第16話 妖精の帰還




 リディアが再び王宮の限られた部屋に籠る日々を過ごしている内に、雪は降らなくなり、わずかに端に残っていた雪は溶けていった。

 外に出ることはあれから一度としてなく、妖精の光はリディアの周りにはひとつとしてなかった。「お伽噺とぎばなしの世界」で皆眠ってしまったのだ。

 彼らがどういう状態にあるのかリディアに詳細を確かめる術はなく、ひたすらに不安に堪え忍び待つ日々が続いていた。


 季節は巡りつつあった。

 戦の状況を知らせる使者は何度か来れど、戦が終わったという肝心の報せは中々やって来なかった。



   ◇



 ようやく戦の勝利と終わりの報せが運ばれてきたときには、すでに季節は移り変わっていた。


 ――リディアの「妖精」は春の訪れと共に帰って来た


 今日ばかりは一日授業は休みとなった。

 軍隊が街中を通り、正門を通り帰ってきたことを城の高いところで見ていたリディアは、最後の最後まで見送ってから走らずに下に降りる。

 上から見ていても、グレンがどこにいるかは見えなかった。


「グレンは無事だとのことです。人を呼びに行かせましたから、じきに来ますよ」


 部屋で待ってはという提案に首を真横に振り、リディアはただひたすらに待つ。

 待ち遠しくて仕方がない。帰ってきていると知っているから、早く会いたい。可能なら走って見つけに行ってしまいたいくらいなのだ。

 けれどもちろんそうするわけにはいかないもので、どれくらいの時間は分からないがじっと一方向に視線を定めて一歩も動かず待っていると――彼は姿を現した。


 リディアにとっては途方もないほど前に目にしたあの鎧姿ではなかった。見慣れた軍服だけの姿で、グレンはリディアが見つめる先からやってくる。

 その姿を認めたリディアは、見間違いではないかと目を大きく開く。間違いない。

 そうと分かれば近くまで来るのを待ちきれず、リディアは走り出す。後ろで宰相や侍女が何か言ったが知ったことではない。

 真っ直ぐに、待ち続けた彼の元に駆け寄る。


「グレン……!」

「殿下、危ないですよ」


 少しも勢いを弱めることなくリディアが突進すると、受け止められ、懐かしい声がそう言った。

 まるで戦から帰ってきたとは思えない、長く離れていたとは思えないほどに自然に言った。

 けれど、その姿には行っていた先を物語るものがある。少し汚れが目立ち、怪我をしたのか白いガーゼの貼られた顔。それに痩せたのではないだろうか。衣服と軍靴も汚れている。

 しかし、それ以外――表情は柔和な笑顔で変わらない。


 今度はどこにも行ってしまわないようにとしっかり軍服を握りこんだリディアは、受け止められて近くでグレンの顔を見て力が抜けそうになる。

 寄りかかってそれでも腕でぎゅうと抱きつくと、ぼろぼろと涙が出てきて、視界がぼやけていくではないか。


「どうしてお泣きになっているんです?」

「グレンが、帰ってきたから」

「俺が帰ってきたから?」

「グレンが、側にいるって言ったのに。……側にいなかったから」


 不安で不安で。どれだけ不安だったか。

 心配で心配で。どれだけ祈ったか。

 全てを言葉にはできなくて衣服を引っ張ることで、背を向け出ていってしまったっきりだったグレンに訴えると彼が膝をつき、顔が近くなった。


「それに関してはすみません。でもね、殿下」

「なに」

「帰ってくると、言ったでしょう?」

「でも……遅い……」

「それもすみません」


 涙を指で拭われ頭を撫でられ、そのまま頭を引き寄せられて抱きしめられる。


「ごめんね、不安にさせて。けれど、もう大丈夫だから。あなたを傷つける者はもういない」


 そうじゃない。リディアはグレンが近くにいてくれるならそれでいい。きっとそれは「王」となる者の思考にはふさわしくないのだろうけれど、心の中では言わずにはいられなかった。

