに加えてさっと冷やす、そんなのができればいいですが、ちょっとこれは難しいですね」
襟とか袖とか、ボタンのあるところは特に難しいけれど、アイロンをかける順番も重要で、小さなパーツから大きなパーツ、この順番が綺麗に仕上がると思う。
この世界のお貴族様なんかの服を見たけれど、専門の人がたぶんいるんじゃないかな。
「水分に温度、重さか」
「はい。焼きごてを使ってらっしゃいますけど、もう少し重さというか力を加えたり、あとは皺になっているところにシュッと霧吹きするとか、そんなことをするだけでも仕上がりが整うと思いますよ」
水分を含むと皺がなくなるのは、繊維が水分子を含むからだけど、繊維と水分子との結合の問題であり、その状態から適切な形にしたまま熱を加えて蒸発させると形が維持される。
ミラーハさんの前にはまだよれよれになっている服がある。それにレッドが近づいていった。この素材はレッドもアイロンがけしたことのある布だ。
「ほお、スライムなのにここまでできるとはすごいな。俺よりも上手いじゃないか」
レッドは褒められ慣れていないのか嬉しそうに照れた反応を見せている。
ミラーハさんの言葉通り、レッドは見事にアイロンがけをしている。これなら自慢をしてもいいくらいだ。
それからはミラーハさんに店に来てもらって、実際のアイロンがけをしているところを見せた。
「待て、こんなに重いのか?」
「はい、見た目以上にあるでしょう?」
アイロンは小回りのきくものもあるけれど、重い物になると6㎏くらいの電気アイロンもある。圧力というのはこのような力のことだ。綿とか麻だとこういう力がものをいう。
ただ、最近では重くなくても仕上げを綺麗にすることのできるアイロンも出ていて、性能が良いというか、科学技術の恩恵を授かっているものが多いけど、カミジョウクリーニング店では古いタイプのものをいくつか使い分けしている。
予算があれば、購入をしたい。さすがに重いので疲れる。けど、もう少し先かな。
ミラーハさんは御礼といって、包丁を作ってくれた。「何か必要なものはないか?」と言われたので、最近切れ味が悪くなった包丁が思い浮かんだのでそう伝えると、次の日には見事な包丁を作ってもらえた。
一日で包丁ができるのは信じられなかったけど、一本だけ余分というかキャンセルになったものがあって、それに手を加えたもののようだ。
「器用なんですね」
「これは俺の師匠のな、『何でも作ってみろ』っていうのが教えにあって、独り立ちしてからも極力何でも作るようにしてるんだ」
話をうかがうと、ミリーフの町のヨークさんのお爺さんが師匠で、ヨークさんは弟弟子あたるそうだ。
「ヨークさんはご自分の専門は短刀だと言っていました」と伝えると、一笑して「あいつはまだまだだ」と言っていたので、ヨークさんが作った包丁よりもおそらく性能が優れたものなんだろう。
折りたたみ傘のことを話すとミラーハさんも興味津々で、ああやっぱりあの工房出身の人だなあと思って、つい笑いがこみ上げてきた。
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