④ 3/2階

アラームの音に目覚める。

ゴロつく眼球、腫れた目、TVの音、世界はグルグル回るようだ。


地下鉄の薄ぼんやりとした暗闇から近づく電車。

いやでも昨日の事を思い出す。

甲高いホーンにハッとする。


騒々しいオフィス、モニターの文字は歪んで象形文字のように見える。デスクにドンっと衝撃が伝わる。

右側に上司が立っている。デスクを蹴飛ばされたみたいだ。


「おいてめえ、さっきから呼んでんだよ。聞こえてねえのか?」


上司の顔を見上げる。

逆光で顔がよく見えない。


「ーーー!!ーーーーーーーーーー!?」


怒鳴り散らしているようだが、うまく聞き取れない。


耐えかねてデスクから立ち上がり、歩き出す。

一度トイレに行こう。気分が悪い。眩暈がする。

背後から怒鳴り声が聞こえる気がするが、歩き続けた。


駆け寄る若い女に声をかけられる。

「吉岡さん、大丈夫ですか?」

返事ができない。この子誰だっけ。


「吉岡さん、疲れてるんですよ。」


ハッとする。

トイレの個室、便器に座り頭を抱えていた。

気分が悪い。

どうあれ体調不良という事で早退しよう。そう心に決めた。

深くため息をつき個室を出る。

手を洗い濡れた手で顔を拭う。

排水口からは散歩帰りの犬のような生臭い臭いがした。



ドンっという衝撃でハッとする。


「おい吉岡ぁ、てめえふざけてんのか」


デスクの右側に上司が立っている。

信じられない、もしかして寝ていたのか。

動揺で声が出ない。


「ありえねえだろ、仕事中だぞてめえ」


「えっ、あっ、あの」


「昼休憩入ったら下の会議室来い」


そういい残すと上司はどこかへ消えた。

絶望的な気持ちで仕事を再開する。

いつのまに寝ていたのか、どんなに寝不足でも今までこんな事は無かった。


「吉岡くん、疲れてるね」

定年間近の老社員が憐れむように言う。


昼休憩まではあと5分程、会議室に行くためエレベーターに向かう。

ボタンを押しエレベーターを待つ。どれだけ説教されるのか、何を言われるのか。


エレベーターに乗り込む。

2個下の階のボタンを押し壁に寄りかかる。

疲労と不安で頭の中がゴチャゴチャになる。


「…最悪だよもう」


床が抜けそうな程のため息を吐く。

とにかく何も考えず平謝りするしかない、そう心に決めた。


顔を上げてエレベーターの扉を見つめる。


「着くの遅いな」


止まっているわけではない。動いているのを微かに感じる。

エレベーターの階数表示を見る。

[3]の表示が上に流れるとまた[3]が上がってくる。

故障だろうか、不安に駆られる。


とにかく全ての階のボタンを押す。光がつかない。

開くボタンも反応がない。間違いなく故障だ。

外部通信のボタンを生まれて初めて押す。

経験が無いので分からないがなんの反応もない。


息を殺して音と感覚に集中する。

エレベーターは間違いなく動いている。

正直上がっているか下がっているかはよく分からない。


動いている以上、上か下のどちらかで限界はあるはず。

動き続けるはずはない。

だとすれば床か天井にぶつかるのか、ケーブルが切れるのではないか。

初めての経験に半ばパニックになる。


エレベーターの階数表示を見る。

[3]の表示が上に流れるとまた[3]が上がってくる。


「…また夢なんじゃないか、さっきからずっと、夢だろ」


瞼をギュッウウっとつむる。なにも起きない。

目を開ける。エレベーターの階数表示を見る。

[3]の表示が上に流れるとまた[3]が上がってくる。


エレベーターは何かにぶつかることもない。


「ほんとは動いてもないのか?」

自分の感覚が信じられなくなる。


「誰かーーーー!」

「エレベーターに閉じ込められましたー!!」

「助けてくださーーい!」

「誰かーー!!」


しばらく呼びかけてみたが何もない。

エレベーターのドアを力任せに叩く。


ドンドンッ、ドンドンッドンドンドンドンッ


「誰かーーーーー!!」


なんの変化もない、人の声も聞こえない。


もう間も無く昼休みになるから誰かエレベーターの異常に気づくはず。

いっそこの中で気でも失えば上司の説教も受けずに済む。

そんな虚しい事を考え始めた。


大声を出したせいで頭が痛い。

壁に背中を押し付けズリズリと座り込む。


階数表示に目をやる。

[3]の表示が上に流れるとまた[3]が上がってくる。


「どうなってんだよ、ほんと」

「ずっと夢なんじゃないのかほんとは」


バシッ

右手で顔をはたいてみる。

あまり痛くないような気がする。

目をギュウっとつむる。何も変わらない。

夢なのか?夢ならなぜ覚めない。


微振動する閉鎖的な空間で、ゆっくり流れる階数表示を見つめていると、不思議と眠気がやってくる。

このまま寝てしまおうと瞼を閉じかけた時、変化があった。


「…止まった?」


気のせいではない振動も音も動いている感覚もない。

急いで立ち上がり開くボタンを押す。

扉は開かない。

両手で力いっぱいドアを叩く。


「誰かーーー!!誰かーーーー!!」


なんの反応もない。

階数表示は消えている。


ボタンを全部押す。

なんの反応もない。


ドアを見つめる。

なぜだろう、不意にドアの隙間から言いようのない恐怖を感じる。

怖い、声を上げそうになるほど。

隙間から恐怖が靄のように箱の中に流れ込んでくるような感覚。

目が離せない。

体を後ろの壁に押し付け逃れようとするも、ジリジリと恐怖が迫り来る。


その時、あまりに静かにドアが開く。


少しずつ見えてくるのは、

コンクリートの壁でもない、エレベーターホールでもない。

ただ真っ黒な空間。


腰を抜かして、床についた腕が震える。


怖い。怖い。怖い。

吸い込まれるような暗闇に目を逸らせない。

全身を恐怖に支配されると、

ついに堰を切ったように喉の奥から悲鳴が湧き上がる。



自分の不気味な声で目が覚める。

とまどい、状況が飲み込めない。

体は吊り革に体重を預けていた。


電車で立ったまま寝ていたのか。


先程までの恐怖心を羞恥心が飲み込む。

絶叫したわけではないだろうが、

電車の中で発するにはあまりに大きな声だった筈だ。

周囲の乗客の視線が痛い。少しざわめいてもいる。

目の前の席に座っていた若い女は怯えたような表情をしている。


恥ずかしさに耐えられない。

車輌を移動できるほど空いていないし、次の駅につく気配はない。

気まずさに押しつぶされそうになりながら、吊り革に捕まる腕に顔を隠した。

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