 また、しがみつかずにもいられなかった。ここにグレンがいるのだと、夢ではないと実感する。

 もう、漠然と悪く恐いものだったと分かる夢も見ないだろうか。


「お帰り、グレン」

「ただいま帰りました、俺の殿下」


 リディアの元にグレンは帰ってきたのだから。


 現実を確かに認めるべく言葉を呟くように言うと、囁きの返事が耳に届いた。その数秒だけ、抱きしめる力が強まった。

 その状態で中々止まらないリディアの涙が止まり、逃がさないとばかりにしがみつくことを止めるまでグレンは柔らかく優しく背をさすり、包みこんでくれていた。




 やがて泣き止み、鼻の赤くなったリディアが証拠隠滅のため鼻を擦っているところを「もっと赤くなりますよ」と止めたのはもちろんグレンだった。


「ここでずっと待っていてくれたんですか?」

「……うん」

「部屋で待っていてくれたら、俺が行ったのに」

「……そうしたら、会えるのが遅くなるから」


 早く会いたかったのだ。

 そう素直に明かすと、グレンは目を丸くして、再び優しい笑顔を浮かべた。


「では一緒に部屋に戻りましょうか」


 リディアがうなずき、二人で立ち上がったところで一歩も進まないうちにグレンが「あ、でも俺は着替えていった方がいいかもしれない。殿下に会いたくてそのまま来たけれど、汚れているので」と言うので、リディアはすぐさま「大丈夫」と言った。

 せっかく帰ってきたのに、そんなこと気にしなくてもいい。元よりリディアにとってはそんなこと些細なことだ。


 すると「怒られませんか?」と首をかしげて尋ねられたから、今度こそリディアは彼を真っ直ぐ見上げて自信満々に言ってやる。「大丈夫」と。

 するとグレンはくすくすとおかしそうに、嬉しそうに笑った。

 その隙にリディアがちらりと近くにいる侍女を窺うと、微笑んで頷かれる。許可はとれて、リディアは満足だ。


「お言葉に甘えさせてもらいます」

「うん」


 リディアは鷹揚に頷いてみせて、改めて歩きはじめる。向かうのは、リディアの部屋だ。


「そういえば殿下、淑女におなりになりました?」

「分からない」


 たぶんなっていないだろう。

 彼がいなくても頑張るには頑張ったが、まだまだほど遠いに違いない。

 そういえば「驚くような淑女になっていて」と言われていったのだった気もする。と、そんなことを言われてから思い出したが、あれは一方的な約束だ。それにこれからもっと頑張ればいい。


「大丈夫、これからなるから」

「それは楽しみです」


 自信満々につけ加えると、微笑みが返る。当たり前にそうされることが、リディアは嬉しくて仕方がなかった。

 にこにこと昨日までとはうってかわって笑っていたリディアだったけれど、突然思い出されたことがあって、笑顔を若干曇らせる。


「どうしました? 殿下」

「グレン、何ともない?」

「俺が?」

「うん」

「何とも、とは」


 妖精公爵のことを思い出したのだ。

 最後には話が噛み合わなくて呼びかけても、かの妖精は話し続けていて、グレンのことを頼まれた。


 グレンは妖精なのだと。

 妖精は血の穢れには弱いのだと。

 そして、グレンが行っていたのは――。


 けれどリディアを上から見ているグレンは意味を図りかねている様子で、首を傾けている。

 妖精公爵のことも言わなければ。けれど今は。

 緑の瞳が穏やかなものだったから、リディアは「何でもない」と今は話をなかったことにした。


「また外で遊んでくれる?」

「そうですね暖かくなりましたから。喜んで」

「また外でかくれんぼしよう」

「殿下は本当にかくれんぼが好きなんですね」

「好きなのもあるけど……グレンに勝てないから!」

「そうでしたね」


 笑える時が宝物のようで、リディアも満面の笑顔になる。

 並んで歩いて靴音が心なしか楽しげに響き、リディアは一気に自らを取り囲む空気が柔らかくなったことに気がつき、耳を澄ませていた。


 グレンが帰ってきたという事実を、どうしようもなく噛み締める。


 その上でもうどこにも行かない? と聞いておこうと思い立つ。

 もう、どこにも行かないと彼から聞いておきたかった。今度そうなることがあれば、言ってやるのだ。あのとき、確かに聞いたと。


「ね、グレン」


 しかし、すぐに優しく応じてくれるはずの彼の返事は返ってこない。


「グレン?」


 横を見ると、並んでいた姿はなかった。

 立ち止まって目を横から後ろへ、その姿を探す。軍服はわずか斜め後ろにあり、容易く見つかったことにリディアは安堵する。


「どうし――」


 横を、何かが通った。大きく、黒いものが。

 それはリディアの視界を横切った。

 視界の真ん中に入っていた姿が一瞬後、重く硬い音を立てて――倒れたことを遅れて理解する。


「グレン!!」


 リディアは叫び呼んだ。

 駆け寄り、冷たい石の床に両ひざをついて倒れたグレンの状況を確かめる。


「グレン、どうしたの!?」


 床に倒れたグレンは揺すっても揺すっても動かない。顔を覗きこんでも、瞼は閉じられ反応はない。

 怪我を負っていたのだろうか。けれど、それほど大きな傷を負っている様子はなかった。それならばなぜ。

 肌に触れてみても熱はなく、むしろ冷えて――


「冷えて、る?」


 リディアは愕然として、震える手をグレンから離した。









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